第16話 クリーンファイター 2
「今日は、朝十時からお客さんに会ってくるから」
朝食の時、ジョセフはマムに言った。
「分かった」
と、マムは言った。
実力も経験もない自分に対して何か見下げるような発言をするかと思っていたのだが、マムはそんな言葉を一切言わなかった。
ジョセフは不安からか、吐きそうになるのを必死にこらえながら、青白い顔でいると、マムは笑顔を作った。
「何、大丈夫よ。ほら、しっかりして、自信もって」
そう気にかけてくれるマムに、ジョセフは少し気持ちが和らいだ。悔しいけど仕事という経験の先輩が言うのだからと、心の中で無理矢理納得させた。
「行ってらっしゃい」
と、家を出る際に、声を掛けられ、ジョセフは重い足取りで目的地まで向かった。
電車で一時間。一人で電車を乗るのも初めてのことだった。なので、今日は全てが初めてだった。
依頼主は三十代の男性だった。インターホンを鳴らして、顔を合わせた時、ジョセフの緊張はピークに達した。
「あ、今日掃除させてもらう、ジョセフと言います。よろしくお願いします」
ジョセフはどう接したらいいのか頭の中でグルグル考えた結果、とにかく明るく接したら何とか一日終わるだろうと答えが出て、早速実践した。
「ああ、よろしく。上がってくれ」
その髭を生やした黒人男性ウィリアムは、慣れた感じで、中に入った。ジョセフも続く。
依頼主の部屋はかなり散らかっており、しばらく掃除をしていない。その為、安価のハウスクリーニングを探していたらしく、たどり着いたのが、ジョセフの掲示板だった。
ジョセフは年齢を隠していた。何故なら、十四歳の少年が掃除をするなんて、誰が依頼を受けたいと思うのだろう。途中で抜け出すかもしれないのに。
ただ、ジョセフは自分が得意とする掃除だけは、絶対に妥協はしないでおこうと思った。
――だが、実際見た現場は、妥協したくなるものだった。
「ウィリアムさんですよね。本日はよろしくお願いします」と、ジョセフは丁寧に頭を下げた。「早速何ですが、この家を片付けていいんですね?」
「ああ、もちろん」
ウィリアムはその時、初めてジョセフの顔を見た。タバコを吸っていたのだが、思わず手が止まり、驚いた表情で言った。
「君、まだ未成年だよね?」
ジョセフは顔立ちから、到底隠せるものではないと頭を掻いて、
「すみません。学生時代にいろんな勉強を学びたくて」
そう気さくに話すが、内心は心臓がバクバクしているくらい、緊迫したムードに張り裂けそうだ。
「まあ、部屋を掃除してくれるならいいけど。俺の家はワンケーだから。見ての通りかなり散らかってるんで、よろしく」
「はい、よろしくお願いします」
掃除は予定通り朝の十時から開始した。一つひとつウィリアムにいるものなのか確認して、ゴミ袋に入れていく。
しかし、部屋に入ってから思っていたことなのだが、独特の異臭が漂い、刺激が強すぎて思わず鼻をつまみたくなる。
部屋にはカップラーメンやコンビニ弁当を食べた後の容器、飲み差しのペットボトルに入っていたジュースらしきものが、色を変えている。中に何だか小さな固形物が見えている。
テレビやパソコンは埃被っている。この部屋でよく毎日過ごしていたな。と思いつつ、自分も以前まで似たような生活をしていたのかと思った。
作業はウィリアムも途中から行った。最初はジョセフ一人だったのだが、あまりにも可哀想だと思ったのか、手伝ってくれた。
「学校は行ってるの?」
そうウィリアムから聞かれて、ジョセフは嫌だったので、強がるように即座に答えた。
「行ってないよ。不登校」
「不登校かい」ウィリアムは思わず突っ込んだ。「ダメだよ。学校に行かなきゃ」
「いいんだ、別に。僕が決めたことなんだ」
「母ちゃんと父ちゃんは何て言ってるんだ」
「お父さんはいない。よその女のところに行ってる。お母さんは学校に行って欲しいと思う」
「思うって、母ちゃんは毎日会っていないのか?」
「会ってるよ。でも、その部分はあまり触れないようにしてる」
「難しいもんだな」
そう言いながら、片付けは進んでいく。
「ウィリアムさんは学生時代どんな人だったの?」
「どうって、普通の少年だったよ。俺たちがガキの頃はサッカーが流行ってたんだ。その影響で仲間たちとサッカーをしてたな」
「へえ、友達がたくさんいたんだね」
「そうだな。でも、スポーツっていずれかは離れなくてはいけないんだ。夢を持ってたとしても、それなりに努力をしても、スポーツ選手になるには難しいんだ」
ジョセフは三十代の男性と、一対一で話していることに何だか不思議な気持ちだった。
「確かに、狭き門だよね」
「そうだ。それでも夢を持ってしまうんだよな。俺なら叶えられるって。でも、どこかで挫折しないと、歳だけが食ってしまう」
「諦めるのは難しかった?」
「まあ、ケガをするまでは諦めるという事が難しかったな。失う怖さっていうものが。でも、俺骨折してしまったんだよ。もちろん今は完治してるけど、あの時、必死で執着したものが一気になくなったんだ。別に全治二か月程度だったんだがな。その二か月で大分足の筋力も無くなってくるし、諦めるかって……」
「夢を諦めて、良かった?」
「ま、良かったんじゃないかな。今の彼女とも出会えなかったし……」
「へえ」とジョセフは感嘆した。ウィリアムに彼女がいるとは思わないくらい散らかった部屋だったので、驚いている。
「テレビの前に置いてある写真が俺の彼女だよ」
そこに写っているのは、ウィリアムとその彼女だった。同じ年齢くらいだろうか、白人の女性が笑顔でピースサインをしている。
「やっぱり、彼女っていて楽しい?」
ジョセフは言った後、ちょっと恥ずかしくなった。
「ああ、楽しいとも。楽しいというか、安心するといったらいいのかな。ん? 彼女がいないのか?」
「まあ」
そう言って、ジョセフは頬を赤らめながら頭をかいた。
「好きな人は?」
好きな人と聞いて、ルナのことを想ったと共に、セシルのことも思い出した。背が高くて背筋がキレイで、髪は背中の肩甲骨まであり、髪の色は茶色、肌は白く透き通っている。そんな彼女を愛おしく想えていた時をふとよみがえった。
ジョセフは慌ててかぶりを振った。それを見てウィリアムは笑った。
「いるのか? まあ、中学の男子は女子に対して行動的か消極的かどちらかだもんな。でも、人を好きになるっていいことなんだぜ」
「……別に、僕はいいよ」
相変わらずそっぽを向いているジョセフにウィリアムはしばらく見た。
「よーし、ちょっと休憩だ」
そう言って、ウィリアムは両腕を上に伸ばした。
「ウィリアムさんは休んでくれていいよ。本来僕が一人でする仕事だから」
「まあ、そう言わずに。お前も休憩したらいいよ」
そう言って、ウィリアムは立ち上がって、冷蔵庫から缶コーヒーを取り出した。
「一個やるよ」
ウィリアムはジョセフに内容量、百八十五グラムの缶コーヒーを軽く投げて渡した。
ジョセフは慌てて手を差し出し、両手で受け取る。
ジョセフは赤色のパッケージが特徴的な缶コーヒーを見た。
「微糖だけどな」
そうウィリアムは笑った。
「苦いコーヒーは飲んだことない」
「まあ、これも大人になる体験だ。まだ、無糖に比べたらまっしだぜ」
ウィリアムは自分が持っている缶コーヒーのブルタブを開けて、立ちながら飲んだ。
ジョセフもブルタブを開けて、恐る恐る飲む。
「うわ、ニガ……」
舌を出すジョセフにウィリアムは笑い出した。
「時期になれるよ」
「ありがとう」
「それよりさ。不登校になった理由ってなんだ?」
ウィリアムはジョセフの表情を見ながら真剣な眼差しで言った。
「別に何だっていいじゃん」
「もしかして、女の子と色々あったのか?」
そうにやけながら言う、ウィリアムに対して、ジョセフは顔を赤らめた。
「違うよ。そんなんじゃない」
「ハハハ、顔に出てるぜ。まあ、俺もお客さんだし、お前に問い詰めるつもりはないけどよ。女の子とケンカしたのなら、謝ってあげたらいいじゃないか」
「だから、そうじゃないって」
「それだったら、失恋したとか?」
「それも違う」
ジョセフはまた赤面した。
「フフフ、お前は面白い奴だな」
ウィリアムが言って、ジョセフは内心苛立っていた。しかし、客の前、何も言えない。
「でもな、失恋というのは何もダメなことじゃない。だってさ、好きになって想いを告げて、フラれたとしても、それから何カ月も体調や精神が悪くなるんだぜ。そんなことを抱えながら悪いことだなんて、可笑しいだろう」
「んー」
ジョセフはハイもイイエも分からないような返事をしたのだが、内心では確かにウィリアムの言っていることは正しいと思っていた。
「だから、失恋は悪くない、むしろ良いことなんだ。それでしばらくしたらまた恋をする。そこで、成功するか失敗するかは分からない。でも、また失恋してもそれは悪くない」
「でもさ、ダメージは大きくない?」
「そうだよ。何も考えたくない。お前は学校という場所から家に逃げられるけど、社会人なんて仕事しなくちゃいけないから、失恋してもその気持ちを隠しながら、何事も無いように出勤しなくちゃいけない。これは、相当辛いことなんだぜ」
確かにウィリアムの言ってることは分かる。と、ジョセフは想像していた。
「そうやって、幾度も人間はまた異性に恋をするんだ。不思議だけど、俺たちには異性に関心がある限り、そういう生き物なんだ。それじゃあ、肯定してあげた方がいいじゃないか」
「まあね」
ジョセフは缶コーヒーを飲んだ。苦い味よりも、苦い思い出に浸っていた。
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