絶筆
「いらっしゃいませぇ。」
立ち寄り弁当屋に生活習慣のように通う紅而は、目的の筥崎ユリを目の前に弁当を選択しながら彼女が器用に弁当箱にゴムを巻き袋に入れる仕草の一挙手一投足を、隙の無い視線で眺める。
「すみません、これを一つと、カルビー弁当を下さい。」
「豚汁一つとカルビー弁当ですね。豚汁にネギを入れますか?」
「お願いします。」
ここの豚汁はインスタントではない。
肉屋直営の弁当屋である為、汁物でも本格的だ。
会社のレンジで温めれば朝買っても味に遜色はない。
ユリの何時も見せる笑顔は、書けない自分を何時も鼓舞させた。
「890円になります。」
ユリの声音は紅而のくぐもった心を開きそして上気させた。
「お掛けになってお待ちください。」
座り馴れた簡易椅子に腰かけても心だけは彼女の目の前から離れなかった。
「紅而、今晩、お父さんが話したい事があるそうだから夕飯の後、下に降りなさい。・・・謝るのよ。」
母は寂寥たる目線を彼に向けそうぼそりと呟いた。
その奥底にある心の目が薄氷な期待も含んでいる。
紅而にはもう分かっていた。
それがこの家を旅立つ時だと。
「こら紅而、てめえ手ぇ抜いてんじゃねえぞ。まだ動くだろうが。殺されてえのか?」
「はい、すみません。」
宅剣土木興産で働いていると言葉尻の上げ足を取らなければ彼らの言葉はスポーツの世界での叱咤激励にしか思えない。
紅而の脳は荒くれ口調の彼らの言葉を正確に訳して行く。
そこに隔たりと言う概念は存在さえもしていない。
毎日が筋トレになりそれを壊す。
繰り返すことにより無駄な筋肉をそぎ落として行く。
毎日がアスリートのトレーニングと同じだ。
こうして紅而の肉体はどんな仕事でもできる強靭さを身に付けていった。
一日を終え、一息つく為にモーツアルト歌劇「フィガロの結婚K.492-序曲」に酔いしれる。
ボーマルシェの戯曲「フィガロの結婚」を元に愛と芸術を歌い上げたオペラであり、ボーマルシェからモーツアルトへと帰属した作品だ。
「結婚・・・。」
紅而の脳内ビジョンが女性の姿を繊細に映し出す。
「筥崎ユリさんか…」
「紅而、紅而、聞こえないの。早く下りてきなさい。」
母の怒鳴り声が、モーツアルトの奇跡を消し去った。
父の話は何時もの繰り返しで紅而の事を理解する内容ではなかった。
「だから何度も言ってるだろう。僕は小説と共に生き小説と共に死ぬ。この生き方は僕の命の権利だよ。」
頑なな紅而に対して母が父が揃ってこう言った。
孫の顔が見たいのよ・・・。
「孫?僕の子供?」
フィガロの結婚-結婚が響音を奏でる。
それは歌劇となり何時しか主人公は自分と「ユリさん???」
その後も父と母の説得は続いたが、紅而の耳に入る事はなかった。
2階に上がりパソコンを開く。
そこにあるのは「絶筆」だった。
ロマンシエ 138億年から来た人間 @onmyoudou
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