ユリ

何時もの土方のバイトに出掛け、何時もの弁当屋に寄る。

朝、6時半。

何時も通りの時間だ。


「いらっしゃいませぇ。」


立寄り弁当屋の彼女の顔を見るのが紅而の息抜きだ。

自分より10歳近くは若いだろうか?

さりげなく見たネームプレートに筥崎はこざきユリとあったのを紅而の脳は鮮明に刻印した。


仕事の流れだろうか?

客が注文するまで押し売り行為はしない。

世間話や何になさいますか?などがない。

紅而は何時もカルビー弁当を頼んでいるが客が少ないのを確認する

「俺は1日。」


「半日。」


「んじゃ、2時間。」


「あいつ、給料持って帰れねぇな。」


「はははははは。」


「社長は?」


「あんな男がここで働ける訳がねぇだろうが、びびって来ねぇ。負けたやつは3万だぞ。」


だが、大方の予想に反し紅而は今年で3年目を迎えた。

週3,4日とはいえ欠勤しない紅而に、会社全体が驚き彼を受け入れた。



ピアノソナタ第11番イ長調ケッヘル331の旋律で身体と荒れた気性を緩和させる。

何時ものリズムだ。ゆっくりと脳が思考を始める。


「降りて来た。」


パソコンのホームキーに待機していた指の妖精が至る所に触れていく。

そのまま6時間打ち込みは止まらない。

そして・・・

指がピタリと止まる。

そのまま紅而は仰向けに倒れる。

畳敷きの部屋ならではの事であるが、疲れはピークだ。


「限界だ。」


鍛えられた筋肉も悲鳴を上げる。

極限まで肉体を鍛えるのは、思考しながら打ち続ける体力と同姿勢を維持する筋肉を付ける為だ。


「モーツアルトは35歳でこの世を去り筆聖となった。俺はその歳を迎えてもきっと凡人だ。」


悔しさは紅而の蛋白質となる。


「昼食にしよう。」


2階から1階に下り、母が作り置きした豚しゃぶを冷蔵庫から出し頬張った。


「絶筆」と題されたこの文章を何度この手でデリートしたことだろう。

たった一つのキーを中指で触れると人生が消えてしまうように自分が一瞬のうちに消滅した。

ここまで心臓を突き動かしながら必死で指を動かし文字を積み重ねることで色彩を帯びた情景を紡ぎ出す。

その景色に現れる人間の苦悩を描く事で人生を表現する事に連なる。

それがたった一瞬で無きものとされる。

紅而にとって、不条理な世の中というのはこの事を置いて他にない。


チェコスロバキアを追われ、フランスに移り住んだ小説家ミラン・クンデラ。

紅而は自分から離れる事を決意し、彼の象徴的作品ともいえる「存在の耐えられない軽さ」に手を伸ばした。

チェコ語であるはずの彼が亡命と言う逃避により得た力、フランス語を、自在に操り確たる市民権を得たのは奇跡とも言えることだったろう。

紅而の中に外国語執筆という大それたものは無かったが、クンデラの苦悩がまるで絶筆に息詰まっている今の自分とリンクする。

本棚には他にも「冗談」「微笑を誘う愛の物語」が並ぶ。

ヴィレニツァ国際文学賞、アカデミーフランセーズ文学大賞、フランツ・カフカ賞。


「賞等獲得した事が無い自分に何が出来る?」


紅而はカラカラと乾いた音で回る中身の無い執筆活動に、喪失して行く自尊心を保てる力もなかった。

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