はじめまして、世界

『ねぇ、大丈夫?』

『…ねぇ、ナオキ。わたしがわかる?』

 ナオキは遠くから聞こえる声を耳にし、ゆっくりと目を開けた。あれだけ青かった空は、今はピンク色に染まり、低い位置にある恒星がまぶしく輝いていた。

『確か、いま誰かに呼ばれたような…』

『そうよ。ねぇ、ナオキ、わたしの声が聞こえる?』

「その声は、ミノリか! あぁ、よかった」

 ナオキが見た出来事はやはり悪い夢だったのだと、少し安心しながらも、それを早く確かめたくてあたりを見回した。しかしミノリの姿はどこにもなかった。

『水のほうを見たって、森のほうを見たって、どこにもいないわ。わたしはあなたの中にいるみたいなの』

「ぼくの中に?」

『そう。ついでにいまわかったんだけど、あなたが見ているものがわたしにも見えるみたい。わたしはあなたを感じることができるんだけど、あなたはどう?』

 ナオキは戸惑いながら少し考えていたが、考えるのをやめ、しっかりと目を閉じた。そうしていると、もはや音はなにも聞こえなくなり、心の中の深いところに懐かしく温かいものを感じるようになってきた。これがミノリなのだろうか。

「ああ、僕も君を感じるような気がするよ。もし感じられないとしても、こうして君の声を聞くことができる。その声を聞いていると安心するよ。でも、どうしてこんなことになってしまったのだろう」

『ねぇ、今のわたしたち、ぴったりひとつになったと思わない?』

「ひとつに?」

『そう。あなたとわたしは単なる組み合わせで選ばれただけだと思っていたけれど、それはこの惑星で生きていくために必要だったものなのよ。ふたつはいらない。いいえ、ふたつのままでは不完全なの。ぴったりなひとつにならないとだめなの。そんな気がする』

「君に会えないのは寂しくてたまらないけれど、ミノリとずっと一緒にいると考えると、少しはひとりでもやっていけるような気がするよ」

 ふたりの目には小さな白い貝殻が映り、それが波に乗って行ったり戻ったりしている。

「ぼくじゃなくて、きみがひとりになったほうがうまくやっていけそうな気がするけど…。まあ、そういうわけにもいかなかったんだろうな」

『…ひとりにしてしまって、なんだか、ごめんね』

「あ、変なこと言ってごめん。ひとりでもしっかりやっていくから」

『やっていくしかない、でしょ? それにわたしたちはふたりよ』

「そうだね」


 ピンク色だった空は赤みを増し、恒星は地平線の下へと沈みかけている。やがてすべての光を追いやるように、闇が迫ってきた。

『ねぇ、ナオキ、憶えてる?』

「なにをだい?」

『あなたとこうしてふたりになる前、わたしはほとんどひとりぼっちだった。でもあなたとはじめて会ったとき、わたしに笑いかけてくれたでしょ。なんだかとても温かいものに包まれたような気がしてうれしかったの』

「ぼくも同じようなものさ。ミノリもぼくにほほえみかけてくれて、そしてその声をはじめて聞いたとき、体が光につつまれたような気がした。ミノリと選ばれてよかったって、心から思ったのを憶えている」

 気がつくとあたりはすっかりと闇に覆われていたが、空には恒星が瞬きはじめ、いつしかふたりは数えきれないほどの淡い光に照らされていた。その光は地面を覆う水面にも映り、地平線の向こうまでぼんやりと光っている。

『わぁ、きれい。わたしたちは、この宇宙のどこからやってきたんだろう』

「あっちじゃないかな?」

『わたし、ナオキといろんなところへ行きたかったな。そして、たくさんしゃべりたかったな』

「いまは一緒なんだから、どこにでも行けるじゃないか。それにほら、こうしてしゃべっていられるじゃないか」

『それは、そうなんだけどね…』

 ふたりの会話はいつまでも尽きることがなかったが、次第にミノリの言葉は少なくなっていった。


 空を覆っていた恒星の光は薄くなり、空全体がオレンジ色に輝きだした。地平線に沈んだ恒星が明るい光をともなって、今度は逆の地平線から出てきた。

『ねぇ。わたしもうすぐあなたと話せなくなるような気がする』

「急にどうしたんだい」

『たぶんだけど、そんな気がするの。もっとしゃべっていたいけど、もう、さようなら、かな』

「……そっか。わかった」

 ミノリがいなくなってしまうのは、ナオキにもわかる気がしていた。いまは、ミノリの澄んだ声を忘れないように、しっかりと胸に刻んでおきたかった。

『もし、わたしの声が…、聞こえなくなっても……、あなたの中で…、生きていることを、ずっと、忘れ…で……」

「わかってる。きっと忘れないよ』

『…りが…う…。やくそ……ね…。さ………』

「うん。……さようなら」

 ナオキはふいに涙を流したが、けっしてそれを拭おうとはしなかった。恒星の光を受けて虹色に輝く瞳からこぼれ落ちる涙は、しずくの形のまま手のひらにこぼれ落ち、ころころと足元へ転がり、そして地面へと吸い込まれていく。

 ナオキはその様子を見ながら、ずっとその場に佇んでいた。

 もうミノリの声が聞こえることはなかった。

 恒星が高度を上げると、この世界のすべてがキラキラと輝いているようだった。

 ここがこれから生きていく世界。

 なんて美しい世界なのだろう。

「はじめまして。ぼくとミノリの新しい世界」

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