希望の地〈改〉
蓮見庸
プロローグまたはエピローグ
『ねぇ、ナオキ、おぼえてる?』
『………ん?』
ナオキはあたりをみまわしてみるが、誰もいない。ただ足元にはさらさらと静かに波が打ち寄せ、小さな白くて細長い貝殻が、その波に乗って、こちらへ転がってくるのが見えるだけだった。
『気のせいか』
ナオキが大きく伸びをすると、空から木の葉がひらひらと落ちてきた。
それからどれだけ時間が経った頃か、ナオキはあいかわらず白い貝殻が波に乗って行きつ戻りつするのを見ていたが、またさっきの声が聞こえたような気がした。
『…ねぇ、忘れないでね』
真夏の気だるい午後、ガラスの風鈴がそよ風に揺られ、小さくチリンと鳴り、ひととき暑さを忘れさせてくれる、そんな透明感のある声で呼びかけられたような気がした。
『わすれないで? この貝殻から聞こえてくるのか?』
ナオキは白い貝殻の動きを追っていたが、しかしいくら耳を澄ませても、同じように、さらさらという波の音しか聞こえない。
『やっぱり気のせいか。けれど、さっきの声はどこかで聞いたような気がする…』
ナオキはその声をどこで聞いたのか思い出そうとするが、言葉にならない懐かしい感情がよみがえってくるだけで、それがいったい何だったのか、どうしても思い出せなかった。
ナオキはそんなことを思いながら、いつまでも、いつまでもその場所に佇んでいた。
*
かつてある惑星に、2枚の殻で体を覆われた小型の生物がいた。その生物が死ぬと殻だけが残り、貝と呼ばれるその殻は他の生物にとっての貴重な栄養素であり、またヒトの遊びにも使われたという。
その遊びとは、2枚の貝をばらばらにして並べ、その中から再びぴったり合う組み合わせを探すというものだ。同じような色や模様の貝はいくつもあるが、2枚がぴたりと合う組み合わせはただひとつしかない。
ちょうどそのように、わたしたちヒトにも最適な組み合わせがあり、わたしとナオキも多くのヒトのなかから、主に遺伝情報を元にした簡単なアルゴリズムに従って自動的に選ばれた。わたしたちをこんな単純な方法で選んで組み合わせるのは、とても効率がよく、しかも相性にも間違いがないため、当然のこととして受け入れた。またこれはふたりが出会うためのきっかけであり、強制されるものでもなく、拒否しようと思えばできたため、誰もが強いて反発するような感情を持ち合わせることはなかった。
そればかりか、これほどの組み合わせに巡り会えるのは、幸運だとさえ言うヒトもいたほどだった。
「よし、これでいいでしょう」
わたしとナオキは丸いカプセルに寝かせられ、
「このカプセルは、“希望の地”へ着くまではけっして壊れることはないし、その目的地も自動で探してくれる。なにも心配しなくていいから、あなたたちには少し悪いけど、しばらくぐっすり眠っていてね」
『あぁ、あのヒトの声だ』
あのヒトはわたしにとても優しい声で語ってくれた。もっと聞いていたかったけれど、カプセルの中は徐々に冷たくなり、我慢できない強い眠気に襲われた。ナオキもそうだったのだろう。そして薄れゆく意識の中で、あのヒトの最後の言葉を聞いた。
「さて、準備は整ったわ。あとは宇宙へ飛び立ってもらうだけね。みんな、元気でね…!」
そして、ふたりを乗せたカプセルは、ほかのカプセルとともに、暗黒の宇宙へと放り出された。
どれほどの時が流れたのだろうか。何日、何年、いや、何千年、何億年…。
カプセルはまだら模様の惑星に向かって進んでいた。強い重力につかまり、徐々にスピードを上げながらその惑星に引き寄せられたかと思うと、ぐるりといっきに方向を変え惑星を斜め後ろに見るように進路をとった。そしてカプセルが進む先には、小さく輝く恒星があった。
恒星に近づくごとにその明るさは増し、カプセルのまわりの温度が上がっていく。ふいにカプセルがごくわずかに軌道をずらしたかと思うと、今度は針の穴よりも小さな青い惑星に向けて進んでいく。その惑星全体を覆う青と白の色からは、水素と酸素の反応があり、お互いの元素は強く結びついているようだ。カプセルはこの“水”に反応し、まっすぐに青い惑星へ向かっていった。そしてその惑星の重力に捉えられ、小さな赤い玉になったかと思うと、一瞬のうちに消えていった。
ナオキは大きな振動を全身に感じ、目を覚ました。乗っていたはずのカプセルはボロボロになり煙を上げていた。自分はしめった砂の上に横たわっている。目の前では水がたえず動き、さらさらという、ここちよい音が聞こえてくる。
だんだん意識がはっきりしてくると、忘れてはいけない、ひとつのことを思い出した。そうだ、ミノリが一緒にカプセルに乗っていたはずだ。ナオキは急に心細くなり、叫んだ。
「ミノリ、どこにいるんだー!」
「あなたのすぐ後ろよ」
びっくりして振り返ると、砂の上に座ったミノリがほほえみながらナオキを見ていた。
「さっきからずっとここにいるわよ」
「怪我はない? それにしてもここは…? なぜこんなところにいるんだろう」
「カプセルに乗っていたはずなのに、そのカプセルもこんなになってしまったわ。わたしたちよく無事だったわよね」
「なにがあるかわからないから、あまり離れないようにしよう」
「えぇ。でも、ここはなんだか安心するわ。ここが“希望の地”なのかしら」
「だといいな。確かに懐かしい感じがする場所だな」
水は静かに打ち寄せ、あたたかく吹き寄せる風も心地よく、恒星からの光も全身に浴びることができた。これ以上ない穏やかな景色が広がっていた。
「もう少しこのままでいたいわ」
ミノリはほほえみをたたえたまま遠くを見つめていた。そんなミノリの横顔を見ていると、ナオキはとてもいとおしく思った。
「さて、そろそろここから移動しましょうか」
「そうだな」
ふたりが立ち上がり歩き出そうとしたその時、光り輝いていた空が急に暗くなり、小さな水の粒がたくさん落ちてきた。
ふたりは全身が水滴に濡れるにまかせて、その場に立ちすくんでいたが、そのうちお互い相手の手を握りしめたい衝動にかられてきた。
そしてはっきりと悟った。そうだ、わたしたちはこの時を待っていたのだ。
ナオキの右手がミノリの左手を握った瞬間、ナオキは腕に激しいしびれを感じた。思わず手を離しそうになるが、ミノリは手を強く握り返し、その手からはどうしても離れることができなかった。いや、どうしても離したくなかった。強く握っているのはむしろナオキのほうだったのかもしれない。
ふいに、ミノリの体が少し揺れた気がした。ナオキはもう片方の手で抱えようとするが、ミノリはそのままバランスを崩し、膝をつきながら倒れ込んでしまった。けれど手はしっかりと握ったままだ。ナオキはミノリの重さを受け止め足が砂に埋まっていくように感じた。
「だ、大丈夫か?」
「わたし、どうしてしまったんだろう…。あなたと手をつないでいたら、何だか急に寒くなって、くらっとしてしまって…。あなたの顔もよく見えなくなってきてしまったの」
ナオキはミノリを抱き寄せようとかがみ込んだそのとき、ミノリの足元の異変を感じた。なぜか足先がなくなってしまっているのだ。
「あっ、その足!」
ナオキは足先から目を離せないまま呆然としていたが、そうしている間にも、ミノリの足は少しずつ溶けていき、その断面からは水がしたたり、見る間に足首のあたりまで何もなくなってしまった。ミノリは上半身を起こし、ナオキを見つめている。足先があったところは、そこだけびっしょりと濡れている。
「どうしたらいいんだ…!」
「あぁ、足が…。でも、痛くもなんともないわ。ちっともこわくない。それよりも、あなたがとても近くなってくる気がするの」
「こんなになっているのに、なにを言っているんだ」
「ほんとうよ。わたし、いま、とても幸せな気がするの。こうなるのが当然なのよ」
「こんなことが当然なわけないだろ! しかも…」
ナオキは大声を出してしまったことに戸惑い、そして後悔しながらも、ミノリのまっすぐな瞳に、言うべき言葉を失ってしまった。
「ううん。たぶんこれでいいの。こうなる運命だったのよ」
「言っていることがわからないよ…」
ミノリがなぜ落ち着いているのか、ナオキにはまったく理解できなかった。このまま放っておいたら死んでしまうのは明らかだ。しかし、どうしたらミノリを助けられるのか、ナオキはただうろたえるばかりで、何も考えは浮かんでこなかった。
「ねぇ聞いて。わたしは、たまたまあなたの相手に選ばれて、ここにきただけだったと思っていたけれど、そうじゃなかったって、やっとわかった気がするの」
「どういうことだい?」
「うまく言えないけれど、これだけは言える。ここがわたしたちが新しく生きていく場所。そして、あなたに会えてよかった、って」
ミノリの両足はすっかりなくなり、こんどは体全体が中心に向かって溶け始めたようだ。しかし、繋いだ手だけは、お互いしっかりと握り合っていた。
ナオキはなすすべもなく、ミノリの体が溶けていくのを茫然と見ていたが、絶望のあまりとうとうその場に倒れ込んでしまった。その瞬間、握っていた手の先から体の中に何か熱いものが流れ込んでくる気がしたが、それを頭で理解する前に意識を失ってしまった。
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