第6話

 十ラウンド目。


「では先輩の先行です」


「ああ、そうだな……最初はダイヤの『A』だ」


「では私はハートの『9』です」


「きっちり順番を刻んできたか。そしたらこっちはハートの『5』かな」


 まるで頓珍漢な順序のようだが、これで順当に進んでいる。

 橘が九ラウンド目に追加したルールは『カードの強さを数値順ではなく、五十音順にする』というものだった。『A』はエース、絵札はそれぞれジャック、クイーン、キングと読む。

 この順列に従うとか行とさ行が混雑していて、さらに橘が八ラウンド目に追加した『カードを出すまでの持ち時間は三秒』というルールが、思考を圧迫してくる。結果、最適な効率ではないカードの切り方をしてしまい、このラウンドもまた、橘に制されてしまった。

 本格化してきた『オリジナル大富豪』に、果たしてついていけるだろうか。



 二十ラウンド目。


「僕のターン! 手札から『5』を二枚捨てて、山札から一枚ドロー。引いたのは『Q』、これにより、追加効果で『K』を手札から除外してターン終了だ!」



「初手から手札圧縮ですか。では、私は『A』『2』『3』の連番出しで、追加効果発動――先輩の手札のカードの強さを、三ターンの間、一つ、弱くします」


 やるな、橘。僕が十八ラウンド目に定めたルール『集団自殺スーサイド・スクワッド』を早速、差し込んできた。


「だが残念だったな橘、僕の手札は『赤一色チーイーソー』、ダイヤとハートで染まったこの手札は、他プレイヤーの効果による影響を受けない!」


「……っ、迂闊でした。最初の手札圧縮は、そのためのもの――!」


「今更気づいても遅いぜ、このラウンドは僕がもらう!」


 ――最早、何のゲームをしているのか傍目には分からないほど、『拗らせ王子の赤ちゃん★プレイ(僕が十四ラウンド目に勝利した際に、『オリジナル大富豪』から改名した)』は進行している。

 このラウンドの勝者は、僕。今のところ勝率は、三割程度だ。



 二十五ラウンド目。

 複雑なルールと、それらが与える影響について常に考えなければいけないこの『拗らせ王子の赤ちゃん★プレイ』では、心理的に休まる暇がない。果たしてこのゲームは、このまま行きつくところまで行くしかないのだろうか。

 熱くなりすぎて、だんだんテンションがおかしくなってきている。僕も橘も。

 最早、お互いに何のためにこのゲームに取り組んでいるのか、忘れていそうだ。

 いや、ゲームをする理由なんて、結局のところ、たった一つしかないが。

 楽しく遊べているのだったら、それでいい。


「――はあ、やめです、やめ」


 そんなある種の高揚感を感じていた僕に水を差すように、あるいは冷や水を浴びせるように、橘は配られた手札を投げ捨て、そう言った。机の下にばらばらとカードが舞い散る。


「何だよ橘、せっかく盛り上がってきたところなのに」


「盛り上がってきたところというか、盛り上がりすぎてしまっていたから、止めたんですよ。かつてないですよ、このゲームが――」


「『拗らせ王子の赤ちゃん★プレイ』な」


「…………」


 すごい目で睨んできた。彼氏を見る目とは到底思えない。

 橘が口にする時に、いちいち恥ずかしがる様子を見たくて決めたルールなので、僕的には狙い通りであり、ご褒美だ。


「『拗らせ王子の赤ちゃん★プレイ』が、ここまで長引くことは今までありませんでした。だいたい、先輩も予想がついているんでしょう?」


「何が?」


 橘も熱気が収まらないのか、開けたおでこに汗が滴り輝いている。輝いて見えるのは、僕の贔屓目のせいかもしれない。突然、おでこを舐めたら怒られるかな?


「このゲームが――『拗らせ王子の赤ちゃん★プレイ』が、一体私と先輩の間で、どういう時に開催されていたゲームなのかですよ」


「ああ、そのことね」


 彼女の口振り的に、この『拗らせ王子の赤ちゃん★プレイ』が、ある程度定期的に遊ばれていたことは、察していた。そして、その参加プレイヤーが僕と橘しかいないことも。

 僕というのはもちろん、現在この場を認識している僕ではなく、記憶を失う前の僕だ。橘と半年以上の交際を続ける、熟年カップルの僕。

 そんな僕たちの間でこのゲームが行われていた理由は何か。


「たぶんだけど、相手に何か止めてほしい習慣があったり、逆にやってほしいことがあった時に、険悪にならないように言い出すためのコミュニケーション・ゲームってとこだろ?」


「……やっぱり、分かっているじゃないですか」


「そりゃあ、僕も僕だからね」


 記憶を失っているとはいえ、僕だって折木慶だ。

 かつての折木慶が、どんな経緯で橘美空とこのゲームをするようになったかは分からないけれど、同じゲームをすれば、立ち回りは似たりよったりのところに着地する。

 勝率三割――カードの引きや運が絶望的に悪い橘を相手にこの数値は、いくらなんでも低すぎる。要は橘は、知っていたのだろう。僕、折木慶がどんなルールを設定する傾向にあり、どんなルールを設定されることを苦手とするのかを。


「それで、僕相手に頼みたいことは頼み切ったから、これ以上プレイする必要はないってところか」


 罰ゲームとして僕に追加されたルールのうち、どれが本命だったかは不明だ。

 言い出しづらいルールは後回しにすると言っていたから、最後のほうに言われたやつかな?


『校内で橘を見つけたら挨拶をすること』

『誉と一緒にお風呂に入らない』

『部室の掃除を勝手にやらない』

はふりさんと一緒のベッドで眠らない』


 祝さんというのは、僕の母のことだ。

 しかし振り返ってみても、いちいち規定されるようなことではない気がするんだよな。たしかに妹とは記憶が戻って以来一度だけ、一緒にお風呂に入ったことはあるけれど。と言っても、それも病み上がりで意識が安定していなかった時の僕が一人で入浴できずに、渋々、上半身を流してもらうようなものでしかないが。

 だから最後のほうは場当たり的に、何かルールを設定しないといけないからと適当に思いついたものを挙げただけな気もする。


「だったらもういいだろ、そろそろ教えてくれよ。今回は一体、何が言いたくて始めたゲームなんだ?」


 ゲームを始める前から、否、している間中も、橘の機嫌が悪かったことは間違いない。さすがにそれが、僕の勘違いだというのはあり得ない。

『拗らせ王子の赤ちゃん★プレイ』が何の為のゲームなのかは分かったけれど、橘が何に怒っているのかは、未だに分からないままなのだ。


「僕はこのままだと、お前を怒らせることを繰り返しちゃうかもしれないし。それだけは、絶対に避けたいからさ。頼むから、聞かせてくれ」


「――ようやく、真っ当な要求をしてくれましたね」


 橘は、やや疲れたように脱力しながらそう言った。


「それがこんな内容だというのは不本意ですが――逆なんですよ、先輩」


「逆?」


「私は先輩に、何かを頼まれたくて、今日このゲームを行ったんです」


 橘が散らばったカードを拾い集め、片付けていく。


「思い当たりませんか? 先輩。先輩は私に、何も求めてはくれないんですよ」


「そんなことは……」


 ないとは、たしかに言い切れない。

 今日、僕が勝ち取った権利で橘に与えたルールは『三階を一人で歩かないこと』から始まり、『課題をやり忘れないこと』『車道を歩かないこと』など、それこそ場当たり的な当たり障りのない内容ばかりではあった。

 下着を脱いでほしいとも、結局、最後まで言わなかったし。


「先輩が私に何を求めているのか、私なりに考えてみたのですが、思い当たらなくて。先輩が私に求めたことと言えば、付き合うことぐらいのものでしょう」


 ですから、と橘は札を箱にしまい終えてからようやく顔を上げ、僕を見た。


「私に何も求めないということは、先輩は――先輩は、誰でもいいんじゃないですか? ただそこにいたのが私だったから、私と一緒にいるだけなのでは……」


 結局、先輩って、何でもいいって感じなんですよね。

 橘はゲーム中に、そんな言葉を呟いていた。


「お前、そんなこと考えてたのか」


「そんなことも何も、存在に関わることですよ」


「いや、僕が言ってるのはそうじゃなくて、そんな、見当違いなことを考えてたのかってこと」


 僕と橘では拘るところが違うから、つまり、怒るところも違うし、心配になるところも違う。それは事前に予想していたけれど――。


「僕が橘に何も言わないのは、僕がお前に何も求めていないからじゃなくて、お前が、これ以上なく良いから以外にありえないだろうに」


 僕が記憶を取り戻して以降、母親かと思うほど甲斐甲斐しく世話をしてくれている橘に、これ以上、僕が望むことなどあるはずがない。それでなくても、ごく自然にあるがままの橘の振る舞いで、僕にとって至高だった。


「下着を履いていようが履いていなかろうが、僕にとって橘以外ありえないよ」


「――例えが、だから、最悪ですけれど」


 独りで気負い続けていたことの無意味さを自覚したのか、橘は本当に疲れ切ったように、そう吐き出す。どうやら心配は、払拭されたらしい。

 であるならば、本日の部活動の目的は、達成されたというわけだ。

 万事めでたしと、僕も橘も帰り支度を進めていく。

 ただ、普段なら橘はさっさと準備を済ませて僕の忘れ物がないかのチェックをしてくれるのだけれど、今日は僕のほうが先に、終えてしまった。


「なんだよ、橘。まだ何か、気になることでもあるのか?」


 もし取りこぼしがあるのなら、今のうちに片づけておきたい。


「先輩、私、今日、見てしまったのですが」


「見てしまったって、何を」


「先輩が同学年の女生徒と、楽しげに話しているところをです」


「はあ?」


「それが本日の活動に、このゲームを選択した理由ではあったのですが――」


「ごめん。まったく覚えがないや。誰?」


「先輩が知らないなら私が知っているわけがないでしょう。……本当にご存じないんですか?」


「ううん、どうだろう」


 それを橘が気にしていたというのなら、思い出さなければいけない。

 けれど、今日、女子と話した記憶なんてないのだけれど。というか、クラスメイトの女子なんて、誰一人として名前すら思い出せない。


「一日中、橘のことしか考えてないからなあ……いつ?」


「移動教室。一階を歩いている時に、その姿を見かけました」


「……ああ、あったかも」


 言われてようやく思い出した。

 僕が移動教室の移動先を把握していないことを心配して、付きまとってこようとした人がいたはずだ。クラス委員長だったかなんだったか、よく覚えていないが。

 僕が橘の靴箱に寄ろうとするのを、道が違うと止めようとしたりしてきて邪魔だったから、適度に丁重に断って先に行かせたはずだ。

 断片的な情報だけで、当然のように、名前も顔も思い出せない。


「だから、別に楽しげではなかったと思うんだけど」


「話を聞く限り、それに関しては納得ですけれど……先輩って、私以外にはそんな感じなんですね。クラスメイトに対して、些か辛辣すぎる気もします」


「けっこう多いんだよね、記憶喪失を面白がって、近寄ってくる人」


 元々の僕とどんな関係だったか知らないが、今の僕との繋がりを素っ飛ばして、距離感を近づけられてもいい迷惑だ。まず名乗れ。もしくは態度で示せ。


「……まあ、たしかにそれなら、私しかいないという先輩の弁も納得はできますが。もしかすると、早急に手を打たなければいけないのはそちらかもしれませんね」


「何?」


 橘は言う。


「今度、私の友人を連れてきます。無害な友人を。先輩は、私以外とも多少、交流したほうがいいかもしれませんね」


「何で?」


 橘がいれば、それで世界は完結しているんじゃないか。

 そんな僕の疑問に橘は。


「ボードゲームは、二人だけではできないということです」


 とだけ、短く答えて、部室の戸を開ける。


「では、帰りましょう」

 

 

 そういえば。

 橘は『オリジナル大富豪』を始める時に、『本当に要求したいことは、後回しにする』みたいなことを言っていたけれど、振り返ってみれば、あいつが最初に僕に禁止したことは『一階を一人で歩くこと』だった。

 せめて橘の見える範囲で、僕が同級生の女子と話すことがないようにするルール。どう考えても、今日のゲームでの本命は、それだった。

 まったく、本当に。

 意味のない嘘を吐かない、飽きさせないやつだ。

 どんなさらりとした言葉でも、疑ってかからなければならない。

 きっと他にも、いろいろと仕込んでいるはずだ。

 帰ったら寝付くまで、また、今日も橘との出来事を振り返ろう。

 新しい発見が、いくらでもあるはずだから。

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記憶喪失 notitle @suble

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