またいつか会う、その日まで
道華
またいつか会う、その日まで
形あるものがいずれ壊れるように、物語はいつか終わりを迎え、生には必ず死が訪れる。しかし、生と死は一方通行ではない。輪廻が巡り、新たな始まりと終わりが訪れる。そして、そんな輪廻システムのうち死を司る冥府は、主に二人の社畜と数多の死神によって回されていた……。
「あはははは……仕事終わらない……僕の有休は何処に?」
大量の書類に埋もれながら乾き切った笑い声を上げる形の上の上司兼数少ない友人の一人……冥府の王・ハデスとは名ばかりの社畜に、私は大量の書類とエナドリを手渡す。
「ハデス、壊れているところ悪いが追加分だ」
机の上を占拠する山の一つになった新たな承認要請の書類を恨みがましげに見て、ハデスは悲鳴に近い叫びを上げた。
「量が多い! まだ昨日の分終わってないのに! リアちゃんの鬼! 悪魔!」
リア。
そう私のコードネームを叫んでエナドリをグビグビと飲み干し、涙目で机に突っ伏す社畜上司の机からいくつかの書類を取り上げる。
「仕方ない、私も手伝おう。まあ、私たちはデスクワークなだけまだいいじゃないか。今頃彼奴等は命懸けの肉体労働だぞ」
彼奴等もとい死神は、冥府の中枢でこそないが最も重要な役目だ。直接死者のもとに赴いて命を刈り取る役目は周囲から忌み嫌われているが、それがなければ皆生きることも死ぬことも叶わない。ちなみに死神にも階級があり、下から執行者、救済者、死祭と呼ばれる。
「というかリアちゃんは仕事大丈夫なの? 僕の方手伝ってる余裕ある?」
「ああ、もう終わっている。今日は新たな死者が少なかったからな」
面倒な書類を適当に片付け、自分用に買ったエナドリに手を伸ばす。死者数が少なかったなんて嘘だ。最近の内戦で大量の死者が出て私も昨日は徹夜だった。
「本当さぁ……不平等だよね。生と死は平等に隣り合わせであるって建前上は掲げておきながら生の方ばっかり褒め称えるから、こっちはいつも汚れ役の過重労働……もうやだ冥府の王辞めたい」
ハデスは兄弟間で世界の何処を受け持つかのくじ引きをした結果冥府の王になったと聞いている。彼にとっては働いて働いてそれでも一生日の目を見ないこの仕事は地獄でしかないのかもしれない。
「リアちゃんって自分で志願してこの仕事してるんだよね? 最初はそんな物好きが居るわけないって思ったけど、本当に居たとは」
「……私にはこの仕事が性に合っているんだ。死神も志願する奴は一定数居るだろう」
私の主な業務は社畜な上司の介護……では当然なく、死者の魂を天国、地獄、転生、破壊のいずれがに選り分けるというものだ。基準は建前上生前の行いということになっているが、実際はほとんどのものが私に一任されている。天国も地獄も私の気分次第。死者からすれば横暴もいいところだろう。
「そりゃそうだろうけど……あ、噂をすれば帰ってきたみたいだよ」
「たっだいま〜。リア、居る?」
入ってきたのは三人居る死神最高位「死祭」の一人、ジェイドだった。いつもの通り血飛沫ひとつ浴びず、涼しい顔をして黒髪を纏めたリボンを靡かせている。
「何の用だ?」
「一緒にお茶……うわ、人付き合い面倒臭いって顔に書いてある。あ〜あ、今日も究極の人嫌いで有名なリアさんの攻略は無理だったか〜」
大袈裟に額に手を当てるジェイドを無視して書類に目を落とす。ジェイドは決して悪い奴ではない。単純にこの手の腹に一物隠しているような……真意を秘めるタイプの者を相手にするのが面倒なだけだ。まあ、私も自分の気持ちを素直に伝えたりだとかは苦手な方なので完全なる同族嫌悪だが。
「帰れ。仕事中だ」
「ごめんって。そういえば、今日新しい服買ったんだけどどう思う? 可愛い?」
「トテモカワイイトオモウ」
その場でくるんと回るジェイドに、私は半目になって返す。顔だけは無駄に良いこの同期は基本的に何を着ても腹が立つほど似合う。
「棒読みやめて? まあいいや。お邪魔しました〜」
ひらひらと手を振って出ていったジェイドとは入れ替わりに、今度は小さな影が飛び込んできた。
「リア〜! やっぱりここに居た!」
「わっ」
勢い良く私に抱きついてきた拍子に小さな影の正体が纏っている死神の制服のフードは外れ、黒い兎の耳とふわふわな黒髪が露わになる。
「……急に飛び込むなと言っただろう、ココ」
受け止めた途端にぴしりと音を立てた腰を摩りつつ、私はココ……死神の最下層である執行者の一人である獣人の少女のぷくぷくと柔らかい頬をつまみ、軽く引っ張った。
「ご、ごめんなさい……大丈夫?」
長めの前髪の間から覗く灰色に近い黒の目がうるうると潤んでいる。私は一つ息を吐いて小さく腕を広げた。
「大丈夫だ。来るか?」
「ん!」
途端に顔を輝かせ、兎らしくぴょんと飛び込んでくる愛らしさを詰め込んだ塊に思わず頬が緩む。アニマルセラピーには本当に効果があるようだ……死神だが。
「私ね、今日もお仕事頑張ったよ! 死祭のジェイド先輩とかリリム先輩も褒めてくれたんだ〜。将来は私も死祭になれるって!」
死神の仕事とはあけすけに言えば殺しだ。それをこんな幼子が笑顔でで行い、才能があることを喜ぶ。ココが何故死神をしているのかは知らないが、いつかココが成長してこの仕事の意味を理解した時に自分を嫌悪してしまわないことを願う。
……仮にそうなってしまった時、今のように私がココを抱きしめてやれる保証は何処にもないからな。
「どうしたの? 難しい顔してるよ?」
心配そうに私の顔を覗き込み、手を伸ばして私の頭を撫でてくるココをぎゅっと抱きしめ、何でもないと呟いた。
「えへへ〜、良かった。そういえばリア、ハデスさん寝ちゃってるけど良いの?」
その言葉を聞き、私はそっとココを下ろして上司に向かうと大きく息を吸い込む。
「起きろ! まだ仕事は終わらないぞ!」
「ひゃ、ひゃいっ!」
結局、この日も遅くまで残業して何とか仕事を終わらせた。
別の日、私は自分の方の仕事を片付けていた。この分なら今日はいつもより長く睡眠時間を取れそうだと思いつつ眠気覚ましのコーヒーを口に運んでいた時。
「あれ? 何で仕事してるの? さっきハデスさんが『リアちゃんなら今日は非番だよ』って言ってたから、夜勤まで一緒にお昼寝しようと思ったのに」
枕を抱きかかえたココが首を傾げた。子供に夜勤をさせているのか。今度ハデスに文句を付けておくとしよう。
「気にするな、ただの休日出勤だ。それで昼寝だったか? 少し待て、これが終わったら付き合う」
「やった! ねぇ、リアも昔は死神だったって本当?」
「ゲホッゴホッ」
思い切り咽せた。コーヒーが熱かったこともあり生理的な涙が滲み歪む視界で、ココが心配そうに背中を摩ってくる。
「ありがとう、大丈夫だ……それで、誰に聞いた」
「えっ? リリム先輩が言ってた」
私は思わずため息を吐く。リリム先輩……彼女は私の死神時代の先輩でもあり、今もたまに交流がある。異常な強さを誇り神にも匹敵する実力を持つが、少々天然なのが玉に瑕だ。
「余計なことを……」
「ってことは本当なの?」
「ああ。というか、辞表が受理されなかったから今でも私は書類上死祭という扱いのはずだ」
すると、急にココが数歩後退る。
「あ、えっと……リア先輩……」
こうなるから黙っていたというのに! 今度リリム先輩に苦情を言おう。
「リアでいい。そもそも私が死神だった期間など一年弱だし、この仕事に就くまでの繋ぎのつもりだったのが人手不足が祟って昇進させられたというだけの話だ。辞表が受理されていないのもいざと言う時私をこき使いたいだけだろう」
そうは言ってもこれ以上仕事を増やされたら私は過労死ルート一直線だが、上はその辺りをどう考えているんだろうか?
「そっか〜。ねぇ、リアの時もリリム先輩って今みたいに怖かった?」
「怖い? あの人はどちらかと言うと天然だと思うが」
「そうなんだけど、何か殺気立ってるっていうか……まあいいや。そろそろ終わる?」
手元を見ると、もうハデスに書類のサインを貰うのみとなっていた。
「今終わった。さて、まともに寝るのは何日ぶりか。確かここに寝床が……あった」
私が寝床にしている場所もとい積み上がった死者の参考書類を避けただけの窪みを見つけてココを振り返ると、何やら涙目でぷるぷると震えている。
「どうした?」
「そこで寝るとか人間じゃないよ!」
「元から人間じゃないが」
「リアのばか! ハデスさんに言いつけてやる〜!」
後日、私の執務室に何故かハデスのポケットマネーからちゃんとしたベッドが設置された。
「ハデス、薬が切れた」
その日、書類に生き埋めになったハデスを発掘して端的に言った。
「薬ってどれのこと? 睡眠薬? 頭痛薬? 胃薬?」
全く、ハデスは私を何だと思っているんだか。そんな生活必需品、切らすわけがないだろう。
「違う。持病の方だ」
「あ、そっち。調子どう? 確か前と薬の調合変えたよね」
ハデスは趣味で薬の調合をしていて、冥府の王よりも医者の方が向いているのではないかと思うくらいには効くので重宝している。
「かなり楽にはなっているが、それなりに進行してきた気がする。体表付近にも出るようになってきたし、最近は……少し痛む」
私の身体は少しずつガラスに変わっていっている。持病のようなその現象を治す術はなく、体内を少しずつ蝕んだガラスにそう遠くない未来に飲み込まれてしまうだろう。
「そっか……ごめんね。僕、これでも神様なのに何もできないや」
そんな顔をしないでくれ。逝くに逝けないだろう。
「気にするな。ほら、私もいつまで働けるか分からないんだ。せめて自分の仕事くらい自分で処理できるようになってもらわないとおちおち死んでいられない」
だから私は今日も笑う。顔の筋肉はとうに表情など忘れてしまったが、それでも私は精一杯に笑っている。私がいなくなっても大丈夫だと思えるように。
「リア……? 嘘、だよね?」
物陰で息を呑んでいた小さな影のことなど知りもしないで。
今日は私の貴重な休日だった。何をするでもなくぼんやりと窓の外を眺めていると、小さな足音がしてドアが開き、ココが入ってくる。珍しく抱きついてきたりせず、静かに私の隣に腰を下ろした。
「どうした? 今日はやけに大人しいな」
「……何でもないよ」
ココの声は何処か暗く沈んでいて、いつもの弾けるような明るさは失われている。何があったのかは知らないが、私はそっとココを抱きしめることにした。
「ねぇ……リアは、ずっと私と一緒に居てくれるよね? 居なくなったり、しないよね?」
最初に静寂を破ったのはココだった。その問いに、私は思わず目を見開く。ココは私がもう長くないことに気づいたのか? いや、考えるのは一旦後にしよう。沈黙が答えになってしまう前に。
「……私が生きている限り、ずっとお前と一緒に居よう」
嘘は吐いていない。できない約束も、していない。
「うん……そっか」
ココは何度も頷く。小さな手でぎゅうっと、苦しいくらいに私を抱きしめて、必死に納得しようとしている。その姿が、あまりにも。あまりにも私の作り物のような心を締め付けてしまったから、思わず口を滑らせた。
「死にたくないな……」
言って、慌てて口を噤む。ココのガラス玉のように透き通った目が私を見た。少し灰色がかった黒の中に映る私は、どんな表情をしていただろうか。
「その、私は長らく生きている実感が持てなかった。死んでも良いと思っていたし、全てがどうでも良かった。それなのに今、お前がこうして私に触れて、必要としてくれる。幸せなことだ」
小さな手が私の頬に触れる。子供らしく体温の高い手は温かく、冷え固まった私の表情を溶かしてくれるようだった。
「幸せなら、何でそんなに泣きそうな顔してるの?」
私が、泣きそう? そんなはずはない。私は傲慢にも魂に値段をつける者、命を平等に刈り取る死神とは罪の重さが違う。本来泣く資格すらないはずなのに、私はこんなにも幸せで……。
「リア、悲しかったんだね。怖くて、寂しくて、どうしようもなくなっちゃったんだね」
思わず私がココを強く抱きしめると、ココは優しく背中を摩ってくれる。悲しい、怖い、寂しい……全て、私が置き去りにして蓋をした感情だった。今更それらの温度を思い出すことはできないが、先程までの冷たいような、寒いような心地が今はほんのりとした温かさに上書きされている。
涙は流れずとも泣くことはある。そして、その涙で救われる心がある。これで初めて、私は自分の生と死に向き合えるのだろう。
それからも、ココは変わらずいつも通り接してくれた。私もいつも通りに接しつつ、いつも通り仕事をしてはココに休めと怒られた。どうやらココは最近、死神の仕事は溜まっていた有休を利用して休んでいるらしい。ほとんど四六時中私の側に居た。
「ねぇ、あとどのくらい? 終わったら一緒にお昼寝しようよ〜」
「もうすぐ終わる。あとはこの書類を……っ」
羽根ペンを動かしていた手に突如激痛が走り、私は思わず息を止める。見ると手首から手の甲にかけてガラス化が進んでおり、書類仕事で手を酷使していたためにひびが入ってしまったようだった。ぴしりと蜘蛛の巣状に広がる傷口から血が滲み、私のような化け物でも血は赤いのか、などと的外れなことばかりが浮かぶ。
「どうしたの……えっ」
私の手を見たココの目が驚愕に見開かれた。
「おてて、割れてる」
驚愕はすぐに不安、恐怖へと形を変え、あっという間に目に涙が溜まる。ココは小さな手でそれが零れ落ちないようにと必死に拭っているが、ただ黒い制服の袖を濡らすだけだった。
「ココ、落ち着け。私はまだ大丈夫だ。ハデスに治してもらおう。奴の薬学の腕は確かだし、あれでも神だ。きっと何とかしてくれる」
そうココの頭を撫でつつも、私はこれがハデスにどうにかできる問題ではないことを分かっていた。仕事嫌いで少々面倒臭がりなところもあるが、何だかんだで優しい奴のことだ。できるものならとうに私を治していることだろう。
「もうボロボロじゃないか。割れてないってだけでこうなっているのは手首だけじゃないんだろう? それなのにまだ働くって言うの?」
「ああ。私はまだ終われないんだ」
「……馬鹿だよ、本当に。大馬鹿だ」
馬鹿だ馬鹿だと言いながら私の手に薬を塗って包帯を巻くハデスの声は情けなく震えている。
「もう働かないでって言いたいけど、きっと君は聞きやしないんだろうね。分かってるよ。でも、こんなになってまで働くことに執着する君が、僕には分からない……」
申し訳ないとは思う。こんなにも私を心配してくれる人が居て、大切にしてくれる人がいる。しかし、捻くれ者の私はその思いを素直に受け止めて少しでも長生きできるように養生するなどできはしない。
「自分のことはきちんと自分で分かっている。私はまだ大丈夫だ。ありがとう」
執務室に戻り、コーヒーの代わりにココが持ってきたホットミルクを飲み干すと溜まっている書類を見ても不思議と何もする気になれず、ココと共にベッドに寝転んだ。途端に重くなる身体に自分の疲労と限界を突きつけられている気がする。私はもうここまでなのかと思うと胸の奥から感情と呼ぶのも烏滸がましい程に醜い、ぐちゃぐちゃしたものが湧き上がってきた。
「まだ働ける……まだ頑張れる……」
そう自分に言い聞かせた。頭が痛い。気持ちが悪い。吐き気がする。
思わずココを強く抱きしめようとすると、反対に私が抱きしめられてしまった。
「もう良いよ。リアは頑張ったよ。頑張らなくて良いよ」
「違う、違うんだ……働かないと、頑張らないとまた居場所を失ってしまう。また捨てられてしまう」
この程度、何ということはない。頑張って頑張ってがんばってがんばってがんばらないと。
「しごと……しごとを、やらなければ……」
ココの手を離してベッドを抜ける。その瞬間、私の目の前は真っ暗になってしまった。
リアが倒れた。私はやっぱり何もできなくて、泣きながらハデスさんを呼びに行った。
「元々限界を超えてたのもあるけど、状況を見るに今回のは精神的なものかもね。リアちゃんは昔、それなりに辛い思いをしてきた子だから」
ベッドで眠るリアに手を伸ばしかけて、でも見えない壁に阻まれたかの様に引っ込めてハデスさんは言う。昔……そっか。私、リアのこと何も知らないんだ。そう気づいた途端、見慣れた癖のある赤毛や死人のように青白い寝顔が遠いものに見えた。
「リアちゃんはね、とある神の気まぐれで作られたんだ。今いる人間たちとは別の新たな存在……神が神を作ろうとした、と言った方が正しいかな」
そんな私の気持ちを知ってか知らずか、ハデスさんは淡々とリアの過去を語っていく。まるで台本を読んでいるかのような平坦な声は、まるで感情を押し殺しているように聞こえた。
「そして、リアちゃんはその失敗作だった。本来なら処分されていたはずの彼女を僕が半ば強引に引き取ったんだ」
言い終わるとハデスさんは私に向かってちょっと笑いかける。
「あとはリアちゃんに聞くと良いよ。じきに目を覚ますと思うし、僕はもう仕事に戻らないと。それじゃ、またね」
ハデスさんの姿が完全に見えなくなり、足音もしなくなった頃に私はそっとリアに話しかける。
「リアは……失敗作だから頑張らなきゃいけないの?」
閉じられた瞼はぴくりとも動かない。
「失敗作って誰が決めたの? 私にとってリアは一人しか居ないのに」
僅かに息が漏れ、薄く目が開く。
「……ココ?」
か細い声がした。私は飛びつきたくなるのを抑えて優しく、丁寧に手を握る。リアの手は大きくて、冷たくて、指を絡めると固いペンだこに当たる。ふにふにと手のひらを揉んで弄んでいると、不意につるりとした何かに触れた。
「ここも……これも、こっちも」
よく見てみれば、緩められた首筋から胸元、多分肩の方にもガラス化が進んでいる。元々白い肌が更に透き通って見え、綺麗だと思うと同時に息が出来なくなるくらい怖くなった。リアが死んでいく証を綺麗だと思った私が、今は一番怖い。
「そんなに出ていたか。あまり鏡を見ないから気づかなかった。流石にまずいな」
はっ、と溜息とも笑いともつかない乾いた息を吐き出してリアは身体を起こし、ベッドから降りようととした。まだ寝ていた方が良いと思って伸ばした手は空を切る。ドサッという音が何処か遠くから響く。もう立ち上がることができず、リアがベッドから落ちてしまった音だった。
「身体が言うことを聞かなくなるとはこのことか。困ったものだ」
あれからハデスにベッドへと強制送還され、私は自嘲気味に笑う。今の私はベッドの上で起き上がるのがやっとという状態だ。流石にここまで弱れば大人しくせざるを得ないが、信用できないと言われて今もココに見張られていた。
「リアは頑張りすぎなの。これを機にちゃんと休んで」
まるで私という存在に未来があるかのような口振りでココは言う。その優しい嘘は温かくて、でも同時にそれが叶わない現実の冷たさを際立たせた。
「分かっている。なら、暇潰しに昔話でもするか?」
『昔話』という単語を聞いた途端、ココの兎耳がぴくりと動く。
「ハデスが何処まで話したかは知らないが、やはり少しは聞いていたようだな」
「……何で」
「意識が曖昧だったので確かではないが、『失敗』『処分』『引き取る』という言葉が聞こえた。私の昔のことを話していたんだろう?」
ココの耳はぺたりと垂れ、項垂れた様子はしょんぼりという効果音が聞こえてきそうだ。
「……ごめんなさい」
「怒ってなどいない。むしろ、折角だから聞いてくれないか? 面白い話でもないが」
ベッドによじ登って私の隣に腰を下ろしたココの頭を撫で、私は昔のことに思いを馳せる。
「私がここに来たのは私の作り手……母とも言える存在だった知恵の神に捨てられたのがきっかけだった。人間にも神にもなれず、ただの物に過ぎなかった私は彼女にとっては失敗作に過ぎなかった」
「リアは物じゃないよ! 人間とか神様にはなれなかったかもしれないけど、リアはリアだもん」
私を見上げて抗議するココから感じるような温かさが私に少しでもあれば、捨てられずに済んだだろうか。
「外見はそうだろう。だが、私には心がない」
ぎゅうっと服を握りしめられる。そんなことないと言わんばかりに小さく首を振るココと視線を合わせることができず、目を伏せた。
「ガラス化の現象も心がないことと関係している。私は元々ガラス細工の人形だったものに擬似生命を吹き込んだだけの存在だ。表面上は人のように取り繕えているし、思考をするための脳のようなものもある。だが、心はそうも行かなかった。私の心臓部は冷たいガラスでできていて、そこを中心に少しずつ全身がガラスに戻っていく。それが今の私に起きている現象の真実だ」
胸に手を当てても心臓の鼓動は聞こえてこない。やはり、私はただの人形に過ぎないようだ。
「違う。リアはちゃんと生きてるよ」
私の考えを見透かしたようにココが言う。ドクン、と固まっていた心臓が動いたような心地がした。無論、ただのガラスが脈打つ訳もないので私の気の所為だが。
「何故そう思うんだ?」
「だって私の頭を撫でてくれるあったかい手も、ふわってちょっと笑う優しい笑顔も……死にたくないって言ってた時の寂しそうな顔も、頑張らなきゃって言ってた泣きそうな顔も、全部本物だったもん。元は人形だったとしても、今のリアはちゃんと生きてるよ」
ああ、そうか。私はずっと生きていたのか。
ポタリ、と包帯が巻かれた手に水が落ちる。それが何か理解する前に、手を伸ばしたココの小さな手に頭を撫でられた。
「よしよし。ちゃんと泣けて偉いね」
「……ありがとう」
それからしばらく経った日、私は何が起こるか分かっていたような気がした。だから、久しぶりに見た元同僚にも笑って応えられたんだと思う。
「久しぶりだ、リリム先輩」
「本当だな。確か十年ぶりだろう」
自分の身長程の鎌を背負い、一分の狂いもなく死神の制服を着こなした黒髪に赤い目の少女は私よりも十歳は下に見えたが、その実態は私よりも遥かに長い年月を生きている悪魔だ。
「もう迎えか?」
「いや……今回は私じゃない。お前を死なせるのはココだ」
珍しく苦い顔をしてリリム先輩が言う。私は驚いて彼女の制服の裾を掴んだ。
「待て、どういうことだ? そもそも私のような擬似生命は天国にも地獄にも行けず、魂の行き着く先は破壊しかないとリリム先輩も知っているだろう。魂の破壊にはそれなりの手順や精神力が必要だし、まだココには」
「ココはもう、死祭候補としてジェイドの元で救済者に格上げされている。此度の休職も、それに伴う準備期間という扱いで申請されているはずだぞ」
リリム先輩の声の意味が入ってこない。ココが昇格? そして私を? まさか……。
「本気でココを死祭にする気か?」
「……私は反対したが、上の決定だ。リアは知らないと思うが死祭は常に四人に保たれている必要があって、今までは書類上お前を死祭扱いすることで体裁を保っていた。そして、お前の死と共にココを死祭へ格上げし、お前を死なせることがココへの試験となる」
死祭になるためには、近しい相手や私のような擬似生命など導くのが難しい魂を刈り取るという試験がある。そのどちらにも当てはまる私がココの試験として最適なのは理解できるが、それをさせてしまえばもう……元には戻れない。近しい相手を手にかけるということもそうだが、魂の破壊によって流れてくる死者の残留思念は並大抵の者が耐えられる代物ではない。そんなわけで死祭候補のほとんどが精神を病むか、そうでなくとも一生残る傷を負う。
それを防ぐには、こうするしかない。
「リリム先輩。この手紙をココに渡してくれないか」
最後の文を書き終え、封筒にしまったばかりの手紙を差し出すとリリム先輩は黙って受け取った。
「では、恐らくこれで最後だろう。今まで世話になった。ハデスにも言っておいてくれ」
「分かった。では、またいつか」
そのままリリム先輩は部屋を出た。一人になって、私は死神時代に使っていた短剣を取り出す。鎌の扱いがあまり得意でなかった私はいつも二振りの短剣を使っていた。特別な材質で作られた短剣を使えば、魂を破壊するのも容易だ。仕分けの結果破壊と決まった魂を壊すのにも使っていた長年の相棒を少し眺め、大きく息を吸うと私はそれを自分の心臓目掛けて突き刺した。誰もいない部屋で、ガラスが割れる音と僅かに漏れた呻き声だけが響く。
「……な、かなか……死ねない、ものだな」
擬似生命としての身体は丈夫に作られていて、自他問わず殺すことは難しい。猛烈な痛みに耐えつつ短剣を引き抜くと、ゴポッと音を立てて血が溢れた。既に半分以上がガラスに変わっている身体でも、まだ血は通っていたらしい。薄れゆく意識の中で、聞き慣れた小さな足音が聞こえた気がした。
「リア、今日も……えっ」
ドアを開けた先にある見慣れた執務室は血の海だった。今まで何度も一緒にお昼寝したベッドは真っ赤に染まっていて、その中心でリアが倒れ伏している。だらんと垂れ下がった手に恐る恐る触れるといつものように冷たい。その温度は昨日までと全く変わらないのに、死神として死者と触れてきた所為で分かってしまう。この手が私を撫でてくれることはもう、二度とないことを。
「ココ、そこに行っちゃだめだ!」
後ろからドアを開け放つ音がした。振り向くと、今まで全力で走って来た様子のジェイド先輩が居る。流石と言うべきか息が上がったりはしていない。でも、いつもは綺麗に整えられている髪が、少しだけ乱れていた。
「ジェイド先輩、リアが……」
リアの手を握っていると、ぬるっと滑る感覚がする。見ると、真っ赤な血の色。まだ微かに温かくて、さっきまで生きていたリアの、血の色。
「遅かったか。クソッ、何でこんな時に限って予知が遅いんだよ!」
普段の可愛いジェイド先輩らしくない荒れた口調に、私は現実へと引き戻される。ジェイド先輩には予知能力があるというのは死神の間でもよく聞く噂で、それって本当だったんだと何処か遠くで思った。
「何で……リア、何で私を置いていっちゃうの?」
つう、と何かが頬を伝う。それが涙だと気づいた時にはもうボロボロと溢れて、拭う気にもなれなかった。行き場を失くした水はリアの手の上に落ちて赤い色を流していく。それでも動かないリアの手が頭を撫でてくれることはもう、二度とない。
「知ってたよ、リアが死んじゃうこと。それでも生きてる限り一緒に居てくれるって言ったのに、何で……っ」
血が付くことも気にせず、私はリアに縋って泣いた。むしろ私も血に染まっちゃえば良いと思った。人殺しの私はもうとっくにこの色に染まっているのかもしれないけど、それも全部リアの色で上書きされて欲しかった。胸元に顔を埋めていると、僅かな痛みとともに頬が切れる。血の中でリアだったガラスがキラキラと輝いて、やっぱり綺麗だった。
「ねぇ、ハデスさんならリアのこと生き返らせられる? 冥府の王なら、神様ならできるかな?」
「できないだろうね。ココも知ってるだろう? 例え神だとしても、死者の復活はできない。それがこの世界のルールだから」
いつの間にか隣に座ってリアの髪を撫でていたジェイド先輩の静かな声に、私は更に泣いてしまう。分かってた。ハデスさんは優しい人だから、できることならリアを生き返らせてくれてるって。そうじゃないってことはそれができないってことだって。
「……ここに来る前、リリム先輩がリアからココへの手紙を預かったって言ってたよ。今はハデスの仕事部屋に居ると思うから行ってみたら?」
私はやっとのことで頷いて、リアの部屋を出ていった。
「リアちゃんが……そう。分かったよ」
ハデスさんの部屋に行くと、もうリリム先輩は居なかった。ハデスさんは血塗れの私を見てびっくりしてたけど、リアのことを言ったら悲しそうに笑いながら机から一通の手紙を取り出した。
「リリムちゃんが『私はこれから任務だからハデスから渡して欲しい』って。本当は任務なんてないのにね。あの子、リアちゃんのこと結構気に入ってたからね……」
手を洗ってきてから手紙を受け取り、私は震える手でそれを開いた。リアらしいシンプルな便箋に、少し尖ったリアの字が並んでいる。
『ココへ
これを読んでいる時、私はお前の隣には居ないだろう。完全にガラス化するか、その前にリリム先輩あたりに刈り取られるか……まさかジェイドにやられる、なんてことはないと思いたい。奴のことだ、死人に口無しと言って私の死体を着飾らせるに決まっている。私に可愛い服は似合わないだろうに。それと私の死後、ハデスがあまりの人手不足で過労死しないことを切に願う。
ココはどうしているだろうか。優しいお前は泣いてくれるだろうな。置いていってしまって悪かった。一緒に居られなくて悪かった。いざ死を目前にして、後悔も懺悔も沢山ある。あれだけどうでも良いと思っていた命だと言うのに、不思議なことだ。きっと、お前が私を変えてくれたからだろう。本当に感謝している。お前はいつも、私にとっての拠り所だったんだ。仕事の合間にココが訪ねてくる時間が好きだった。ココが居たから少しは健康にも気を遣おうと思えた。ココが居たから自分の未来を……明日の先を思い描くようになった。
しかし、その明日は訪れなかった。今更怒りも悲しみもない。昔は失敗作だからと捨てられ、ただ死ぬために生きる理不尽に対しての怒りで散々荒れたものだが、今は特に何も思わない。そもそも私は生き物と呼んで良いのかも怪しいような存在だから生きている実感がないのも当然の道理だろうし、多少理不尽に扱われたとて私は物だから怒るべき理由にはならない。
いや、私は嘘を吐いた。本当はもっと生きていたかった。生きていると思いたかった。物じゃないと、失敗作じゃないと思いたかった。何十年分も溜まった有休を申請してお前と色々な場所を旅してみたり、一度くらいは可愛い服を着て恥ずかしがってみたかった。でもそれはもう叶わない願いだ。ならばせめて、お前と居る最期の時間を大切にしよう。お前と居れば過去や未来がどうだろうと、今この時の私は幸せだと言える。ガラスの心臓しか持たない私が感じる感情などまやかしに過ぎないとしても、お前はこれを心と呼んでくれるだろうか。
長くなったな。そろそろ終わろうと思う。
では、またいつか。
リア』
くしゃり、と音がして手紙に皺が寄る。切れたままの頬に涙が滲みて痛い。でも、心の奥はもっと痛い。
「……」
ハデスさんが近寄ってきて、隣に座る。何を言うでもなく、ただ座っている。
「もっと一緒にいたかった」
「うん」
「リアのこと大好きだって、もっと伝えたかった」
「そうだね」
「誰かにとって失敗作でも、リアは私にとって一つしかない正解だったのに」
「……そうだね」
ハデスさんは私の言ったことをただ受け止めてくれる。ただ慰めたり、無責任に励ましたりしない優しさが、今の私には一番ありがたかった。
少しだけ気持ちが落ち着いて、もう一度手紙に目を落とす。真面目なようでふざけている、でも正直なリアらしい文章に、今度は思わず笑ってしまった。
私はこれから一生、リアを過去の思い出として懐かしむことはできないと思う。楽しかった日々も失った痛みも、決して色褪せずに残り続け、例えその日が来ないとしてもまたいつか会える日を待ち続ける。それはある種の呪いなのかもしれない。
「ねぇ、ハデスさん。リアには何色が似合うかな?」
身体の血を拭いて綺麗にしたら、うんと可愛く着飾ってあげよう。リアが真っ赤になって怒るくらい。
形あるものがいずれ壊れるように、物語はいつか終わりを迎え、生には必ず死が訪れる。しかし生と死の隔たりは薄いガラス一枚程でしかなく、輪廻は巡り、新たな出会いと別れ、そして再会の日が訪れる。
またいつか会う、その日まで。
またいつか会う、その日まで 道華 @shigure219
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