第2話 無自覚

「で、あれから玲さんがかれこれ一週間家に泊まり続けているんだ。……俺は嬉しいんだが、このままでいいのだろうかと不安になってきた所でな。二人はどう思う?」

「音無、返事は拳で良いか?」

「もしくは先輩のマウスパッドがまた火を吹きますけど?」

「待て落ち着け、なんでそんなにキレてるんだ」


 この日の朝は同僚達がいきなり物騒な状態で始まった。聡一は握り拳を、小里はかつて高崎の頬をひっぱたいたマウスパッドを用意している。健斗の持ちかけた相談によって、どこからかゴングでも鳴りそうな雰囲気になってしまった。


「なんでって音無、金曜の朝からお前と泉さんが同棲していてどうしようとか聞いてくるからだぞ」

「どっ……同棲ってお前、別にそういうんじゃ」

「どこをどう切っても同棲じゃんか」

「仕事では一番常識人なのに、こういう話になるとダントツでポンコツになるの何なんですか?」

「ダントツでポンコツって……」


 散々な言われようだが、この件については健斗の鈍感さが原因と言えるだろう。二人の仲はもう誰が見てもそういう関係と思う所だが、当人達はお互い何故か踏み込まずにいるのである。不満そうな健斗だが、同僚からの口撃はまだ止まらない。


「しれっと名前で呼ぶのが普通になってるしよー、もう俺たちに相談する事無いだろー」

「あ、そういえば名前呼びのままだったな。でも玲さんも戻す気は無さそうだし……」

「おい叩けば叩くほど出てきますよこの野郎、佐々木先輩これ以上叩くとこっちが持ちませんよこの野郎」

「戸村のお前の呼び方が来るところまで来たぞこの野郎。この意味が解るか音無この野郎」

「なあ、これそんなに俺が悪いのか……?」


 健斗としてはただ状況を口に出しているだけなのに、二人の機嫌がどんどん悪くなっていく。ここまできてもまだ理解出来ていない健斗を見て、二人は急に真顔で影を帯びながら語りだした。


「音無先輩、知ってますか。人の惚気話って致死量があるんですよ」

「もしもその一線を超えそうになったら、俺たちは手が出てしまう。気をつけてくれよ」

「そ、そうか……」


 ならこの話はもう止めておいた方が良さそうだな、と思った健斗は話を打ち切ろうとした。しかし、そこで健斗の後ろから思わぬ声がかかったのである。

 

「……オフィスであまり物騒な話をしないで欲しいのだけど」

「あ、玲さん」

「えぇ!?」

「ふぁ!?」


 金曜なので玲は本社に出勤しており、三人の会話が気になって近くに来ていたのである。会話の内容はあまり聞こえていなかったようで、健斗の相談から始まったことは気づいていない。


「玲さん、会社で普通に話して大丈夫なんですか……?」

「ええ。もう気にしなくてもいいかと思ってね。勿論、貴方達以外にはいつも通りに距離を置くつもりだけれど」

「は、はあ……。玲さんが良いのなら俺も構いませんけど……」


 今オフィスで注目の的になっている彼女に、冷女と呼ばれる所以の冷たさはどこにも感じられなかった。健斗が溜め込むのを止めたように、玲も厳しい面を一手に背負う事を止めたのである。


 玲の砕けた口調を聞いて、周囲はざわついている。あれって本当に冷女さんなの、とかあの人日常会話するんだ、など失礼な言葉も度々見受けられる。そして動揺したのは同僚も同じようで目を見開いて口をポカンと開けていた。


「おいおい、泉さんのあんな柔らかい表情初めて見たぞ……」

「え、泉さんから冷たい部分が綺麗さっぱり無くなってただの美女になってるんですけど……?」

「まあ、そういう反応になるよなぁ……」

「出たぁ! 後方で腕組んで見てる古参のファンみたいな面! アルティメットウザい!」

「戸村、ファンというよりこれはもうって感じじゃないか?」


 小里はひたすらにげんなりし始めた。そこに聡一は何の気なしに一言付け加えた。ただその一言が健斗と玲を激しく動揺させた。

 

「か、彼氏ってお前な……」

「そ、そうよ……。そういう関係では無いのだし……」

「え、玲さん……?」

「っ! い、今のは忘れて!」

 

 玲は一気に顔が真っ赤になり、これまた同じく真っ赤になっている健斗の両肩を掴み揺すり出す。今の彼女は誰から見てもただの可愛い乙女となっていた。そんな彼女の姿を見たオフィスの人々は、全員の頭の中から冷女という単語が吹き飛んでいた。もう彼女が冷女という渾名で呼ばれる事は無いかもしれない。そうぼんやりと思った健斗の目の前で、我慢の限界を迎えた二人が口を挟んだ。


「あー完全にキレたぜ、惚気の致死量という一線を越えちまったぞ音無……」

「音無先輩、話あるんで後で『おサボりスポット』に……」

「おい戸村! 泉さんの前でその名前は……!」

「へ? ……あっ」


 小里はマズいと口を紡いだが、もう遅かった。聡一と小里がこれまで隠し通してきたその名前は、特に直属の上司である玲に聞かせてはならない名前だ。玲は笑みを二人に向けるが、二人は思いきりガタガタと震え始めた。健斗はあーあ、と呆れ顔で合掌した。


「……健斗くんを連れていくのよね? 私からも二人にがあるから、後で健斗君と一緒に行かせてもらうわね?」

「……はい」

「ごめんなさい……」

「やれやれ……」


 その後、『おサボりスポット』がかつて玲を非難させていた場所だと知ったために、怒り方は優しめだった。ただ『次は無いわよ?』と釘を刺されたことで二人はすっかり縮こまってしまったのであった。

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