第6章 契約の見直し

第1話 安寧な休日

 休日の朝、いつも健斗が使っているアラーム音とは違うメロディが鳴っている。アラームを優しく止めたのは、彼の家の一室に泊まっている玲だった。カーテンと窓を開けて空を見渡す彼女の表情は、とても清々しい気分であることを表していた。まだ束ねていない艶のある長い銀髪を簡素な輪ゴムで止めて、持ち込んだ大きな鞄から着替えを取り出し始める。


(本当に、ストーカーに悩まされる嫌な日々が終わったのね)


 彼女が上機嫌の理由は、つい昨日までずっと頭を悩まされ不安に陥れていた、高崎によるストーカー行為から解放された事である。今の様に窓を開けて姿を出すことすら不安だった日々は、計り知れない心労に繋がっていた。健斗に相談して良かった、と彼女は心からそう思っていた。


 何度もお世話になっている防音部屋から出た玲は、彼が寝ているリビングに向かう。平日は目覚ましを鳴らさない設定にしているため、見ている方も気持ちよくなるような寝顔で布団に入っていた。

 

「……ふふっ、これは中々起きそうに無いわね」


 玲にとっての彼は、最初はただ同じ課にいる一人の後輩というだけだった。それが今では、本当の自分を受け入れてくれた上にストーカーからも守ってくれた大切な人となった。問題は解決したはずなのにしれっと健斗の部屋に引き続き止まっている彼女は、彼にすっかり絆されてしまったのである。会うときはいつも、自分の目をはっきりと見てくれる両目が今は閉じている。


 じっと見続けているうち、髪留めをまだしていないために垂れ下がる自分の髪を左手でそっとかき上げ、ほぼ無意識で彼の顔に自分の顔を近づけていき、二人の唇があとほんの数ミリまで距離が無くなった。そのままくっつくかと思われた直前で、玲はハッとして顔を上げた。


「私今、何を……!?」


 自分が今しようとしていた事に気づいて、玲はカッと顔が熱くなった。心臓の鼓動が早くなり、まだ残っていた眠気も何処かへと行ってしまった。

 

「……もう少し寝かせておきましょうか」


 今の自分の顔は見せられないと思った玲は、健斗を寝かせたままにして朝の支度をするためにキッチンへと向かった。



 そろそろ朝ご飯が出来そうになった辺りで、彼が目覚めたようだ。眠たい目を擦りながら起き上がってきた健斗は、まだ頭が半分くらいしか起きていない様子である。


「おふぁようございます……」

「おはよう。あら、寝癖がついてるわね」

「あ、本当だ。……今日は休みだし、いっか」


 健斗は手で自分の髪を触り、自分の頭が爆発している事に気づくが直す方向に考えがいっていない。いつも玲の前では恥ずかしい姿を見せまいとしている健斗だが、そこまで意識が回らずに素の状態で接していた。


「ふふっ。健斗君、なんだかフニャフニャね」

「あ、すみません……。休日だと思うと気が入らなくて」

「いいのよ。昨日は頑張ってくれたのだから、朝くらいは私に任せておいて」

「いいんですか? じゃあ、お願いします……」

「ええ、とりあえず顔を洗ってきたら?」

「はい……」


 笑顔の玲にそう言われるまま、健斗は洗面所へトボトボと向かう。寝癖を手櫛で簡単に直しつつ顔を洗うと、健斗の意識は少しずつ覚醒していく。すると自分が玲とした一連の会話を思い出して一気に青ざめていく。


(あれ、何で休日なのに玲さんが……、って俺今めっちゃだらしない恰好で玲さんと会話を……。お、俺は何てことを!?)


 健斗は慌ててキッチンに向かい、玲に謝る。しかし玲は特に気にすることなく変わらず笑顔を向けてきた。


「す、すみません玲さん! 俺とんでもなく失礼な態度を!?」

「あら、別にいいのに。今の健斗君、かわいいから私は好きよ?」

「っ! す、好きって……」


 玲の直球な好意の言葉を聞いて、健斗はすっかり赤くなってしまった。せっかく直したと思った寝癖も再び立ってしまう。そんな様子を見た玲はまた笑いが零れていた。


 最初は在宅勤務の時間に部屋を借りるだけの契約だった。健斗と玲が会うのは基本的に鍵の受け渡しのみ、それ以上の事は起こらないだろうと二人は思っていた。それが今では休日の朝の一時を共に過ごすようになっている。リビングのテーブルで向かい合いながら朝食を食べる時間は、双方にとって至福の時間だと感じていた。

 

 朝ご飯を終えた後、玲は一度帰宅するという事で荷物を纏めていた。健斗は名残惜しいと思いつつも玄関まで見送りをする。

 

「それじゃあ、今日は一旦家に戻るから。流石に携帯用のお泊りセットだけでは足りなくなっちゃったからね」

「はい……。何か手伝いましょうか?」

「いえ、そこまで荷物も多くはならないから大丈夫よ。また月曜から行くから、よろしくね」

「はい! ……俺としては休日も一緒のほうがいいんですが」

「そ、そう? なら、今日は難しいけど次週からはそのつもりで準備しておくわね」

「え、俺今声に出てました!?」


 健斗がうっかりと零してしまった本音は玲の耳にしっかりと届いてしまっていた。玲もその言葉を嬉しいと感じて、照れながら肯定の返事を返した。こうして甘い時間は一度終わる事となった。


 ちなみにだが、玲が健斗の家にこれからも泊まるという話は全くしていない。泊まる理由について二人は特に触れる事もなく、どちらも既にそうするものだと、寧ろそうしたいと思っていたのである。

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