第4章 玲は気にかける
第1話 公私混合を止める
「音無君、連絡先を交換しましょう」
「えっ? 連絡先ですか……?」
健斗と玲の部屋貸し契約が始まってから、既に一か月以上が経過していた。そんな矢先、健斗の入れたコーヒーを片手に玲はそう言ったのである。
「……してなかったでしたっけ? 何かこれまで普通に何度もやり取りをしていたような……」
「社用のチャットでのやり取りだけでは、時々困ることがあったでしょう?」
「あ、そっか……あれ社用のだった」
「……今更という気もするけど、仕事と個人の都合は分けないとね」
何度もやり取りをしている内に、健斗は使用しているチャットがあくまで社用のツールであることを失念していた。玲もそのことを自覚しつつも使用していたが、流石にもう止めておこうと考えた故の提案だった。
「最初は仕事に必要な契約だったから良いと思ってました」
「私も始めはそのつもりだったのだけれど……私達、もう仕事時間以外にも普通に一緒に過ごしているじゃない?」
「た、確かに」
最初は本当に最低限で業務的なやり取りしかしていなかった。それが今や、次に飲むインスタントコーヒーのメーカーをチャットで話し合うという状態になっていた。おおよそ仕事とは言えない内容である。
「あ、じゃあ登録を……えっと、連絡先の登録は……」
「私も準備しなくちゃね」
お互いに連絡先を開く。が、そこで二人とも動きが止まってしまう。ゆっくりと同じタイミングで顔を上げて、口を開いた。
「ねえ、音無君」
「あの、泉さん」
「登録って、どうやるんだったかしら?」
「登録って、どうやるんでしたっけ?」
声が重なった。そう、二人は連絡先を交換する経験が少なすぎてやり方を忘れてしまっていたのである。無言で数秒間見つめあった後、二人は空気に耐え切れずに息が漏れてしまった。
「……くすっ」
「……ぷっ」
「私達、社内で話せる人が少ないものね……ふふっ」
「そうでした……。けど、なんかちょっとホッとしました」
「本当に、気が合うわね。さて、連絡先の登録方法を調べましょうか」
「はい!」
持っている端末での登録方法を検索して、探り探りでどうにか登録を済ませることが出来た。健斗は登録された玲の連絡先をじっと見つめる。
(まさか、泉さんとここまでの関係になれるなんて……夢にも思わなかったな)
ただ部屋を貸すだけの関係というのも変な話だと思っていたが、今の状態は確実にそれ以上の関係になっていると言えるだろう。健斗からすれば、思わぬ幸運が次々と押し寄せているような状態だ。大切な関係がより強固な物となっていく。
けれど、人は
(この関係だけは、消えてほしくない)
彼の中に眠る仄暗い感情が、少しだけ顔に出てしまう。その表情は何かを思い詰めている様にも見えた。そしてそれは、目の前にいる彼女にも当然伝わってしまう。
「どうしたの音無君? ……やっぱり、上司と連絡先を交換するなんて嫌だったかしら?」
「あ、いえ! 嬉しいです! じゃなくてその、間違いが無いか確かめていて……」
「それは大丈夫だと思うけど……。丁度良いわ、あれを使いましょう」
「泉さん、どこへ……?」
誤魔化せた事に安堵する健斗を置いて、玲は防音部屋に入っていった。数秒経った後、健斗の端末が鳴り始めた。玲からのコールに出ると、彼女の声が聞こえてきた。
『これでどうかしら?』
『は、はい! バッチリです!』
連絡先を交換した事で、電話が出来るかどうかを試したのである。玲は防音部屋を介しても端末からちゃんと音声の疎通が出来ていることを確かめようと思いついたのである。通話を切って部屋から出てきた玲は、自然な笑顔で健斗の前に戻ってくる。
「よかった、大丈夫そうね」
「そ、そうですね! ……けど、繋がれば良かったのですから通話まではしなくてもよかったんじゃ……?」
「……」
健斗にそう言われた玲は、やや目を見開いて頬が薄紅色に染まった。端末を持っていない方の手で口元を覆い、健斗から顔を逸らした。どうやら彼女はそこに気が回っていなかったようだった。
「そう、だったわね。……久しぶりの事をしたから、ちょっと浮かれすぎてたわ」
「い、泉さんも浮かれる事があるんですね」
健斗の言葉に反応した玲はジト目を向ける。オフィスでは冷ややかな目つきで散々怖がられている彼女だが、今の彼女からは冷たさを全く感じさせないものだった。
「……音無君こそ、時々遠慮なく言ってくれるわよね」
「ええっ!? すみませんそんなつもりじゃ!?」
「ふふっ。お互いに遠慮は無し、音無君がそう言ってくれたのだからそれで良いのよ」
「まあ、そうですけど……」
「こんな私にも幻滅しないでいてくれているもの。……それに、君だって私に弱みの一つ見せてくれたっていいのよ?」
「そ、それは流石に……」
健斗と玲の関係は、台風の一件から距離が急激に縮まっていた。玲が普段人に見せないような姿を、健斗は何の迷いもなく受け入れた。彼女がこれ程までに心を許せる相手など、健斗以外にはいないだろう。ちょっとムスッとした今の表情だって、健斗にしか見せないものである。
「……だって、私ばかりじゃズルいじゃない」
「!?」
彼女の可愛すぎるボヤきに健斗は卒倒しかけたが、どうにか持ちこたえた。ここからも二人の生活はより深いものとなっていくのであった。
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