第10話 健斗は玲の古参ファン
玲が健斗に気を使わないようになってから一週間が経った。これまでなら玲の姿が見れるからと張り切っていた金曜日だったが、今では平日の中で唯一玲と二人きりで会えない曜日となった。健斗はやや気落ちしながら仕事に取り組んでいた。
「音無ー、今日は金曜だなー」
「おー、そうだなー」
聡一の気の抜けた声に健斗は普通に答える。何の違和感もないやり取りだと思ったのだが、健斗の答え方に対して小里がツッコミを入れ始めた。
「……やっぱりおかしいです!」
「何がだよ……?」
「あの音無先輩が金曜にテンションが上がっていない事がですよ!」
「いつもなら泉さんの姿が見られるからって、声が二割増しになってるところなのになー?」
「……そうだったのか?」
どうやら健斗自身が自覚していない癖があったようで、それが今はそうじゃないらしかった。指摘された今も特に実感は無い健斗だが、そうでなくなった理由については何となくわかっていた。
(今は寧ろ、他の曜日の方が会う時間長いからな……)
在宅勤務の日は朝と夜に会い、時々一緒にコーヒーを飲む時間がある。逆にどちらも出勤である金曜日は挨拶も無ければ会話をすることがなくなってしまうのだ。その結果、今までテンションが上がっていた金曜日が反対に下がる日となるのは道理なのだった。
「おはようございます」
玲がオフィスに姿を見せると、相変わらず空気が張り詰める。社内で見る玲は、これまでと全く変わっているようには見えない。しかし健斗にだけは、どこか違っているように見えていた。
「……泉さん、なんか上機嫌だな」
「え?」
「は?」
健斗の発言に、二人は全く持って理解ができないという顔になった。目を凝らして玲の顔を数十秒ほど睨みつけるように見つめる。しかしわからなかったようで、諦めたように席に腰かけて脱力した。
「……わかります?」
「いや全っ然……」
健斗は彼女の雰囲気から気分を察していたため、顔だけを見てもわからないものである。その違いが自分にだけわかっていると知って優越感が込み上げていた。
「ふっ、そうか……」
「うわムカつく! この人後方で腕組んで見てる古参のファンみたいな面してますよ!」
「先輩に対する言い草じゃないけど気持ちはわかるぞ戸村!」
「そこまで恨みを買うような事か……?」
健斗が二人からここまで威圧の目を向けられたのは初めてだった。しかし気持ちが満たされている健斗には全く効いていなかった。ふとチャットにメッセージが来ている事に気づき、画面を見る。
『君の同僚が睨みつけてきたのだけれど、何か気に障る事をしちゃったかしら?』
『いえ、全然気にしなくても大丈夫です』
『そう? なら気にしないでおくわね』
(泉さんは全然冷女なんかじゃない。今もこうして周囲を気にかけていたのだから)
聡一と小里が玲のこういった一面を知ることはないのかもしれない。けれどいつか知ってほしいような、自分だけ知っていたいような複雑な気持ちに挟まれるのであった。
その日の作業が想定以上に立て込んでしまい、朝とは打って変わってピリピリと張りつめた空気になっていた。健斗のいる課の全員が既に残業を覚悟しているという状況である。いつも気の抜けた顔でのんびり作業している聡一と小里も例外でなく、怠そうにせっせと手を動かしていた。
「はぁーあ……。今日は長丁場になりそうだな、なー戦友?」
「今回ばかりは俺も手伝う余裕無いからな」
「ひぃーん……」
「なっさけない声出さないでくださいよ……、笑いかけちゃったじゃないですか」
「そこは笑い飛ばしてくれよー」
「こっちも余裕無いんで無理でーす」
聡一が健斗の事を戦友呼びする時は、決まって健斗に仕事面で頼りたくなった時だ。健斗はこうなるだろうと既に察していたので、早めに望みを斬り捨てておいたのである。こんな会話をしている間も作業の手を止める事もせず、やや空気も張っている状態だ。
ふとここで、健斗は今日の帰りが遅くなるから玲に連絡を入れなきゃ、と考えた。
『すみません、今日は長時間の残業になりそうです』
既読が付いてから、少し間が空いた。いつもの玲ならすぐに返信が来るはずなので、健斗は疑問に感じて彼女の方を見る。すると玲と目が合ったのだが、いつもより少しだけ目が大きく開いていて、健斗に対して何か疑問を持っているように見える。考える素振りをした後、漸く返信が来た。
『それは、わかったのだけれど』
『どうかしたんですか?』
玲にしては珍しく歯切れの悪い言葉である。返答を待つと、玲から短い一言だけの文章が送られてきた。
『今日、金曜日よね?』
「……あ」
数秒固まってから、健斗はようやく気が付いた。金曜日は玲もオフィスにいるので戸締りの事を気にする必要がないのである。目の前のタスク量ばかりに目が行っていたため、今も目が合ったのにそこに気づいていなかった。
「……ふふっ」
「!?!?!?」
ほんの一瞬、玲が笑った。オフィス全体を取り巻いていた緊張の空気が、一瞬でざわつきに変わった。課のほぼ全員が手を止めて玲の方に顔を向けている。
「冷女が今、笑った……?」
「まさか、気のせいでしょ……?」
誰もが自分の目と耳を疑っている中、健斗だけは恥ずかしいという気持ちでいっぱいになっていて玲の方を見られなかった。
『そうでした、すみません』
『仕事の事で頭が一杯だったのでしょう? 気にしなくていいわよ』
『はい』
(あー……しくじったあぁー……)
恥ずかしさに両手で顔を隠しながら項垂れる健斗に対して、聡一と小里は偶然にも玲が笑っている所を目撃していたようだった。衝撃を健斗と共有しようと聡一が慌てて小声で話しかける。
「お、おい音無! 今の見てたか!?」
「……何がだ?」
「うわー! お前が今のを見逃すなんて勿体なさすぎるだろ!」
「今、泉さんが笑ってたんですよ! これまでオフィスじゃ一切笑ったことなんて無かったのに!」
まるで大事件が起きたかの様な空気にオフィス全体が包まれている中、健斗はとても冷静だった。なぜなら彼は彼女のもっといい笑顔を知っているからである。そんな優越感がつい態度に出てしまう。
「ああ、まあそうだな……」
「だからその古参ファン顔止めてくださいほんとーにムカつく!」
「まあ君らはまだそこか、って言われてる気がしてすげえ腹立つ!」
「お前ら余裕無いんじゃなかったのかよ……」
二人の解せぬ顔を無視して作業を進めていると、怒りを健斗にぶつけるのではなく目の前の作業にぶつけ始めた。
「めっちゃムカついたから先輩より絶対先に帰ってやるぅー……」
「したり顔でお先に失礼してやるぞ音無いぃー……」
「お、おう。それはもう普段からそうしてくれていいぞ」
「ムキィー!!」
これまでの数倍のスピードで作業をし始めた二人と、呆れた目で二人を見る健斗。そんなやり取りをコッソリと見ていた玲は、人知れずまた笑みを零していたのだった。
「……」
ただ、一人だけそんな玲の変化をじっとりと見つめる人影があった事に、気づくものは誰もいなかった。
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