第6話 部屋を貸りたい
玲からの耳打ちがあって数秒後、健斗は一度冷静になるためほんの少しだけ距離を空けて返事をした。空けた、といっても玲の話はまだ終わっていないので玲の香りを感じてしまうほどに近い距離である。当然冷静にはなりきれないのだが、どうにか受け答えができそうだ。
「えっと……、俺の部屋を泉さんの仕事場として使いたい、ですか?」
「はい」
在宅勤務を行う際には注意しなければならないことがいくつかある。当人が仕事に集中できる環境であること、社員とのコミュニケーションが極端に取れなくならないようにすること、社内の情報が漏れてしまわないようにセキュリティを万全にすることなどが挙げられる。そんな中で玲が気にしているのは、セキュリティの面についてだった。
「私が金曜日以外の四日間は在宅勤務の契約である事はご存じですよね?」
「それは、もちろんです」
「現在使用している部屋が防音ではありません。機密事項を取り扱う今の作業を行うには、些か不安があるのです」
「確かに、漏洩とか怖いですからね」
「勿論使用する端末にはセキュリティソフトや対内接続用のアプリもインストール済みですが、会議中の会話等はどうしても防げません」
「そこで防音の部屋が必要、と」
「そういう事です」
数十分前に健斗は冗談で在宅に使えそうと言った。しかしまさか本当にその使い道になるとは思っていなかったのである。
「でも、そんな情報を俺の家に持ち込んじゃうほうが危なくないですか?」
「音無君は信頼に足る人物だと判断できます。言いふらすような事はしませんよね?」
「まあ、しませんけど……」
自分の会社の情報を流すなんて百害あって一利無しである。そのことは健斗も重々承知している。ただこのまま玲のお願いを受けていいものかと返事が言い淀んでしまう。
「心配は無用です。君の生活に支障が出ないように動きます」
「その心配はしてないんですが……、いいんですか? 男の部屋に一人でだなんて……」
「……あくまで職場としての使用だけですから、余計な事はしないつもりです。ですので……」
「へ、あの……また近……!」
またしても二人の顔が近づく。先程は耳と口だったのが、今は正面同士。玲のエメラルドの瞳が健斗の黒目をしっかりと捕まえている。
「受けて、いただけませんか?」
玲も場の雰囲気に合わせて多少のアルコールを体に入れている。そのせいか頬はほんのりとピンク色に染めて、ややキツめの目尻も今は緩んでいる。こんな状態の玲に頼み込まれては、健斗に断るという選択肢など存在していなかった。
「は、はい」
「……ありがとう。それじゃあ、お願いするわね」
「っ!」
玲は、軽くだが微笑んだ。丁寧な口調も一瞬だけ崩れた。社内では決して見ることの無かった笑顔を、増して至近距離で向けられてしまった健斗が放心状態になってしまうのも止む無しと言える。
「よろしければ明日にでも流れを確認しておきたいのだけれど、空いていますか?」
「あ、空いてます……」
「それでは明日、君の家に向かいますので……よろしくお願いしますね」
「は、はい……」
玲は立ち上がり、幹事に支払いを先に済ませて店を出ていった。それをボーっと見届けた健斗はすっかり上の空となってしまい、飲み会終了の時間まで全く動くことができなかった。
「よーし帰るかー……っておーい音無どうした? 飲みすぎたか?」
「これだめですね、何でかわかんないですけど骨抜きにされてますよ」
「俺達がいない間に何があったらこうなるんだよ……?」
「とりあえず、タクシー呼んどきます? ……問い詰めるのは後日として」
「だな……、にしてもこいつ幸せそうな顔してんなー」
「……今なら財布からちょっと抜いてもバレないんじゃないですか?」
「……その考えは流石に引くわ」
「冗談ですよ、佐々木先輩じゃあるまいしそんなことはしないです」
「俺もしねえよ!? そんな濡れ衣の着せ方ある!?」
二人に話しかけられたり突っつかれたりしたことも、今の健斗には全く響かなかった。健斗が正気に戻ったのは、乗っていたタクシーが家の前に着いた時だった。
一人の帰り道、玲は先程の時間を反芻していた。
(あそこまで上手くいくとは思わなかったけれど、音無君が受け入れてくれてよかったわ)
夜風を浴びて火照った体を冷ます。玲の行動は酔っていたからか、それとも……。
「……これで、状況が良くなればいいのだけれど」
彼女の呟きは、誰かに届くことなく暗闇に溶けて消えていった。
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