似た者ランナー

本庄 照

似た者同士の日比谷ランナー

 彼の名誉のために、ここでは本名を伏せておく。

 本名を少しもじって「アーサー」。僕だけが呼んでいたニックネームだ。


 しかし名前を伏せなければならないほどの所業をブッかましていたのは、紛れもなくアーサー自身なわけで、なぜ僕が配慮してやらなければならないのか。アーサーと名前を出した今になってから妙に腹が立ってきたが、まあいい。


 アーサーの本名が知れると、アーサーを親友と呼んでいた僕にまで被害が被りそうじゃないか。酔って僕の鞄にゲロを吐くわ、友達との旅行で飛行機に乗り遅れそうになって、旅行に一切関与していない僕にレンタカーで空港まで送らせるわ、単位が危うくて教授に謝りに行くのに着いて行かされるわ、とにかくそういう類の人間だった。そんな奴と友達であるという時点で、僕の人格まで疑われてしまう。


 というか、最初からアーサーはヤッバイ奴で、なんと初対面で僕は彼に金をせびられたのだった。

「財布忘れてさぁ。貸してよ、一六〇円」

 日比谷公園をランニングしていた僕が、薄暗い中で背後から声を掛けられた。

 振り返ると知らない若い男で、そいつがアーサーだったのだが、初対面からタメ口だったのだから僕はそこでアーサーを無視しておくべきだった。アーサーは遠くの光る自動販売機を指さした。


「五百ミリのジュース飲んでんじゃねぇ! ちっちぇー方の水買って飲め!」

 僕からアーサーへの初めての言葉は怒号だった。

「それにするから金貸して」

 返してもらおうとは思わなかった。僕は溜息をつきながらポケットから生の百円玉を二枚アーサーに渡した。


「お前、平安古典Ⅱ取ってるだろ?」

 アーサーはお釣りのじゃらじゃらした十円玉を僕に返しながら尋ねた。

「取ってるけど、なんで知ってるんだよ」

「俺も取ってるもん。来週の授業は出ろよ。ちゃんと百六〇円返すから」

 僕が一昨日の講義を切ったのもバレていたらしい。

「だから他人の金で五百ミリのジュース飲んでんじゃねぇ!」

「返すんだから、いくらのもの飲んだっていいだろ!」

 アーサーはコカ・コーラを飲んでいた。トレーニング中に。きっしょ。


 いずれにせよ、アーサーはそういう奴だった。顔を覚えるのが得意で、社交的で、誰とでもすぐに仲良くなってしまう。愛され体質という言葉があるのなら、それはアーサーのための言葉だった。

 僕は違う。大学の陸上部の長距離パートには所属しているものの、特別上を目指すわけでもなく、一人で自分で作った緩めの目標を目指して黙々と走っていた。


 アーサーも僕と同じ長距離選手だが、彼の場合は駅伝パートらしい。部活は同じでも規模がかなり大きかったし、パートが違えば練習も別でやっているわけで。

 まあ箱根を目指すレベルではないにせよ、アーサーが僕とは違ってかなりキラキラしているのは、彼の日常の姿を見ても明らかだった。


「似た者同士だよね」

 大学でも共に過ごすようになると、周囲からよくそう言われた。トレーニングコースも同じなら、ジムも一緒、飲んでいるプロテインも一緒、あとは平安古典Ⅱを取っていて、仲良くなってからは彼に合わせて取る授業も増えた。アーサーつながりで友人も増えた。

「だろ、俺達親友だから」

 アーサーは僕の肩を叩く。

 本当にそうかな? 共通点なんて、走る距離くらいのものじゃないの?


 しかしアーサーが親友だとこんなに連呼するのだから、一応親友ということになるのだろう。アーサーは僕があげるよりセンスのある誕生日プレゼントをくれた。トレーニングに最適な食事の相談にも乗ってくれた。

 でも僕以外の親友とは沢山旅行に行っているのに、僕を誘うことはなかった。だから乗り過ごしかけのアーサーを空港に送ることができる唯一の人員となったのだが。


「また痴話げんかだってよ」

「前から三か月経ってないじゃんか」

「何があったの?」

「浮気したんだよ」

「またかよ」


 ……僕が浮気性アーサーと似た者同士であることは断じてない。

 やっぱ良かったよ名前伏せといて。

 

 共通の友達からそんな話を聞くことがあっても、アーサーが直接僕にそういう話を持ってくることはなかった。僕は全部アーサーに相談していた、というかアーサーしか相談できる相手がいなかった。


「俺の親友がさ、闇バイトに関わってるかもしれないんだよ。助けに行きたいんだけどさ、付き合ってよ」

「……なんで俺も一緒に助けに行くんだよ」

「お前、笑顔が怖いから。超便利!」

「そんなんで行くわけねぇだろバカ!」

「俺の親友のピンチなんだよ! 頼むって!」

 そう言われたら行くんだよな、僕は。そしてアーサーは、こういう妙な時に声をかけてくるんだよな。


 アーサーが親友を使い分ける基準は何なんだろう。長距離の相談ならきっと僕が相手なんだろうけど、それだけなんだろうか。アーサーにとっての僕は、ただの長距離友達なのだろうか。

 羨ましくて仕方がなかった。僕を置いて、皆の輪の中に入っていくアーサーが。そして入ってから、僕に手招きして輪に入っておいでよと無邪気に言えるアーサーが。


 大学三年くらいの時、ふと気づいた。もしここでアーサーと喧嘩したら、絶対に僕の人間関係は滅ぶ。僕の友人は揃いも揃って、アーサーの関係者ばかりなのだから。

 アーサーのゲロを掃除させられた苦情を愚痴として友達にこぼしたことはあっても、アーサーの人間性を否定する言葉を彼らに吹き込んだことはない。でもそれは僕がやたら外面の良いアーサーの人間性に、一度も引っ掛かってこなかったからで、もし引っ掛かったら破滅する。


 アーサーを介さない友人関係が欲しくなってきた。ジムで積極的に声を掛けるようにした。連絡先は増えた。だが、人生相談まではちょっと厳しい。そんな顔見知りばかりが増えた。


「なあなあ合コン行かね?」

「合コン?」

 以前から、アーサーに合コンに誘われることがあった。僕も僕でモテはしないし暗い方だが、最低限の清潔感はあり、礼儀礼節は中高の運動部で身についている。アーサーにとって僕は、人数合わせに都合がいい親友なのだろう。

「いや、今日は友達と遊びに行くから無理だ。ごめんな」

 初めてアーサーの頼みを断った。嘘をついた。友達と遊びに行く予定はない。


「えっ」

 アーサーが目を丸くした。

「友達って誰?」

 アーサーは僕の友達を丸ごと把握したつもりでいる。アーサーとの共通の友達のことを指しているのだと思ったのだろう。


「ジムの……新入りのトレーナーの遠藤さん」

「仲良いの? 知らんかった」

 遠藤さんとは確かに最近仲良くなってきた。といっても向こうは営業トークかもしれないが。遊びに行くほどの仲ではないが、ぱっと嘘が口をついて出てきた。

 そんなしょうもない嘘を口実に断られたアーサーの顔は、合コンを断られたはずなのに極めて明るい。


「今度紹介してよ」

「男だし、同じジムなんだから自分で声かけろよ」

「いいじゃん別に」

 アーサーは僕の友人を取るような、卑怯な真似をするわけではない。だが、アーサーと喧嘩したときの保険としての友人、いやそういう言い方をしたら僕の方が打算で友人を作る卑怯な人間に見えるか? いずれにせよ、今は僕の友人に安易にアーサーを絡めたくない。


 しかしやはりアーサーを全く介さない友人作りは難航を極めた。

 なにせランニングルートと行きつけのジムと大学が同じなのだから。そしてアーサーはジムの近くに住んでいるので、僕とも下宿が近い。日常生活圏の八割を同じくしている。

 似た者同士? そんな言葉が頭をよぎる。だからそんな筈はないんだって。

 連絡をこちらから取るのは躊躇う知り合いばかり増えて、僕はスマートフォンのLINEの画面を閉じた。


 そういう不必要な気苦労ばかりしていたら部活がおろそかになって、タイムが落ちてきた。三年になって忙しかったのもあるが、部内で一番の主力であるべき三年でタイムが落ちるのは肝が冷える。

 

「どうしたんだよ」

 悔しいが、僕の異変に気付くのもアーサーしかいない。

「なんもねぇよ」

「ほんとに?」

 まあいいか。アーサーで。何せ他にいないし。

「……タイムが伸びるどころか、落ちちゃってな」


 アーサーの方は調子がいいのは知っていた。駅伝の主力メンバーになって、箱根の予選会にも出ていた。順位はもちろん下の方だが。そこに嫉妬はない。アーサーは僕の鞄にゲロを吐くだけの頑張り屋である。

 僕の嫉妬は唯一、彼の人間関係だけだ。


「そか」

 アーサーの口調は明るい。

「一緒に走ろうか、親友なんだし」

 優しい。親友全員にそれができるのなら、もっと優しい。しかし僕がアーサーの誘いを断れるはずがなくて、僕はアーサーと共に日比谷公園のいつものルートに向かった。


 アーサーの方が実力が上回っているのはすぐにわかった。アーサーは僕のペースに合わせてくれている。以前なら息が上がるはずのなかった距離と速度でも、僕の呼吸が乱れ始めた。やはり僕のタイム、いや実力は落ちている。


「なるほどねぇ、気苦労か」

 アーサーは僕の悩みを根掘り葉掘り聞き出した。人間関係の悩みだ、と僕はアーサーに言った。アーサーにまつわる人間関係だとは言っていない。

「あんまり声をかけすぎてウザがられないか不安だとか。誘われるのは得意でも誘うのが苦手だとか。そういうのなら俺も分かる」

 なんとなく、アーサーに人間関係の悩みを共感されたくはない。僕は曖昧に頷いた。


「……アーサーはさ、いっぱい親友いるだろ」

「それがどうした?」

「旅行行く親友とか、一緒に走る親友とか、どうやって決めてんの」

「決め……? いや決めないけど」

 嘘つき。僕は息が上がるのを堪えながら、その言葉を飲み込んだ。


「お前、猫たくさん飼ってたとして、猫に役割とか決めんの?」

「決めないけど、そういう話か?」

「猫じゃなくていいけど。犬でもいいし兄弟でもいいし」

「……誰も特別はいないってこと?」


「いないよ」

 アーサーは少しペースを上げた。

「怖くて決められないよ。特別なんて」

 愛され体質っ子のペースに、僕は息を乱さずについていけていた。

「特別なんか決めたら、どう接していいか分からないし。ただでさえ、されるがままの人生を送ってきてるのにさ」

 されるがままの人生、というのが、アーサーの親友にもかかわらず僕には分からなかった。人気者という意味なら、素で人気者になっているという告白なのだから、羨ましく思うのが正直なところだ。


「ごめん、アーサー」

 僕はなんとなくスピードを緩めて立ち止まる。

「アーサーは駅伝パートの主力だし、僕と一緒に走らない方がいいと思う。喋る余裕があるペースだとあまり練習にもならないし」

「じゃあ俺の練習に付き合ってよ」

 少し先に行っていたアーサーが戻ってきた。肩を二回叩かれて、僕は渋々走り出す。


「……友達って難しいよな。自分が友達だと思ってて、自分だけが勝手に特別な相手だと思ってたら嫌じゃん」

 きっと共感は得られないだろうと思いながら、でもどうしても口にせずにはいられなかった。


「分かる!」

 アーサーは明るく答えた。

「そういう時は、親友って言っとけばいいよ。勝手に親友認定しても嫌がらない奴は、少なくとも友達にはなってるってことだろ。不安な時は、そうやって確認すればいい。何度だって確認できるから超便利だよ」

 アーサーの親友のからくりは、そういうことだったのか。


「明日も同じ時間でいい?」

「駅伝パートの練習はどうすんの」

「タイムさえあったら、休んでも何も言われないから別にいいよ」

 そんなのが許されるタイムなのか。ギリギリ嫉妬はしないが、正直羨ましい。


 アーサーは僕のタイムが戻るまで、しつこく僕と走り続けた。毎日、休みなく。二ヶ月以上にもなった。

 最後の方はほとんど会話をすることはなかった。アーサーは黙って僕の少し先を走るばかりだった。


 情けない気持ちでいっぱいだった。アーサーが明るくて友達が多いからって、アーサーが愛され体質だからといって、僕は無意識にアーサーから世話をされるつもりでいたことにはじめて気がついた。僕は一度も彼を旅行に誘ったことはなかったし、合コンに誘ったこともない。


 僕があまりにも親友らしいことをしないから、アーサーは僕に不安が少なからずあったのだろう。誘うのが苦手なのに僕を誘って。こうして一緒に走っているのもアーサーの誘いだ。それ以外にも、思い返せば思い当たる節はいくつもある。

 自分に親友がたった一人なのに気が引けて、そのたった一人の親友との関係が崩れることを気にして、アーサーに直接手を触れず、僕から彼への視線だけを後生大事にガラス張りのケースに入れて、彼からの視線に一度も目をやらなかった。

 僕の方が親友が少ないから、僕の方がよりアーサーを見ているに違いないと思い込んでいた。


 親友が何人もいるアーサーにできていたことすら、僕はできていなかった。

 アーサーがずいぶん先を走っているように見える。


 だからアーサーは人気者でいられるんだろうな。僕と違って。

 これを世の中では人間性という。それは残念ながら、僕にはない。


**


 大学を卒業してから、アーサーとは一度も会っていない。心の底の引け目がなくならない以上、顔を合わせてなんと話せばいいか分からなかった。


 だが世の中そううまくはいかないもので、一昨日ついにアーサーから結婚式の招待状が来てしまった。

 ついにこの時が来てしまった。アーサー、結婚するんだ。いくつものややこしい気持ちを全てないまぜにして、唇を噛みながら招待状を眺めていると、下の方にペンで書かれたアーサーの乱雑な字が見えた。


「鞄にゲロ吐いたの、まだ怒ってる?」


 そんなの最初から許していたのに、本気で怒っていたわけじゃないのに、覚えていたんだ。僕には一度も直接謝ったことがないくせに。はがきを持つ僕の指が震える。初めて、アーサーが僕の様子を窺っているような気がした。親友だから来いなんて、そんな乱暴なことをアーサーは書かない。


 アーサーは、僕が大学を出てから一度も連絡を取らなかったのを、カバンの中にゲロを吐いたせいだと思っている。そんなのを気にしていたなんて、初めて知った。いや、気に入っていた鞄を捨てる羽目になったのは事実なんだけど。ふふ、と僕は思わず笑い声をこぼした。


 こんなに不器用なんだな。

 生まれついての愛され体質だから不器用になったのか、あるいは不器用でも愛される力があれば生きていけるのか。

 似た者同士、と学生時代によく言われていたのを思い出した。

 ボールペンを手に取って、僕は返事を書き始めた。

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似た者ランナー 本庄 照 @honjoh

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