第20話 職場に新婚さんがいる
さかのぼること、結婚式数日前。
シェーラは、実家にて顔を合わせた姉のポリーヌに「あなたがどこまで何を知っているかわからないけれど」と、心配げに眉をひそめて切り出された。
「アーロン様が素敵な男性なのは皆が認めるところとして、今まで女性と付き合っていた形跡がなくて……。若干、それが気がかりというか」
すでに嫁いで三人の子を産んでいるポリーヌは、シェーラに対して、言葉を選びながら新婚生活の注意事項を話し始めた。
結婚式というお披露目が終わり、新居へ帰宅。着替えたり湯浴みをしたり、寝室で伴侶と顔を合わせたり。だいたいそこでどういう会話が繰り広げられ、何が起きるかについて。
その上で、ポリーヌが気にしているのは「アーロンの経験の無さ」であると。
「経験が無いということはつまり、経験が無いということでしょう?」
まるで、相手を煙に巻こうとする政治家のような言い方であった。
遠回しでもなければ、詩的でもなく、ごくごくストレートな割に内容が頭に入って来ない。
シェーラとしては、ポリーヌが何を言わんとしているかはそれとなく察していたが、アーロンの「経験の無さ」について別段気にしてはいなかったので、笑顔で応じた。
「私も男性とのお付き合いの経験はありませんので、そのへんはアーロン様とお揃いですね」
「そう、ねえ。それは、ええ。女性の場合はなんというかそう、それでも良いのだけど、男性の場合は少しむずかしい面があって」
テーブルの上で冷めていこうとしているお茶に手を伸ばし、ひとくち飲んでシェーラは気持ちを鎮めた。感情を波立たせることなく、ポリーヌと向き合うために。
(姉様に悪気はない。突っ込んだことを言われたからといって、私が苛立つ必要はないし、ここは冷静に)
心配がお節介に思えて鬱陶しくなったり、下衆の勘ぐりをされているように感じて警戒をしたり。それで壁を作ってつんけんとした対応をしても、誰も幸せにはならないはず。
なるべく、角が立たないように穏やかに言う。
「難しく考えるから、難しくなるのではありませんか。男たるもの、経験はしておくべきとか、女性をリードできなければ格好悪いとか。でも、これって誰視点なんでしょう。世間体でしょうか? 妻となる私が、そういった点でアーロン様を格好良いとか悪いとか考えないのであれば、まったく気にする必要のないところではありませんか」
ポリーヌは、シェーラの言い分否定することなく「ええ、もちろんそうよ」と繰り返す。その上で、言いにくそうに続けた。
「そうなのだけど、初夜での不具合というか、特に男性側の経験の不足における不手際のようなものは、男性のプライドを傷つけることが多いと、一般的には考えられているの。あなたが気にしなくても、相手は後々まで気にするかもしれない。だからつまり、そこの心構えね。特にアーロン様は自尊心の高いお方でしょうから、あなたもうまく盛り上げて……」
「自尊心が高いのは間違いないと思いますが、幼稚な方ではありません。気を回しておだてる方が、矜持を傷つけることもあるかと。そこは……、その、うまくお付き合いをしていこうと思います!」
結婚してはや十年のポリーヌは、貴族の妻として夫を影に日向に支え、寝所でも何かと励まして元気づけているに違いない。それが自分にとって馴染みの深いものになっているからこそ、シェーラにも同じように「夫の御し方」を教えてくれようとしているのだろう。
その心遣いはありがたかったが、シェーラはアーロンを、姉の夫と同じとは考えていない。
よって、参考になりそうなところはありがたく拝聴しつつも、全部が全部先達からの忠告として真に受けなくても大丈夫だと決め込み、ある程度聞き流した。
そして迎えた結婚初夜。
(一ヶ月の休みが必要って、こういうこと……!)
結論を言えば、ポリーヌのアーロンに対する心配は杞憂であったし、シェーラはシェーラでもう少し「夫の御し方」を真摯に聞いておくべきだったと猛省した。
たとえアーロンの女性関係の経験値が低くても、総合的な能力や知識は決して余人にひけをとらないどころか、凌駕している。
一方のシェーラは、自分で考えていた以上に不甲斐なかった。
何をするにしても照れるし恥ずかしがるしまったく慣れることなく、アーロンに一切太刀打ちすることができずに初夜を終えた。
このままアーロンのペースに乗せられている場合ではない、と結婚から一日休暇を置いただけの出勤を大変ありがたく思い「仕事がありますから」を建前に、一旦アーロンと適切な距離を置けたことは幸いだった。
会議の場では、周囲からの「いかにも何か聞きたい」「なんでも良いから言って欲しい」空気をひしひしと感じつつも、隙を見せずにプライベートに関しては守り抜くことに成功した。
子どもではないので、ある程度どんな会話にも対応できるつもりであったが、いざとなると赤面して言葉が出てこない可能性が高い。
すぐに追い詰められてしまえば、自分の仕事にも確実に影響がある。「シェーラ副隊長も、女だなぁ」などと言われるのは、単なる事実であっても嫌だ。
そこまで警戒していたシェーラをさておき、アーロンは余裕そうだった。
仕事の話をしているというのに「新婚早々妻と離れ離れは嫌です」を全身から醸し出していて、シェーラはいっそ感心してしまった。大胆不敵にして、自由だなぁ、と。
話し合いが終わると、さーっとひとが退出していき、あっという間に二人きりにされる。
シェーラとアーロンの距離、バートラムが立った空席ひとつ分。
(気を使われている。たしかに、いままでこんな職場内恋愛なんか周りにいなかったけど、もし新婚さんが職場にいたら、自分も絶対みんなと同じかそれ以上に気を使うと思う。ここは食堂で一緒に昼食でも食べて仲良しアピール……? 別々の方が不自然だよね? や、でも、どういう顔をして)
悶々と考えていたシェーラは、背後に気配を感じて、ハッと目を見開く。
いつの間にかアーロンが立ち上がり、シェーラの背中を取っていたらしく、後ろから首筋にふっと息をふきかけられた。
ぞぞぞ、と怪しい感覚が背筋を走り抜け、シェーラはなんとか悲鳴を飲み込む。
一方のアーロンは、のんびりとした調子で耳元で囁きかけてきた。
「喫緊の仕事は終わりましたし、帰りましょうか。早く二人きりになりましょう」
「なんて
くるっと振り返りつつ、背中をテーブルに押し付けて、可能な限り距離を取る。
目が合ったアーロンは、甘くにこりと微笑んだ。
「シェーラさんのそういう人馴れしないところ、大好きです。そろそろ懐いてくれたかな? と思って手を出したら噛みつかれるし爪を立てて引っ掻かれるしで、手が流血して穴だらけになるんですけど、そんなところが可愛いな、って」
「どこの野生の猫の話をしていますか!? 私はそんなことしませんよ!?」
「そう? お願いしたらキスをしてくれます?」
「いまのは話の流れがおかしいですよ、噛み合ってないです全然、キスは無関係! 私は、噛み付いたりはしないって言っているだけで……!」
逃げ道を探すシェーラさておき、アーロンは余裕を感じさせる表情で、楽しげに笑った。
「噛み付いてもいいのに。シェーラさんに歯型をつけられたら、その傷が癒えないように保存してしまいたくなります」
「『回復しない魔法』なんて、拷問以外に需要ないようなこと考えないでください!」
「拷問かぁ……面白いですね」
なぜかうっとりとした目で見られて、シェーラは耐えきれずに立ち上がった。
「へ、変なことばかり話をしていないで! はやく食事に行きましょう! じゃないと……二人きりで何をしていたのかと、勘ぐられますからっ」
自分で言って、たいそう恥ずかしい思いをしてシェーラは顔を真赤に火照らせる。立ち上がったせいで顔の位置が近くなったアーロンに、愉快そうにのぞきこまれてとっさに顔をそらした。
目を合わせないようにしたのに。
素早く背中に腕を回されていて、胸に抱き寄せられる。
「アーロン様……、だからこういうことは職場ではいけませんって、家に帰ってから……っ」
精一杯訴えかけたところで、アーロンは腕にぎゅうっと力を込めてきた。
「わかりました。じゃあもう少し我慢します。家に帰ってから、新婚生活の続きをしましょう」
おそらく自分は失言をした、とシェーラは悟ったが、もう取り返しがつかない。
そのとき、どこかから視線を向けられていることに気づき、戸口を振り返った。
細く開いたドアの向こうに、多数の気配。
目を向けた瞬間「気づかれた!」という囁き声が聞こえて、シェーラは硬直をする。
「……誰かいましたよね……」
「たくさんいるなぁ、と気づいてはいましたけど、俺はあんまり気にならないんですよね、ああいうの。見たいなら見せても良いかなって。シェーラさんのかわいい表情とか見られてはいけない部位に関してはだめですよ、絶対見せません。俺だけのものです。角度はきちんと計算して見えないようにしました。ただ、新婚なのでね、少しくらいのサービスは」
「少しも全部もだめです! 何を言っているんですか!!」
シェーラはぐいっとアーロンを押しのけて、ドアへと走り寄る。どん、と思い切って開け放つと、蜘蛛の子をちらしたように三々五々走り出す後ろ姿が見えて、「くっ」と唇を噛んだ。
(騎士団も魔術師団もいた! みんなで覗き見してた!)
それくらいなら、会議のときに堂々と話を振ってくれれば良かったのに、と悔しがるシェーラの背後で、追いついたアーロンがのんびりとした口調で言った。
「ずいぶん仲良くなりましたねえ、騎士団と魔術師団。政略結婚って威力、すごいですね」
シェーラの頭の隅で、忘れかけていたその言葉が蘇る。
政略結婚。
(そういえば、そうだった……)
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