第14話 そこは団長判断で
いつだって、危険はすぐ隣にあった。
シェーラが今日まで無事に生きてこられたのは「他人よりずば抜けて武勇に優れていたから」ではない。
警戒心が強かったからだ。
(油断した。浮ついていた。失敗のひとつが命取りになり得ると、わかっていたのに)
気分の乗らない日だった、調子が悪かった。
そんな言い訳が通用する仕事をしていない。
命のやりとりが日常の職に就き、責任ある地位まで上り詰めたのだ。
まさかその自分に限って、こんなところで。
男性に組み敷かれて、なすすべも無いだなんて。
「……っ」
首筋に生暖かいものを押し付けられて、全身がぞくりと総毛立つ。いやだ、こわい。逃げたい。
だが手足はがっちりと押さえ込まれ、声も出ない。
考え得る限り、最悪の状況だ。
ほんの少し前まで、アーロンのことを考えて、幸せな気分に浸っていたのに。
(似合わないことをして、楽しい気持ちになっていたから、罰が下ったの? 今までずっと恋愛とかそういうことから背を向けてきたくせに、何事もなかったように「そちら側」へ行くなんて、許されるわけない、と)
自責が止まらない。
マドックの手が服の上から鎖骨の上を撫で、指先が胸を掠めた瞬間。
わずかに、マドックの重心がずれたのを感じた。
シェーラは考えるより先に、足を跳ね上げた。
「副、団長……ッ!」
(ヒットした。行ける!)
マドックの分厚い手が空を切った。
顔を狙っている。
殴られると悟ったら、体が強張って、反応が遅れた。
紛れもない、恐怖。命を狙われるより怖い、暴力で服従を強いる欲望の、わかりやすい発露。
怖い……!
痛みは、なかった。
振り上げたマドックの手は、空で止まっていた。横から、手首を掴まれていた。骨ばった、長い指。暗い色のローブの袖がずり下がり、引き締まった手首までのぞいている。
蝋のような肌の白さには、見覚えがあった。
(アーロン様……?)
「手紙、シェーラさんに書いた後、言葉足らずだったんじゃないかと思って。追加の手紙を持ってきて、エリクに頼もうと思っていたんですが。変な気配が、ね。そういうの、離れていてもわかる。俺は魔術師だから」
手加減なしに振り下ろされた騎士の手を、アーロンの手が完璧に押さえ込んでいた。
力でかなうはずがないと危ぶんだシェーラの心を読んだように、アーロンは顔を上げてシェーラを見て言った。
「こういうのも、競り負けない。筋力だけでは本職には勝てなくても、魔力を乗せれば全然余裕だから」
どことなく、滑らかさに欠ける、ぎこちない口調。
アーロンはその流れで、不自然に動きを止めていたマドックを、離れた床の上に投げ捨てた。
手首を掴んだ片腕の力だけで。
そして、倒れたままのシェーラに手を差し伸べてくる。
シェーラは、はっと我に返った。
手の平を床について半身を起こし、口の中に詰められていた布を吐き出す。
「助けて頂いてありがとう、ございます」
「うん。立てる?」
目の前にはアーロンの手。
その手を取ることができず、シェーラは無言で立ち上がる。
押し倒されたときに体を打ち付けていたが、怪我をしたわけではない。
手を借りる必要は、ない、
ぽんぽん、と体についた埃を払う。
……考えがまとまらない。何か言うべきだとは思うのだが、言葉が出ない。
助けられて嬉しいはずなのに、心は凍りついてしまったようで、ひたすら固く冷え切っている。
(アーロン様に、見られた。「アーロン様のことで浮ついていなければ、こんなことにはならなかった」と、少しでも考えてしまった罪悪感もすごい。ひとのせいに、している場合ではないのに)
失態を晒したのは、自分の気の緩みのせい。
アーロンの話しぶりがぎこちないのも、シェーラのいたたまれなさに気づいているからのように思われた。もしかしたら、この場に自分が駆けつけてしまったことすら、悔いているのかもしれない。
それはさすがに、助けられた身として、申し訳が立たない。
感謝は、伝えねば。
「アーロン様、あの」
思い切って話そうとした瞬間、戦場で鍛えた勘が危機を知らせた。
ぞわりと髪の毛が逆立つ感覚。
視界の隅に、マドックが立ち上がり、ナイフを手に走り込んでくるのが見えた。
体が動く。アーロンをかばうように、前に出ようと。そうやって、常に周りを見て、周りを助け、誰よりも戦う、それが自分なのだ。
ここでアーロンを守れたら、自信を取り戻せる……!
そのシェーラの
全身を使い、力任せに刺し貫こうとしてきたマドックの前に手をかざすと、不思議の力を行使し、壁際までその巨体を勢いよく吹っ飛ばす。
マドックは打ちどころが悪かったのか、意識を失ったらしく、ずるりと壁から床に落ちて倒れ込んだ。
騎士と一対一の接近戦で、武器すら手にしていなくても、まったく危なげなく勝利する魔術師団長としての実力。
(このひと、本当に強いんだ……。私が守るようなひとじゃない。だけど)
シェーラは悔しさに唇を噛み締めてから、ぼそりと言った。
「今のは、私でも十分に対処できました」
「できない」
無意味な反抗を口にしたシェーラに対し、アーロンは厳然とした声で否定を告げる。
「できました!」
「できない。シェーラさん、いつもより全然動きが悪い。絶対に一撃をもらって、今頃大怪我していた。戦いたいのも、やり返したいのも、副団長として強さを示したいのも、気持ちはわかる。でも、確実に君が負けるとわかっている以上、俺は君を、俺の前に立たせたままではいられない」
その言葉には、少しの緩みもなかった。
シェーラとて、アーロンに対して「君の危機ですから、駆けつけました。守るのは男として当然です」という甘い言葉を期待していたわけではない。まったく一欠片もないと言ったら嘘になるが、それでもアーロンが指摘した通り、シェーラはメンツとけじめの問題で、マドックとは自分で戦いたいと思っていたのだ。
そういった闘志を、踏み
「怪我なんて怖くありません。アーロン様は、私の判断を信用していないんですか」
不毛な言い争いになると気づいていながらも、シェーラは食って掛かってしまう。
アーロンは紫水晶の瞳に強い力を宿し、シェーラを見返してきた。
極めつけの無表情が、アーロンの美貌を酷薄に彩る。
「信用するしないの問題ではない。俺はたとえ君に嫌われても、俺が必要だと判断したら暴力の現場に介入する。そこに遠慮はない。人間は意地を張るし、自分だけは大丈夫だと過信するし、他人に迷惑をかけたくないって気持ちも働く。そのせいで、いつもならできる判断を間違えたり、助けてと言い出せずに取り返しのつかないことになることだってある。君はいま心の底から傷ついていて、何もかも鈍っていた。自分の命すら守れないほど。そういうときに、君のメンツのためだけに手出しを控えるなら、俺は魔術師団長なんかやってない。君が俺をどういう人間だと思っているか知らないけど、これが俺だ」
見透かされている。
全身に静かな怒りを湛えたアーロンは、混じり気のない本当のことしか、口にしていない。
シェーラがメンツにこだわっていたこと。それをアーロンが叩き潰したこと。すべて自覚していて、しかし必要なことをしたまでだから、自分は絶対にその位置から譲歩はしないと。
シェーラのわがままなど、受け入れる気はないのだと。
(これが長年、騎士団が目の敵にしてきた魔術師団長……。甘いひとであるはずがない)
もはや何かを言い返すこともできず、シェーラはうなだれて頷いた。
シェーラはアーロンと一日過ごしただけで浮ついてしまい、隙だらけになっていたのだが、アーロンは何一つ影響を受けていないのだ。
当然だ。デートは王命、結婚するとしてもそれは政略結婚。いくらシェーラがアーロンを思おうと、同じだけを返してもらいたいだなんて、望み過ぎなのだ。
考えれば考えるほど、シェーラは息が苦しくなってくる。
一方、言うだけ言ったアーロンは咳払いをして、改まった口調で続けた。
「ここからはまったく俺の個人的な発言になる……なります。駆けつけるのが遅くてごめん。このくらいのこと、予測しておけば良かった。君の周りの男たちが、君の恋愛話を聞きつけたときにどういう行動を取るか……。それこそ、俺の配慮が足りなかった」
「そんなことはありません。悪いのは、悪いことをしたひとだけです。アーロン様は何も」
「それを君が言う? それなら、自分にも適用しなよ。君は何一つ悪くない。今日のことで、自分を責めたりしないように。落ち込む必要だって無い。痛いところがあるなら、俺が治してあげる。忘れたいなら、そういう魔法だって」
こんこんと優しい声でひとつひとつ詰められて、シェーラはいつまでも拗ねた態度を取っていることもできず。
恐る恐る顔を上げて、アーロンを見た。
てっきり、先程冷静に話していたとき同様の、無表情をしていると思っていた。
しかしそこにあったのは、泣きそうなほど潤んだ紫の瞳に、動揺しきりの顔で。
ごくふつうに、面食らってしまった。
「……アーロン様が泣きます? どうして?」
「泣いてはいない。自分に怒っているし、君のことは心配してる。今日は騎士団寮に泊まり込んでも良いかな? 隣の部屋、空いているんだよね?」
「隣? というか、騎士団寮に魔術師団長だなんて……朝を迎えるまでに、何度襲撃を受けると思っているんですか」
「そんなに危ないなら、空き部屋はやめておこう。この部屋の隅に置いてもらおう」
「どういう理屈ですか? 置きませんよ!?」
それはもうだって、一緒の部屋で朝を迎えるという意味では? と目を見開いたシェーラに対し、アーロンは「にゃーん」と小声で鳴いた。「猫だと思ってください」と言い添えて。
(そんなイケメン猫が、この世にいて良いわけがないです!)
動揺したせいで、変なことを口走りそうになった。シェーラはそうじゃないと思い直して、厳しく指摘する。
「可愛くてもかっこよくてもだめです! だいたい、この部屋の隅って、床で寝るおつもりですか?」
「ベッドでもいいけど、君が良ければ。一緒に寝てくれる?」
「そんなわけないですね……!」
全力で言い返した。
そのまま抗議を続けようとしたのに、アーロンの「にゃーん」が頭の中で鳴り響き、勢いがそがれた。
一度笑ってしまうと、笑いが止まらなくなった。
いつまでも笑うシェーラの横で、アーロンもまた、くすくすと品良く楽しげに笑っていた。
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