Sid.26 一泊旅行は夜に期待してしまう
電車で暫し移動すると途中で特急に乗り換える。
網棚からキャリーを下ろすのに苦労するが、着替えにしては重いな。どれだけ着替えを持参しているのやら。一般に女性は荷物が多いとは聞いているが。
ホームで少々の乗り換え待ちをすると、特急列車が流れ込んできて、あらかじめ予約していた車両の座席に移動する。
特急とは言え通勤特急って感じで、あまり旅行気分を盛り上げる車両では無いな。
座席に腰を下ろすがキャリーバッグは足元に。
窓側席は絢佳さんに譲り、俺は通路側に座ろうとしたが「窓側に座って」と言われた。
でもな、足元に荷物があるとトイレに行くにも邪魔になる。
だから通路側でいい、と言って窓側席を譲っておいた。別に気遣いでも点数稼ぎでもない。
静かな車内でぼそぼそ会話を交わす。
「翔真君。箱根は行ったことある?」
「無いです」
「じゃあ初めてなのね」
「まあ、そうなります」
旅行自体は幼い頃に何度か。海外もあれば国内もあるにはあったな。
まだ幼い頃は海外に行っても、外国人に嫌悪感は無かった。外国人の家庭教師が来るようになってからだ。部屋の中に二人きりなんて、拷問にも等しいと思うようになったし。
いつ殴り殺されるかと、怯えながらの授業だからな。成績が向上するはずもない。
中学生に対しても遠慮がないのだから。でかい声と態度は恐怖心を与えるに充分。
「強羅まで行ったらお昼にしようね」
「強羅って何かあるんですか?」
「そうねえ、お土産物屋さんと強羅公園、それと箱根美術館かな」
箱根美術館は梅雨時には苔庭が見事だそうで。強羅公園にはバラ園があり、今もまだ楽しめるのではと。それと湯本から強羅に向かう登山鉄道は、梅雨時にはアジサイ電車となり、車窓にアジサイを見ることができるらしい。
まあ花とか苔とか、あまり興味はないが絢佳さんはな、女性だし綺麗な花を見れば癒されるのだろう。
「強羅の手前に彫刻の森美術館があるけど」
美術にも関心がない。何の趣味も無いから何を見てもな。ましてや彫刻なんて見ても分からん。彫刻の何がいいのか。バカには理解不能だろう。
あ、でも。絢佳さんのヌード彫刻なら、穴が開くほど眺められる。ばるんばるんが凄そうだ。無いけどな。
「無理に寄らなくても」
「そう? 大涌谷なら景色がいいから楽しめるかな」
「あ、いいかもですね」
「良かった。少しでも楽しんでもらいたいし」
俺に気を使うよなあ。
「大涌谷に黒たまごがあるから」
「なんですか、それ」
「温泉の成分で殻が黒く変色したものなの」
なんでも、ひとつ食べれば寿命が七年延びる、とか言われてるそうで。
じゃあ十個食ったら七十年も延びるのか、と言えば、過ぎたるは猶及ばざるが如しじゃないかと。
まあ、七は縁起の良い数字ってことで、七年としたんだろうけど。
「ホテルは桃源台から少し歩いた場所にあるから」
「高級?」
「そうでも無いと思うけど」
今は外国人客向けに宿泊費用を吊り上げてる。だから日本人にとっては高額。でもサービス内容はそうでもないらしい。
結局、外国人によってぼったくり価格が氾濫してるわけか。
それが自分たちの給料に反映されているか、と言えば、絢佳さん曰く殆ど反映されて無いそうで。税金ばかり上がって、ひとり親世帯は生活が汲々だったそうだ。
親父に見初められて助かったとも。
「私みたいな子連れでも、喜んで受け入れてくれて感謝してるの」
敵わん。なんだかんだ言っても生きる上で、金は必要だからな。親父は金で苦労させないと豪語しただけのことはある。絢佳さんも感謝してるくらいだし。浮気性なのに。今もどこかで浮気してる可能性もあるぞ。それでもいいのか?
それにしても俺が親父と同じか、それ以上になれる可能性は皆無だな。
バカだし要領悪いし。地頭の良し悪しはどうにもならない。鍛えようがない部分だからな。
無念。
一時間と少しで湯本に到着し、下車してキャリーサービスを利用するようだ。
荷物を持たずに観光できて、荷物はチェックインまでに、宿泊先に届けられるシステムだとかで。便利だな。
荷物を預けると手ぶらで観光だ。
「じゃあ登山電車に乗ろうか」
ホームに移動すると混雑具合が凄まじいな。平日なのに日本人の高齢者の多さと、外国人観光客の多さに辟易する。
ぎゅうぎゅう詰めの車内に入ると、身動き取れないし車窓を楽しむ、なんて不可能だ。
「ちょっと、ここまでって」
「混雑し過ぎですよね」
絢佳さんはドアに背を向け俺の正面に立つ。そうなるとあれだ、ばるんばるんが俺に押し付けられてな。股間に力が篭もりそうだ。
猛烈な弾力と撓み具合が最高だけど、俺の我慢も限界を超えそうだ。耐えるのもひと苦労だし逃げ場はないし。
「ずいぶん、ゆっくり走るんですね」
「そうね。観光目的だから、だと思うけど」
乗車時間は凡そ三十八分程度、途中でスイッチバックを三回行い、高低差のある地形を上って行く。
何とか気を紛らわしつつ反応しないように努めるが、ヤバいな。もう勢いを抑えきれないかもしれん。
などと思っていると、やっと強羅に着いたようだ。
何とか耐え切れた。
一斉に観光客が下車すると、流れで車外に押し出される感じだ。
ホーム上に溢れ返る人、人、人。
スマホで時刻を確認すると十時四十九分。昼食には早い。
「じゃあ、強羅公園に行こうか」
「先に見てから食事ですか?」
「そうね。まだ早いし」
強羅の駅舎を出て少し歩くと右手に坂があり、そこを上り続けると強羅公園があるそうだ。
「ケーブルカーでも行けるけど混雑が凄いから」
「歩きますよ」
強羅公園に向かい坂を上がると、公園入り口があり受付もあるようだ。土産物店も併設されている。
そこでフリーパスを提示すると無料になるのか。持ってないと五百五十円って結構高いな。
公園って言ってたから、町にあるような公園を想像したが、植物が多く温室もある植物園らしい。
「季節ごとの花があるから、真冬以外は楽しめるの」
「知らんかった」
「散歩気分で歩いていればすぐお昼になるから」
斜面に造られた公園だから、正門から入るとひたすら上りになり、西門から箱根美術館に行けるそうだ。
右回りで熱帯植物館に向け移動し、中を通って外に出て噴水池のある、公園中央に出る。
「時間的に丁度いいかな」
「昼ですか?」
「そう。お茶屋さんでサンドイッチでも食べようか」
お上品な量だと足りないんだよな。
まあいい。夜はそれなりに豪華な飯になるんだろうし。
「それでいいです」
「別の店にカレーもあるけど、そっちも量は少ないかな」
「サンドイッチで」
「じゃあそうしようか」
茶屋と言ったが西洋風だな。
店に入りオーダーするが各々一品ずつ、だと俺が足りない。やっぱりお上品な感じだし。
「もうひとつ頼んでもいいですか?」
「遠慮しなくていいからね」
追加でもう一人前頼むが、燻製鶏ハムサンド、だし巻きサンド、ローストビーフサンドをオーダーした。
それぞれ味の違いを楽しむことができる。
しっかり食ってコーヒーを飲んで暫し休憩すると。
「ローズガーデンを見たら、箱根美術館に行こうね」
再び園内を移動しバラを見るが、絢佳さんのバラを見る目は、実に穏やかでうっとりしていそうな。
顔を近付けて香りも嗅いでるようだし。
「香ります?」
「少しね。早朝が一番香るの」
「知りませんでした」
同じように顔を近付けるが、ほんのり香る感じだな。あれ、この香りってどこかで嗅いだことが。
あ、ドジっ娘先生から香ってきた奴だ。でもミルラ香とは違うな。
「絢佳さん。この香りって」
「あ、それはね、たぶんスパイシー系だと思う」
「スパイシー系?」
「クローブみたいなスパイシーさがあるの」
ダマスク・クラシックを基調として、甘さや華やかさがありながら、スパイシーさがある品種だそうで。
いろいろあるんだな。
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