ある雨の日
@nanashi_nagare
ある雨の日
夜の帳が上がり締め切ったカーテン越しに明かりが見え始める。恐る恐るカーテンの隙間から外を確認する。古びた木造のアパートの2階の窓辺に広がる街の景色は雨に満たされていた。昨日からの予報通りである。久しぶりの雨に心を躍らせながら支度を始める。この日のために事前にそろえてあった上下のセットアップに身を包む。髪にワックスをつけ、鏡を見ながら髪型を整える。数えるのも難しいほど年の離れているであろう女性に合うのに少年のころのようにソワソワてしまう。何度も鏡で姿を見直し、何も変わっていないのに髪や服装を整えてしまう。気づけば時計が11時を差していた。そろそろ家を出るとしよう。この時間なら席が埋まっていることもないだろうし、働く彼女をよく見られるだろう。
彼女の勤めている喫茶店に行くのはこれで何度目だろうか。初めて会ったのは半年ほど前の6月の雨の日。気まぐれに日中に外に出てみようと思い、傘を片手に近所を散歩していた時だ。道中にある喫茶店の中に彼女はいた。ガラス越しに見えた彼女の姿に心を奪われ、気づいたときには喫茶店の中にいた。別に注文したいものもないメニューを見ていても気づけば彼女を視界の中心に入れてしまう。その日はとりあえず口にできそうなコーヒーを飲んで帰った。それから行ける日は毎日昼にはその喫茶店へコーヒーを飲むようになった。夜にも行ったことはあるがどうやら彼女は夜には働いていないようだった。彼女との出会いを反芻しているうちに喫茶店に到着した。
「いらっしゃいませ!」
明るくハキハキとした彼女の声に胸が弾む。
「おひとりさまですか?」
マニュアル通りの会話でしかないとしても彼女と言葉を交わせることに感動してしまう。
「こちらの席へどうぞ!」
座席へと促され彼女の後ろをついていく。きれいにまとめられた髪と整った制服の襟との間に血色のいい白くて赤みがかった首筋が見える。思わず昂ってくる心を何とか鎮めて席へと着く。
「ご注文はお決まりですか?」
いつも通りのコーヒーを注文する。
「かしこまりました!!」
ドキドキしながらもなんとか注文を済ませることができて一息つく。これまでこれほど心が揺れ動いたことはない。同じことが繰り返される退屈だった日々が今では懐かしい。彼女が目に入れば凪のような頭に荒波が立ち、彼女がいないときには彼女が何をしているのか答えが見つかるはずもない思考が渦巻き繰り替えされる。
少し時間がたってから砂糖とミルクについての注文を伝えられていないことに気づいた。彼女に二度手間させてしまう申し訳なさと、彼女とまた言葉が交わせる喜びがまた新たな波を頭に生み出す。
「お待たせいたしました!ご注文のコーヒーです!!」
届けてくれた彼女に忘れていた砂糖とミルクを頼もうとしたそのとき彼女からこれまでない言葉が発せられた。
「お兄さんは砂糖とミルク一つずつで大丈夫でしたよね?」
心臓が爆発した。いや、そう思わせるほど体中の血の巡りが加速した。あまりの衝撃に言葉が出せず首を縦に振るのが精いっぱいだった。
「ごゆっくりどうぞ!」
満面の笑みを向けて放たれた言葉を浴びた体ではうまくコーヒーが飲めなかった。
彼女が私のことを認識してくれていた。
その他大勢ではなく私個人として。
運んできてくれた砂糖とミルクを震えた手で何とか入れてコーヒーを飲み進める。あとは会計の時に話すだけだ。それまでにどうにか平静を取り戻さなくてはならない。私と彼女との関係がこれ以上進展することはない、いやさせてはいけないのだから。いつも通りの自分に戻って対応できるようにしておかなければ。
だって私は吸血鬼なのだから。
ある雨の日 @nanashi_nagare
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