第3話
五月裕がこの老人を知ったのは・・・というより、老爺と初めて会ったのはちょうど一か月前である。
その日、この辺りでは珍しい事件が起きたのである。その真っただ中で、裕と老爺は顔を会わしたことになる。
鳥取県八頭郡智頭町にももちろん郵便局はある。銀行もあるが、郵便局を利用する人が多い。都会ではなく、こういう田舎なのだから・・・と、裕は思ったりもする。郵便局だと顔見知りの人が働いているのだが、銀行の行員はそうはいかない。どうやら定期的に支店を転勤させられているようであった。その郵便局だが、智頭駅前から北に伸びる道路と途中智頭町役場に向かう道路とが交わる交差点の南角にある小さな郵便局である。
一か月前だから、七月の初めで陽光はまだ柔らかで和かな日よりであった。ムシムシ感は多少あったが、周りの山々から杉の木々が醸し出す穏やかな風が、そのムシムシ感をやわらげていた。いつもと変わりない一日が始まり、太陽が真上に登って来ていて、爽やかな空気の中で誰もが眠りを誘われていた。郵便局の窓口は二つ。一つは郵便を受け付け、もう一つはお金を扱う窓口である。客は誰もいなかった。中年の女子局員は退屈なのか、懸命に欠伸をこらえている風にも見えた。
五月裕は郵便局に入ると、母の彩と同じくらいの歳の局員と眼が合い、こくりと頭を下げた。
「こんにちは」
とだけ、挨拶をした。 裕も顔見知りであり、にこりと挨拶をした。そして、いつもの癖で、女子局員もにこりと笑みを浮かべた。一人だけ客がいて、奥の椅子に座っていた。六十過ぎの背の高い男の人で、白いヒゲを顎の辺りまで生やしていて、入って来た裕と眼が合った。この老爺とも裕はこくりと挨拶をした。
裕は椅子に座りたい気分だったが、取り敢えず入金の手続きだけをしようと思い、奥の窓口に行き、
「これ、お願いします」
と、いい、通帳を差し出した。通帳の中には一万円がはさんである。先週の日曜日に特別に久美祖母にもらったものである。
その間も、裕はこの老爺のことが気になり、この後何度も振り返った。手続きが終わるまで少し時間が掛るので、彼女は老爺の隣りに座った。
「今日は風が強いですね。こんな日は滅多にはないんですよ」
ここは周りが山のために一年中強い風が吹くことはない。まして、今年の七月は雨もあまり降っていない。
老爺は話しかけられ驚いたのか、それともこの時を待っていたのか、この気さくな少女を見て、気持ちよく微笑んだ。
さて、この老爺のことだが、裕は今も何処の誰かも知らないし、まして名前も知らない。
「でも、この人・・・」
けっして嫌いなタイプの人ではなかった。裕は年齢で好き嫌いを判断しないことにしている。彼女はこの年齢・・・他の十代の女の子の誰よりもませていた。驚いたことに、彼女はこの行いを自分の座右の名として実践していたことにある。
この時、突然郵便局の入り口のドアが荒々しく開いた。裕は振り向いた。
二人の男が目指し帽をかぶり、押し入ってきたのである。そして、二人の手には本物かどうか分からないが拳銃のようなものを持っていた。
「おい、静かにしろ!」
一人がカウンター乗り越え、女子局員に拳銃のようなものを首に押し込んだ。この郵便局には二人しかいない。男の局員は一人しかいない。局長である。もう一人もカウンターを乗り越えた。素早い動きからして、若いように見えた。体のゴツイ男で局長に飛び掛かって行っ、身体を机に押し付けた。
「金を出せ。早く、ここに詰めこめ」
女子局員にぼろぼろのバッグを放り投げた。局長は身動きが取れない。
この時黒猫が自動ドアから入って来た。
二人の強盗は入って来た黒猫を見て、
「何だ!野良猫か・・・」
「たかが、猫だ。いい、かまうな。こっちを早く片付けろ」
「分かった」
黒猫は裕の膝の上に乗った。裕はびっくりして、黒猫を抱き寄せ、背香奈を撫でた。裕は、
「まあ、気持ちいい」
と、笑顔を浮かべた。
この時、裕は不可解なことに気付いた。この見知らぬ老爺が背後の窓から外の様子を覗いていたのである。彼女は声を掛けようと思ったが、時が時だけに言葉は掛けずに、同じように外に眼をやった。二台止められる狭い駐車場には一台も止まっていない。ただ、郵便局の前の道路には一台乗用車が止まっているだけだった。車体の下の方の塗装が剥がれ、さびていた。
(何を見ているんだろう?)
裕は首を傾げた。
彼女は押し込みに入った二人の強盗に眼をやった。二人とも金をバッグに詰めさせるのに集中していて、娘と老爺には気を使っていない。小さな郵便局だから、そんなに金を置いていない。
確かに彼らには隙があった。小さな好きであったが、老爺は素早くドアから外に出て行ったのである。この時老爺にしては素早い動きで、裕は驚いたが、声を掛けなかった。
「何を・・・」
裕は老爺の後ろ姿を追った。一瞬、老爺は止まっている車に隠れて見えなくなってしまった。
裕はビビを抱いたまま、二人の男の行状を落ち着いた眼で観察している。彼女は老爺の姿を追うのを止めた。
「おい、そこにいたジジィはどうした?」
局長を押さえていた一人の若者が裕に怒鳴った。裕は首を強く振った。もう一人の方は金をバッグに詰め込ませたのか、バッグのファスナーを閉めると、
「おい、いいぞ」
と、もう一人に声を掛けた。
「ジジィがいなくなった」
「ジジィなんて、どうでもいい。さあ、行くぞ」
こういうと、素早く郵便局の外に出た。
二人は外に出たのはいいが、すぐに戻って来た。
この間に、局長は警察に通報した。しばらくすると、パトカーのサイレンが聞こえて来た。
「おい、ダメだ。この娘を連れて行くぞ」
「車はどうした?ダメ、キィーがない」
「何!」
「仕方がない、その女を連れて行け」
裕はビビとともに連れて行かれる。人質なのだ。
警察が来る前に、男たちは郵便局を出た。
裕はビビを抱き、二人に連れて行かれた。
裕は抵抗しなかった。
「大丈夫だよ、黒猫ちゃん。私があんたを守ってあげるからね」
裕の声に怯えも震えもない。もしあるとすれば、この事件の成り行きなのかもしれない。
それにしても、あの老爺は何処へ行った・・・。そして、二人の若い男もそれなりに興奮しているからなのだろう、裕の美しさ・・・その美貌に気付いていないのも不思議なことであった。
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