第2話
五月裕はこの八月に十四歳になったばかりの高校一年生である。彼女にはこの事実を少しも嬉しいという喜びがなかった。彼女にとって、今という時間が大切であり何よりの快感であった。
彼女が智頭急行の恋山形駅を見つけたのは、彼女が九歳の時に、智頭急行の普通列車に乗った時だった。この時も、坂田喜久磨と一緒だった。裕が九歳ってことは、喜久磨は四つ上だから十三歳だった。その時も、乗客はこの二人以外誰も乗っていなかった。
「誰も乗っていないのね」
五月裕は呟いた。
「あっ、何、ここ!」
その恋山形駅はホーム全体がピンク色に塗られていて、全然JR駅らしくなかった。
「ねえ、ここで降りるよ」
裕はすぐにホームに飛び降りた。喜久磨もいやいやながら、裕の後に従った。
裕はこの恋山形駅がすくに好きになった。その日以後、気が向いたら喜久磨を誘い、この恋山形駅にやって来て、ぼんやりとした時間を過ごすことにしている。だが、今日のような日は、そうはない。いや、前に一度だけ・・・あったかな。まあ、いいや。あの時は普通列車だったから、変にあわてることもなかったんだ・・・裕は思い出していた。裕は喜久磨には怒っていたが、少し興奮していて、なぜか嬉しい気持ちがあった。それは、喜久磨を線路から引っ張り上げた老爺に会えたことだった。
裕は倒れ込んでいる喜久磨には目もくれずに、
「また、お会いしましたね、ええっと・・・九谷・・・為也さんでしたね。久美おばあ様がまたお会いしたいと言っていましたよ」
と、いい、また会えたことが余程嬉しいのか、元気のいい挨拶をした。
「また会いに来て下さいます。私も、こうして会えてとっても嬉しいです。それにしても、喜久磨君。何で馬鹿なことをするのよ」
喜久磨はやっと立ち上がり、裕の横に座った。
ビビは喜久磨に起こっているのか、何度もふいている。
「うるさいな、裕は」
喜久磨はビビを睨んだ。そして、顔を背けた。
「止めてよ。喜久磨」
裕はビビを抱き締めた。
「うん。だから、いつも言っただろう、こんな所に来るのは嫌だって・・・」
坂田喜久磨は欠伸をした。眼を細めて、駅全体がピンク色に塗られているのに今回も不快感をあらわにしている。十九歳で、今は失業中である。だから、この時間に、ここにいるのである。五月裕は高校生で、学校は夏休みに入っていた。
「ねえ、喜久磨くん」
裕は恋山形駅のベンチに座り、ぼんやりと真っ青な空を見上げていた。
諏訪神社の麓にある五月の家と坂田の家とは大分と離れていて、学校は智頭町にあり、毎日自宅から自転車通っていた。寝坊した時には、車で学校まで母の彩に送ってもらうことにしていた。
ところで、五月裕の美貌は学校でも評判で、クラスの男たちから何度もミス智頭と呼ばれていた。クラスだけではなく、特に二年生、三年生からの憧れの眼で見られることが多かった。可愛いというより、確かに五月裕は美しかった。現代の少女の美しさではなく、何というか古い時代感覚の古典的な美しさを持っていた。だから、ちょっと浮き出た感じがしないでもなかった。
「ねえ、裕」
クラスメートは言う。こう言って来たのは、前の席に座っている高橋保美である。
「あんた、男の子たちの眼が気にならない?」
「どうして・・・?」
「だって、男どもがみんなあんたを憧れの眼で見ているじゃない」
裕は顔を上げ、教室の中をぐるりと見回した。そういえば・・・みんなの眼が彼女を見てにんまりと笑い、眺めているのに気付いた。
「ふぅん、全然気にならない」
裕はあっけらかんとしている。
(そう言えば・・・)
彼女は祖母の久美おばあ様から、采女の話を聞いてことがあるのを思い出した。彼女は今十四歳だが、聞いたのはもつと小さい頃なので大して興味もわかなかった。だから、ふぅん・・・そうなの、とだけ思っただけだった。とにかく、学校での裕の生活はたいして躍動的でもなく勉強家でもなかった。ただ、家に帰ると・・・ではなく、特に祖母から厳しく勉強を強いられていた。語学は英語、韓国語、フランス語を必須科目とし、わざわざ日野市まで個人教授うけに通わされていた。だから、学校の成績はいつも一番だった。
「久美おばあ様・・・!」
駄々をこねる裕だが、祖母は有無を言わせない。その他にも、数学、絵画、文学といったものまで習い、今では高校卒業くらいの基礎知識は持っていた。だが、彼女はこのことを誰にもいっていない。他人に行っても始まらないことだし、こんなこと自慢もしたくなかった。なぜか・・・それは彼女にとって、どうでもいいことであったからである。ところで、このことは四つ年上の坂田喜久磨は知らない。
「とても美しい女の子・・・」
なんだ、と、喜久磨は裕を心底思っていたし、まだ告白していなかったが、好きだった。出来れば付き合いたいとも思っていた。だから、裕の傍を離れたくないから仕事もしなくて傍にいるのである。
「あれ、何処へ行ったのかな?」
喜久磨を引っ張り上げた九谷為也が、いつの間にかいなくなったのである。
「ねえ、ビビちゃん、あの人・・・何処に行ったの?」
裕はビビを抱き上げ、ホームのベンチから立ち上がった。そして、ホームの柵から体を乗りだした。この時、彼女は、
「あらっ!」
見掛けたことのある老人が、駅の土手に座っているのを見つけた。九谷為也だった。何かを探しているようにも見えた。
「おじさん、そこにいたの。ねえ、そんな所で何をしているの?」
裕は土手の草の上に座って、考え事をしている為也に声を掛けた。
「いやね、何・・・ちょっとね」
老人は振り向いた。もう、裕の頭からいなくなった龍作は消えていた。彼女にはよく理解出来なかったのだが、あの人・・・また現れるわね、という安心感を抱いてしまう心持ちが裕にはあった。
「ねえ、ビビちゃん。行って見ようか」
裕はホームから出で行き、老人の横に腰を下ろした。そこで改めて、
「ここに、何をようで来たの・・・?」
と、訊いた。
「ははっ・・・」
老人は声を立てて、笑った。その声に、ビビは、
ニャニャ
身体を震わせ、甘えた声で鳴いた。
「これは失礼。驚かせてしまったようだね、黒猫さん」
といい、裕の抱いている黒猫の頭をこつんとつついた。
「そうそう、忘れるところだった。実は、これを渡そうと思ったものでね」
老人は古びた上着の中から、紫色の領巾を取り出した。
この老人の名前は、九谷為也という。
「これをね、君に差し上げようと思ってね」
「ショール?」
老人は裕の肩に領巾をふわりとかけてやった。この時、爽やかな風が何処からか吹いて来た。彼女はそのショールに手を触れ、
「気持ちいい感じの布ね」
と、いい、
「ありがとう」
と礼をいった。
「私、紫って色・・・違うわね。青紫色っていうのね。大好きなんです」
裕は肩に罹った領巾を両手で持ち、そっと頬にあてがった。
「見てごらん」
老爺は裕の足元を指差した。そこには、紫水晶のような菫が咲いていた。本当なら、菫はこの時期次の種子づくりの段階に・・・自家受粉して結実の段階に入っているのに・・・。
「ところで、あの青年は君の恋人なのかな?」
為也は振り向いた。喜久磨はホームの柵に寄り掛かり、こっちを見ている。
その青年、坂田喜久磨はホームの出口から今こっちに向かって歩いて来た。
「あの子、いつも・・・ああなんですよ」
裕は笑みを浮かべ、手を上げ、こっちに来るように合図をした。喜久磨は、にこっ、と笑顔をつくり、ゆっくりと近づいて来た。さっきの危険な行為をやったことをすっかりと忘れている。
「喜久磨、やっと、笑ったわ」
口には出さなかったけど、結構怖かったに違いない。裕は笑みを浮かべた。
「これを渡すために、わざわざ来て下さったの?」
為也は軽く頷いた。
「でも、なぜ・・・わざわざこれを・・・」
「さあ、貸して、肩の掛けてあげよう」
老爺は領巾を取り、裕の肩にふわりと掻けた。
「いいね、似合うよ。うん、似合うと思ったよ。だから、もらって来たんだよ」
「もらった?誰に・・・何処から?」
老爺はそれには答えず、にこりと笑みを浮かべただけだった。
「この領巾はね、遠くに離れて行った好きな人に自分の思いを伝えるために、この領巾を振ると・・・風が起こり、思いを運んでくれるという言い伝えがあるんだよ。君には、今好きな人がいるのかな・・・?」
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