第39話 マリーナの殺意
ヒノワは毒棒を前にしても、決して逃げる真似はしない。
凛とした態度を取り、ウェルジに語り掛ける。
まるで走馬灯が全体を包み込むかのようで、あらゆる時間の流れが遅い。
そんな中、ヒノワの動かす唇だけが空気の膜を揺さぶって音を届けた。
「ウェルジさん、貴方は私の想像していたことをしましたね」
「!?」
「となれば、これからなにが起こるのか当然ご存じですよね。マリーナさん!」
「はい!」
その瞬間、マリーナの声がヒノワだけの走馬灯を打ち破る。
空気の膜を破壊し、声と共に何かを飛ばす。
強烈な殺気だ。ウェルジ程の強者なら気が付かない訳にはいかず、気付いた時には時既に遅かった。
「……あっ? はぁっっっっっっっっっっっっっっっ!?」
ウェルジは何が起こったのか、あまりにも一瞬すぎたので把握できなかった。
しかし何かは起こっていた。左腕、しかも左肩にかけてが血に浸っていた。
ダランとなった腕は折れてはいないが、滴り落ちる血液が床にポタポタと落ちた。
「な、なにをした。儂に一体なにをした!」
ウェルジは怒号を吐きかけ、ヒノワのことを疎んだ。
一体何をしたのか、ここまで用意周到に潜入していたのが一変、状況がガラリと変わった。
突然の負傷。左肩の大きな穴が開き、貫通すると同時に奥底が見えてしまった。
「タカナワ・ヒノワぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!」
「黙ってください、ウェルジ」
ウェルジは声を張り上げ、ヒノワの名前を呼んだ。
しかしウェルジのことを否定するように、言葉を吐きかけたのはヒノワではない。
ウェルジの背後。声に反応し、先んじて首を捻ろうとした瞬間、全身を襲う大海の殺意が飲み込む。息ができない。口の奥から泡が噴き出る。そんなイメージが頭の中を駆け巡ると、得体の知れない正義なる悪意がウェルジのことを上から押し潰す。
「その声、マリーナ・ディプシーか!」
「だとしたら、それは私のことを軽く見過ぎていますよ」
「なにっ!?」
ウェルジは目の奥がはち切れそうになる熱に襲われた。
これが殺意なのか、これが本物の悪なのか。
痛みの無い根源的な何かがウェルジのことを押し出すと、マリーナのことを畏怖しろと念じさせた。
「くっ、小癪な真似を!」
「
ウェルジは毒棒を取り出そうとした。しかしそれよりも速く、マリーナの攻撃が襲った。
いつの間に手にしていたのか分からないが、深い青色をした魔導書から放たれるのは全てを捩じ切る大海の一撃だった。
今度は全身を飲み込み、ウェルジのことを戒める。
頭を狙って打ち出された魔法の一撃はウェルジを戦意喪失させるには十分過ぎた。
感情なんて生まれない。一瞬にして精神が終わらされるにはマリーナの魔法は冷たすぎた。
「な、な、な、なんなんじゃ! 一体この魔導図書館の職員共一体……うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!」
ウェルジの絶叫が木霊する。頭の奥から裂けそうな程で、ヒノワもマリーナも表情が険しくなる。
煩わしい。それ以外の言葉は出ず、ウェルジが泣き崩れるのを待つだけ……の筈だった。
「なんての!」
ウェルジは最後の足掻きを見せた。舌を噛み、気合を入れ直すと、精神が荒むのをできるだけ避ける。
自分の心を保ちながら、強い芯を胸に毒棒を放とうとする。指と指の合間から今にも解けてしまいそうで、目前のマリーナを道連れにする構えだった。
「私を殺すことなんてできませんよ、ウェルジさん?」
「ひいっ!?」
しかしできなかった。マリーナの死んだ眼を見ると、ウェルジは小さく悲鳴を上げる。
喉の奥が騒めき、嗚咽を漏らすと息が荒くなる。
血中濃度が加速度的に上がると、指の間から毒棒がコロンと床に落ちた。
「それではウェルジさん、貴方はここまで……」
「速い速い速い速い!?」
「「えっ?」」
「ぐっぷろぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉっ!!」
マリーナはウェルジに最後の時を下そうとした。
魔導書を頼りに強力無比な魔法を放つ構えを取っていた。
けれどそんな真似必要無かった。むしろそんな暇が無かった。
突然聞こえてきたのはアルマの声。しかも慌てた様子だった。
何事だろうか、ヒノワもマリーナも一瞬視線を外した。
その瞬間、ウェルジの体が激しく疼き、書架の方に向かって吹き飛ぶと、くの字に折れ曲がったまま気を失ってしまった。
「い、痛たたたたたぁ……流石に早すぎるよ、ってウェルジさん!?」
私は頭を抱えながら、目を回してしまっていた。
視界がぼやけてしまい、軽い脳震盪でも起こしたらしく、景色が歪んで見えていた。
けれどおかしなことに体が痛くない。あれだけ高速で動けば何処かしら怪我をしていると思っていたのだが、何か使い勝手の悪いクッションに受け止めて貰えたらしい。
「白目剥いてる。もしかして、ウェルジさん倒しちゃった?」
如何やら私はウェルジさんを成り行きだけど倒してしまったらしい。
完全に気を失っていて、起きる様子はない。
書架に背中をぶつけたようで、たくさんの本が落下している。
布団のように被ると、まるで生きた石像だった。
「アルマ? どうしてこんな所に……」
「ヒノワ館長、マリーナさん! 私の拡声届いてくれたんですね。ありがとうございます、ウェルジさんを止めてくれて」
「アルマ、それよりも大事なことがあるんじゃないかな?」
「あっ、そうでした! 精霊の魔導書は一体何処に……」
私はキョロキョロ視線を配った。
ヒノワ館長とマリーナさんが必死にウェルジさんを止めてくれていた。
それも全ては精霊の魔導書のため。私はそう思うのだが、ヒノワ館長とマリーナさんは如何にも違うことを危惧していた。しかしそんな話は私の耳には一切入らず、精霊の魔導書を探すことだけに尽力していた。
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