第弐話 助けるのは当たり前

 たった一本の木を横切る。それだけに数分かかるのは、少年にとって想像を絶する脅威的な体験だった。 

 まるで地を這う虫ケラだ。彼より小さい物など無いかのように、巨大な新緑を見上げていると、風に舞う木の葉の雨は、屋根が飛来して落下する恐怖そのもので、縮こまる矮躯を圧倒した。

 想像を絶する森の雄大さは、悠久の時を経て、更に別の未知なる驚愕で溢れかえっていた。

 真っ先に目を引いたのは、青に染まる群衆だった。

 数本程度なら変異体かもしれなかったが、森全体が青、蒼、碧で満たされていた。

 花弁だけならまだ違和感は少なかったが、葉や茎はもちろん、枝や樹皮、内部の断面までもが、あおいろに染まっていた。

 これは大変極めて重要な不思議だと、少年の意識は自然に向けられた。

 青い色素は、おおよその動植物に見向きもされなかった。一見、青くても光に干渉する構造色によって再現しただけが大半を占めており、実際に青の色素を持っている種は、数百万の内に数える程しかいないはずだ。

 しかしこの世界の片隅では、一大勢力が繁栄し、真っ青な生態系を築き上げていた。

 この奇抜な光景を作る特殊な環境要因があるのか?と、そこから自然の摂理が根本的に違うのかもしれないと少年は疑いを抱いた。

 さらに奥へ進むと、見慣れた緑色に戻った。

 その時だった。気温や湿度が適切かつ厳格に管理されていると確信が持てるほど決定的に、途端に環境が変わった。

 人工的だ。日の当たり方や行き届く風通しなどの生育環境が別室に入ったかのように、奇麗なまでに統制されている。

 それを裏付けるように、景観はそのままに見えない仕切りの境界線を跨ぐと、先程とはまた別の方向の印象を少年に植え付けた。

 舞い落ちるはずの落葉が、鳥みたく羽ばたいていたり、花弁をプロペラ代わりにして飛び回ったりして、自由奔放な飛翔体の大群が空中を覆い尽くしていた。

 忙しない喧騒の隅では、また別の手段として、他の飛翔体に便乗することを企む連中もいた。

 細長い糸状の葉を暖簾のように連なって、粘着性の樹液を塗りたくり、鉤爪のような形状で、捕食者のように獲物を待ち受けて、対象物に寄生するもの。

 空気より軽いガスを蓄えた風船や樹脂を塗布したシャボン玉、そして落下する少年をも受け止めた綿毛の束などで揚力を得て、風に乗って浮遊するものもいた。

 この地帯の植物たちは、あらゆる移動手段に特化した形質を持つようで、その特徴は地上にも適用されていた。

 落ち葉を押しのけた巨大な獣道では、幾重にも巻き付いた蔓が、落ち葉を吸収して、球の形で風を受けてクルクルと転がる回転草の群れが大移動していた。

 なぜ、こんなにも移動に重点が置かれているのか?

 その理由を、身をもって思い知っている少年は、痛みに呻く足を労り、その場で屈み込んだ。歩き通しでじんじんと筋肉が悲鳴を上げている。

 だが、そんな事など気にも留めない少年の目を惹いたのは、落ち葉で隠れていた大地の正体、視線の先にある極めつきの不思議な塊を調べる事だった。

 結論から言えば、この森を形成している土壌は、土ではない。無色透明の結晶体だった。

 鋭利な先端部を触っても簡単に割れるほど脆く、痛みどころか痒みさえ感じさせなかった。しかし厚く重ねると強度を得る性質らしく、少年の力では蹴りを入れてもひび一つ入らなかった。

 この謎の結晶体が堆積して成る大地は、地下深くまで沈み込む樹の根本すら見えない。まさに、底なしのスケールを誇示して揺るがなかった。

 なぜ水気も栄養も無さそうな物質が、こんな個性豊かな自然を形成できるのか?

 度重なる疑問は、膨らむばかりだった。

「……ん〜……あっ……やべ!?」

 観察に夢中になるあまり、視野が狭まり、彼女との距離が離れ過ぎてしまったと、少年は遅ればせながら気がついた。

(せっかく出会えたんだ!何があっても逃がすわけにはいかない!)

 姿が見えなくなる前に走って追い駆ける少年の周りを、手のひらサイズの小鳥たちがさえずりながら付いて来る。

 彼らは餌をねだる訳でも懐く様子でもない。一定の距離を保ったまま、小気味良い鳴き声は、イー、ウっウっウっ、チュ〜と、種によって異なっていた。

 それを聞いた中型の鳥達が飛び立ち、彼女と少年のちょうど真上を八の字でぐるぐる、左右にクルクルと旋回する。

 更にその動きを視認した上空で滑空する大型の鳥の群れが、丸やバツなど、陣形を作り変えていた――反応が連鎖している。

 まるで大小様々な鳥達が訓練された動きで連携しているかのような不自然さに、一つの仮説が脳裏に浮かぶ。

 ――この鳥達、僕を監視している?符丁を操り互いに団結して、遠くの本陣に即時連絡を取り合っている?迂闊な行動を取れば、ボスの猛禽がやって来るか。

 行動に細心の注意をしつつも、ようやく追いついた少年の興味は、いよいよ本命の彼女の観察に取り掛かった。

 情報は、少しでも得ておかなければならない。知らなかっただけで致命になりうる死と隣り合わせの少年は、新鮮な情報に飢えて、全ての意識を動員して、つぶさに思考の虜となった。

 腰まで達する金髪は、草木が鬱蒼と生い茂る森にはあまり似つかわしくない。隠れ潜むことなく、快適に過ごせる生活水準がある。

 視認できる唯一の装飾品、六角柱の結晶の耳飾りは、文化的な伝統工芸品か?または特別な地位の証明か?文字や模様が無いのは文字が存在しない可能性もある。

 耳の先端がピンと伸びて、百八十度近くまで角度を自在に変えられるのは、被食者の動物と相似する特徴だ。危機察知能力は高いと推察できる。

 あの異彩を放つ左右の目の色の違い、虹色の瞳は遺伝的特徴か未知の特殊能力か?確認には他の人と比較しないといけない。

 衣装は動きやすさと身軽を重視して迷彩柄でも無い。脅威となる敵がいない、もしくは日中は安全、どうやら彼女はあの鳥に襲われないらしい。

 ポケットやカバンが無い、この利便性の低さは、拠点が近い証拠かもしれない。

 フリル付きの可愛いデザインは、魅せる風習と文明の兆し、つまり他にも人がいる。清廉な創意工夫が随所に見られるのは、余程技巧派な職人がいるのだろう。

 体躯はスマートで翼や尻尾は見られない。

 だが、その華奢な身体には似合わない立派な太ももが印象的だった。えらく鍛えてあるあたり、脚力がいる生活様式なのかもしれない。

 そして、中々の自己主張をしている豊満な胸は、食事環境の良さを表す。哺乳類、異性の存在、繁殖を行い、飢えてはいないらしい。

 歩き方は、力強くはないが気品があって無駄がない。冷静、温和、礼節、親交、やや時々破天荒、そんな印象を受ける。

 歩く速さはやや遅い。僕を意識してのことだろう。気遣い、共感、優しさが窺える。

 サンダルに似た靴の色は黄、橙、水色が拵えてある。温厚、外交、友好的。

 靴の状態は、遠目だと綺麗だが、至る箇所に修繕の痕跡が見られ、物を大事にする類の誠実性が垣間見える。

 以上の事から、少年はおおよその人柄を予想できた。

 彼女の様々な印象から得られた、複数重なる共通した特徴はより真実味を帯びて、信憑性が高いと判断した。フットワークの軽い彼女が、いの一番に現場へ駆けつけたのも安全確認の一環。

 気立が良い子なのだろう、どうやら信は置けそうだ。――そう結論付けた。

 ふと少年は気づいた。

 ――ん?そういえば、武器がない?

 少年と猛禽との間に起こった騒動は、誰がどう見ても荒事のはずだ。それなのに何の備えも無いままに、彼女がやってきたのはなぜか?

 危機意識の欠如や思慮分別がないとは考えにくい。それは慎重に少年を調べた彼女の行動、そして観察結果からも矛盾している。

 解消できる一番の可能性は、武器がいらない手段を持っている事だ。あの鳥のように、彼女にも思いもよらない方法で対抗できる力があると考えた方が良い。

 となると、また少年の脳裏に疑問が浮かび上がってきた。

 刃物や弓矢が存在しないのか?狩猟文化がないのか?こちらを警戒して隠しているのか?代替となる手段がやばい物なのか?なにか特殊な護身具を携帯しているのかも……。

 少年が、分析を終えようとしていた矢先、淀みない彼女の歩みが止まった。

 つられて少年の思考も停止した。

 理由は一目瞭然。目の前にこれまた巨大な倒木が横たわり、行く手を遮っていたからだ。

 高さ約三百メートルにもなる絶壁を前にして、少年は迂回して通るものとばかり思っていた。

 しかし、歩く素振りを見せない彼女は、右手を上げ、何やら胸元から細長い棒状のような物を取り出した。

 少年は目を見開いて唖然とした。

「……扇子?」

 サッと広げられた模様のない白い扇子を、彼女が軽く下から上へひょいと振った瞬間――足の裏から振動が伝わり、怪訝な表情で少年は固まってしまった。

 しだいに大きくなる揺れと不可解な音――木の擦れる音、結晶が擦れる音が前方からしたと思えば、大木が軽々と浮かび上がった。

 ホゲェ!?と素っ頓狂に叫ぶ少年を置いて、彼女は扇子を仕舞いながら歩きはじめた。

 この下、通るのぉ!?と心中で叫び、恐怖と混乱に揺さぶられて立ち尽くす少年。だが、徐々に小さくなる背中に焦りが募る。彼は選択を迫られた。

 罠……イコール……死、いや、それも一興か……。

 迷い悩む暇はなかった。他に選択肢が無い以上、彼は彼女を追わざる終えないのだ。

 観念した少年は、吊り上げられた樹の下を必死で走り抜けた。

 ――生きた心地がしなかった。落ちてくれば圧死という状況で、深夜の如く暗い影の中に身を晒した。すると、妙な違和感に包まれた。なにか上の方から得体の知れない影響力が、重力を相殺する何かを働かせている。それは不可視のエネルギーか、独自の波動のような、定かでは無いが、やはり、彼女がナニカしたのは間違いなさそうだった。

 少年が通り過ぎた事を合図に、音もなく下降し始めた倒木は、地鳴りを轟かせて元の位置に戻った。

 舞い込む風に髪を乱された彼は、呆然としながら判然と受け止めた。

 少年はしかと理解した。ことここに至り、認めざるを得ない一つの結論。

 ここには計り知れない未知の現象があると――

 詰まるところ、経緯はどうあれ死を免れてしまった少年は、当初の指針変更を余儀なくされた。

 乗りかかった船、興味も出てきた未知の世界。虎穴に入らずんば得られないと、身に降りかかった謎の解明の為に少年は、彼女に命運を委ねることに決めた。

「……あの……今のは……?」

 まず、これ以上の無知は危険とした少年は、意を決して彼女に声をかけた。

 少しは良い返事を期待したが、生憎の無反応が返ってきた。

 だが少年は目ざとく、彼女の耳の先端が、一瞬だけ、ピクリと動いた。

「……これは、僕の独り言だ」

 見立て通り、話の分かる相手だとひと安心した少年は、断りを入れて、これまでのあらましを一方的に語り出した。

 情報の開示。こちらから腹を割る事で、向こうの信任を得ようという試みだ。要は聞かせれば良いのだから、相手からの態度は関係ない。

 記憶喪失から今に至る話の間に彼女の耳が時折ピクリと動く様子は、まるで照れ屋さんみたいで可愛らしく、少年の緊張を軽くほぐしてくれた。

 程なくして、辺りの雰囲気が徐々に移ろい変わり、日も翳りを見せ、薄暗さが周りを染め始める頃だった。

 場は静まりかえり、いつのまにか、少年の周りに居座った小鳥たちが見えなくなった。

 淀みない彼女の歩調が、またしても急に止まった。

 邪魔となる障害物は無かった。

 辺りを見回しても、特に変わった様子も無いと思った時、少年はふと目にした。

 彼女の足元で一本の黒い線が不規則に揺れている。それは実体を持たず、触れる事すらできなかった。

 正体が影だと察して見上げると、木の高い所の枝に吊るされた紐が、横の木へまた次の木へと伸ばされて、緩やかな曲線を描いていた。

 しめ縄だ。

 等間隔に結ばれた細い長方形の紙切れが飾られて、風に吹かれて翻る。

 弧を描く紐で区切られたこの場所が、彼女の目的地のようだ。

 極めて清澄な気配で満たされた邪な存在を許さない聖域のようで、ここが特別な場所であることは間違いなかった。

 先頭を行く彼女は、丁寧に一礼した後、影を踏まないように中へ飛び込んだ。

 少年は、またしても選択を迫られた。

 ――僕は、足を踏み入れるべきかどうか?

 許可なくしては入らないという、留まる選択も有力な中で、コホンと前から咳払いが聞こえた。

 取るべき行動は決まっている。

 突如起こった追い風が、立ちすくみ不安がる男の背中を押した。無駄な逡巡をやめた少年も、先人に倣って影をピョンと飛び越えた。

 結界内に入った瞬間、明らかに奇妙な異変が降りかかった。

 音が、聞こえない!?

 着地音が届かない事に驚愕する少年は、耳近くで指を鳴らしても、空気の振動が伝わらなくなっていた事を確認した。

 無風の森は、物音は何も届かず、声を出しても無音という不自然な静寂が、周囲を満たした。

 植生もガラリと変わり、木々や葉の表面、透明な地面を隙間なくびっしりと緑で埋め尽くす苔の群生が目立ち始めた。

 一見何の変哲もない苔だったが、少年が踏み込む一歩の衝撃が伝わると、緑色に発光した。それだけでなく、水面に波紋が広がるように別の植物へと伝播して、やがて森全体にまで輝きが呼応した。

 光が分け隔てなく草体を介して伝わり、化学物質を言語に意思疎通する植物の会話は、まるで神経伝達の電気信号に似た反応で、森が奏でる光の大合唱のようだった。

 この幻想的な発光現象は、森全体が一つの巨大な生命体のように、互いに協力して共存している証だった。

 光合成を行う植物自身が光を放ち、周りにも分け与えることで、変化の少ない環境でありながら、辛くも生き永らえている。

 ここは、今までで一番過酷な環境だ。

 この環境の植物は――花がない。今までとは違い、どこか哀愁漂う森で、小鳥たちどころか、動物が一匹も見当たらない。

 色とりどりの花は一切見られず、茎が枝分かれした葉もない植物の先端が、袋のような形をしている。または渦巻き状に丸まっている形状がやたらと目立つ反面、大木の密度が一気に薄まり、背丈の低い若い草が立ち並ぶようになってきた。

 あまり高さのない単純な構造の植物群は、どこか大人しい印象を受けた。

 まるで時代が変わった。原始的で、太古の森に迷い込んだ気分に少年はなった。

 この縄張りに宿る謎の影響力は、強烈に過去を作り上げ、あからさまに現在へ向かう事を拒絶している。

 そんな中、気にせず歩く彼女の様子に、少年も一緒になって後に続いた。

 そして、目線と同じ高さのつくしんぼの草むらを抜けて、光のベールが揺らめく広場に出た。

 それは今までで一番異様な光景だった。一言で言い表すなら廃村、もしくは墓地に近かった。まるで死の匂いが漂い、命が絶えているかのようだった。

 動植物や落ち葉はおろか生物の痕跡が全く無く、時間を切り離された排他的な空間は、清らかさ過ぎる神秘性のあまり、なにか薄ら寒い不気味さすら感じられた。古ぼけた遺跡や祠か、特別な社でもあるかと少年は予想していたのだが、透明な平面が広がっているだけで、歪な変質の揺らぎを漂わせていた。

 どうしてここへ?と、向かう少年の眼差しに、彼女の無表情が映った。

 黙したまま、無感情の色を帯びた彼女は前に進み出た。


 虹色の煌めきを放つ、七枚の花弁の一輪を添えて――


 目を閉じた彼女は、跪き、神妙に祈りを捧げていた。

 虹色を帯びた花びらは、この珍妙な森においても一際異彩を放っていた。大事な祭事に使用する貴重な一輪。

 ――話せる空気じゃない。

 憂いを滲ませる儚げな少女に、後ろめたい気配を感じ取り、少年は周りを見渡した。

 自然のただ中に突如現れた凹凸のない真っ平な場所は極めて異様に映り、間違いなく人為的に整地された空間で、その広さが村ひとつ分だと気づいた。加えて結晶の床に小さく角張った溝のような痕があちこちに残っている。

 そして広場の周りに見られる低くて細い若木の群生。大きくて古い個体は、一本も生えていない。

 これらの情報から導かれる推測は、端的に過去の情景を告げた――ここにはかつて集落があり、何かが起きて……今に至る。

 だとすれば、この清浄な空気感と彼女の真剣で切ない面持ちにも納得がいった。

 鎮魂の為ならば、慰霊を知らぬ部外者は、早々に立ち散るに限るだろう。

 小さく黙礼をした少年は、慎重にその場を離れた。

 距離を取るといっても、振り向けば彼女が見える程度の間隔を保ちつつ、少年は広場の外縁部を散策し始めた。

 奥ゆかしく清澄な佇まいで、内心、彼女は僕の事をどう思っているのだろう?場合によっては、ここに僕を閉じ込めるつもりで?

 そんな事を考えながら、指で何度も突いて植物の発光現象で遊んでいると――

 ペキッ――

 後退りながら、少年は反射的に振り返った。

 それは枝を折ったような音だった。間違いなく結界の外の樹の影から、少年は確かに聞いた。

 ――今、誰かが、こっちを見ていた?……違う、違うぞ、なぜ、結界の外の音がここまで届いた?おかしい……確かめてみるか。

 背中を伝う汗。

 音を断つ仕組みも原因も不明だが、隔絶されているはずの空気の伝導。あの音にはなぜか、妙な重圧を少年は感じ取っていた。

(万が一にも危険が迫っているなら、彼女の祈りの為にも、放っておけない)

 心臓をぎゅっと潰されそうな不安に襲われながら息を飲み、少年は結界の境界線を飛び越えた。

 着地の音が聞こえたら、皮膚が暖かな風を受けて少し痺れた。

 葉擦れ音が聞こえる結界の外で、息を殺しながら、音のした所をこっそり覗き込むと、折れた枝がひとつ転がっていた。

 どうやら、結晶体の地面に落ちた時の音のようだった。

 拍子抜けもいいとこだと一笑するが、しかし上を向くと、空が見えた。枝が生えた樹木なんて一本も見られなかった。

 ――ん?この枝はどこから落ちた?巣の材料?鳥が咥えて落とした?何者かが投げてよこした?何のため?……誘導……僕を?……――

 どうにも腑に落ちない少年だったが、特に気にするような違和感でもなかった。

「まあ、これだけおかしな事も起きれば、疑心暗鬼にもなるか」

 薄く笑いながら、何事もなかったように引き返す――その時だった。


 ドクンッ――


 鼻腔を突く独特な空気が漂っている事に驚嘆し、少年は微動だにできなかった。

「こ……げ……臭い?」

 樹木に焦げ付きはなく、燃焼物も煙も見当たらず、床の結晶も溶けた形跡は皆無だ。

 呼吸が浅くなる。熱い。

 辿っても匂いの発生源が分からず、身構えながら警戒していると、陽光が雲に隠れただけでは説明がつかないほどに深い暗闇が、忍び寄るように少年の周りを包み込んでいた。

 異様に空気の感触が殺伐として明らかに冷たく、氷の針でチクチクと全身に刺さる感覚に酷似していた。

「なんか、ヤバくね?こういう時は、戻るのが賢明だ、がっ!?」

 背後だ。首筋を指の腹で撫でられた感覚。

 そんなものが不意に伝わり、飛び上がって振り返る。だが――

 誰も、いない。

 そこには、ただ暗鬱とした風が通り抜けただけ。

 しかし、恐怖が全身を瞬時に震えさせた。

 息を呑む、冷や汗がひとつ伝い、落ちる間が引き延ばされたかのように永く、ひたすら遅く感じる。

 傍に密かに忍び寄る影、結界を出なければよかったと後悔しはじめた少年は、ぞあぞあと蠢く禍々しいものに囚われた。

 それはあまりに少年の理解とは、遠く絶する、畏れだった。

 黒い光だ。闇の中で浮かぶ忽然と現れたそれは、最初こそ蛍のような生物だと思った。いや、そうであって欲しいという懇願だ。

 このような異様な怪奇を認めたくなかったのだ。

 しかし決定的に異なる特徴があり、そこにじっとして、静止していたのだ。

 ブラックホールのような穴にも見えるそれは、理不尽な脅威で絶望を抱かせ、無限の虚空を内包していた。

 周りに滴る不気味さを孕む黒い霧は、ドライアイスの水蒸気にも似た揺らめきで上下左右へと広がり、小さな粒子の威圧的な集合体が這うようにまとわりついて、少年の退路を奪った。

 包囲された少年は、全方位から嫌な視線をぎろりと向けられて、臓物が捻れる心地だった。

 ――これは、生き物、じゃない、物体、でもない、死霊、幽体?なんだコイツは?

 先ほどの猛禽も恐ろしかったが、この実態のない恐怖は、また格別の畏怖だった。

 人は、理解できないモノを神として概念化して、畏敬しながら身近にする。安全な距離を保つ為に。

 そんな不確かな物をつとめて冷静に見極める少年は、その実態を暴くべく分析した。

 陽炎のような歪みに、様々な負の情念が蜃気楼のようにゆらりと立ち上る、どす黒い闇の密度を感じた。

 無造作に積重する死骸に染み込んだ嘆き、血の底から這い上がる不朽の怨嗟、闇に沈みゆく苦悶の悲哀、渦を巻く濃密な影が忌むべき人形を象り、永遠に貶められる苦痛に耐えかねた呻めきが赦しを乞いながら――殺して殺して殺して殺して……と悪夢のように苛まれる憎悪、息を潜める悍ましさの穢れの果て。

 これが、謎の影響力の正体か?珍妙な現象の核心なのか?

 極限の連続で緊張感が壊れ、ついに精神がおかしくなったのか、恐るべき未知を前にして我慢できず、少年は衝動的奇行に走る。

 直に、触れてみた。

「ぅわっ!?バチッとした!?」

 指先が千切れたような強い衝撃が走り、視界がぼやけてしまう程の負荷を受けて、少年は弾けるように身を引いた。

 瞬間、異変はすっかり消失して、辺りも元通りに戻っていた。

 黒い気配は、影も形もない。

 そして震える指先に怪我は無かった。

「今のはなんだぁ、静電気か?あの黒いの、黒鉛?それとも砂鉄か?暗い霧の正体は一体?」

 不可解な異変の応酬に、恐怖の余韻でこんがらがる頭を押さえて、少年はため息混じりに呟いた。

「まぁ、考えても無駄だろうな」

 ――この出来事はまだ伝えない方がいい。少なくとも今は。もし法や仕来りを破ったとして彼女に見捨てられたら、一巻の終わりだ。

 保身に走った少年は、今度こそ彼女の元へ戻ろうと来た道を振り返る。

 すると、ひとつの人影が待ち構えていた。

 それはとても穏やかじゃない鋭い目つきで、彼女が少年のことを睨んでいた。両手を腰に当てて、眉間に皺を深く刻ませて不愉快を露わに不機嫌を見せつけている。

 怒ってる……間違いなく……。

「あっ、いやぁ……その〜。ご……ごめんなさい」

 瞬く間に色を失う少年は、素直に頭を下げた。たとえ禁忌を冒したとして殺されるとしても、潔くする方が良いと即断したからだ。

 しかしその後、少年は激しく動揺した。

 信じられない。視線を切った事、彼女への警戒心がいつの間にか薄れ、気を許していた自分がいる事に。


 数秒後、弾けるような笑い声が、楽し気に耳に届いた。

「知らない世界を勝手に歩き回るなんて、とっても勇気があるね!それとも恐れ知らずさん、なのかな?」

 何気ない笑顔が、あまりにも尊くて、それはまるで太陽みたいに眩しく輝いて見えた。

「……それは、神のみぞ知ることかな」

 人と話せた。たったそれだけの事があまりにも喜ばしくて、少年の顔が思わずニィと綻んだ。

 突然、顔全体に体毛のような心地良いモフモフ感が襲いかかった。

「ぁっ!?ぶっ!?」

 息を吸うと、芳ばしい香りに酔いしれるものの、指先を立ててそれを掴んだ。 

 頑として離さない激しい抵抗を受けて、中々引き剥がせなかったが、一度寄せてから、少年はさっと離すと――

「ぷはっ、なんだ!?」

 捕まえた毛艶の良い生物は、「キュ〜」と鳴いた。犬や猫、狐か狸にも似た哺乳類の特徴をかき集めた様な姿だった。手足の間には皮膜があり、長い尻尾が生えていて、頭部より大きな耳がついていた。

「何これ!?かわいい」

 愛らしさを具現したかのような生き物だが、しかしそれ以上に面白いのは特徴だ。指の隙間に水かきがあり肉球は柔らかく、鋭い鉤爪は自在に収納。額には三つ目の瞳が開いており、お腹には袋が一つと、程よい暖かさの体温が抱き心地を素晴らしいものとしていた。

「その子、フェルネだよ!貴方を襲っていたイーリスを撒いてくれたのは、この子の魔法のおかげ!たくさん褒めてあげてね!」

 朗らかに笑った晴れやかな笑顔で話す少女。それは雷に打たれるような衝撃だったが、少年は即座に応じた。

「そっか〜ありがとう〜!フェルネちゃ〜ん!!」

 懐きやすいのか、フェルネと呼ばれた小動物は、背中や腹を撫で回すとキュッキュッと愛くるしい声で鳴きながら、少年のなすがままだった。

 頬や尻尾の至福の手触りを存分に味わう少年は、しかし全く別の思考の暴風雨に晒されていた。

 ――魔法だとぉッ!?んな非現実を信じろとでも言うのかっ!?だが実際、あり得ない現象は幾度も見ている。そして何より、このフワフワしっとり夢見心地な肌触り……天にも昇るモフモフ感っ!こ、これが魔法か!?

 幼獣のお腹に顔を擦り付けて熱烈に溺愛する少年に向けて、だんだんと意味深な視線を送り始める彼女。

「……聞いてもいい?ここは、どこなのさ?」

 目ざとく異変を察知した少年は、すぐさま我に返り、視線を彼女へと戻した。

「世界樹の旧都だよ」

「世界樹?……もしかして、ここ、森じゃなくて、一本の、木の上なのか?」

「そう。世界の始まりと終わりの樹。この個性的な樹や草花はすべて魔法の影響で発現した特徴なの。魔樹、魔草、魔花。全て魔力が通った植物。だからここは、魔法の世界だよ」

 上空から見た地平線を思い出す少年は、再び、桁違いのスケールのデカさに言葉が詰まった。

「な……る、ほど。なるほどね、奇妙な現象は、すべて」

 少年が抱いた数々の疑問は、これで大方の説明がついた。

「ね、私からもいい?なんで君には……寿命が無いの?」

 今度は少年が、怪訝な表情をちらつかせた。

 はぁ?何言ってだコイツ、全然分からねェ……

 ――いや、短絡的に捉えるな!言葉の表面をなぞるだけじゃ、真実は見えない!何かの隠語か?それとも合言葉か?

 あまりに不可解な内容に、無知な少年が問いの真意を分かる訳もなく、なんとも言えない微妙な空気が流れた。

「……ごめん。今のは聞かなかったことにして」

 無為な問いと悟り、早々に話を切り上げた彼女は、眩しいばかりの笑顔を見せた。

「立ち話も何だし、とにかく行こっか?案内するよ!私たち、カラフルの都へ!」

 声を弾ませながら、彼女は森の奥を指差した。どうやら連れて行ってくれるらしい。

「へ?いやいや、僕は願ったり叶ったりだけどさ、得体も知れない風変わりな奴を詳しく調べもせず連れて行くってのは、どうなの!?」

 そう、少年にとってこの上なく好都合な話だが、少女にとっては違う。このせいで事態を悪化させれば、最悪の場合、責任を取るのは彼女の方。少年の懸念はもっともな話なのだが……。

 それなのに、なぜかきょとんとする少女。

「良くないのでは?ちゃんとした正当化できる理由とか――」

 すると、臆面もなく、彼女は「理由なんていらない」と言って、少年の手を取った。

「困っていたら、助けるのは当たり前だよ」

 嘘じゃない、清らかな瞳で彼女はそう言った。

 初めて、人の優しさに触れた。暖かかった。

 彼は、ここへ来て、死を間近に感じて、生きる事に凍え冷え切った心に、その温もりのある言葉は深く沁みた。

「そう、か……優しいね」

 呆気に取られたのは一瞬。少年ははにかむ笑顔で返したが、彼女の表情に影が刺す。

「そうでもないよ……」

 僅かに匂う、気を払わざる終えない仄かな感情の蟠りを、少年は見逃さなかった。

「とにかく!私に任せてみて下さい!もちろん君がいいなら、なんだけど、だめ、かな?」

 その後の違和感のある遠慮がちな笑顔に、少年は――潔く負けを認めた。

「いや、お願いしようかな!あっ……えっと――」

「リナ・クーフィン・カラフル!リナって呼んでね!少年君!」

 元気良く差し出されたその手を取りながら、そして、はにかみながら少年は思った。

 どうやら僕の呼び名は、少年君に決まったらしい……。

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