第16話 ジュリアの過去
その瞬間は唐突に訪れた。
「律は……もうコンクールには出ないって……。もう二度とクラシックギター部にも来ないって……」
もうそれ以上続けることができずに、奏はその場にうずくまる。震える背中からは嗚咽が漏れていた。
ぼーっと立ち尽くすジュリアをちらりと見てから、紗月は心配するように奏に寄り添う。
今日もいつものように、放課後、第二音楽室で鈴として律とともにクラシックギターを弾くつもりだった。第二音楽室に行く前に、美術室で鈴になり、準備万端で練習に臨むつもりだった。
最近やっとクラシックギターを弾くときの所作が理解出来てきて、演じる鈴やライバルの律と心を通わせることが出来るようになってきていた。そのことはジュリアの演技の技術をさらに高め、その高まりが幸せな気持ちを生んだ。ジュリアは鈴を演じることに、今まで感じたことがないほどの楽しさや嬉しさ、幸せを感じていた。
それなのに……。ここに来て、その幸せがかりそめのものであったことを知る。
律に鈴の正体がバレた。
奏からそう告げられた瞬間、一気に体の力が抜け、何も考えることが出来なくなった。誰から見ても鈴の姿であるはずの顔には、鈴の面影はもはや一切残っていない。鈴の皮を被った、ジュリア自身に他ならなかった。
律はジュリア演じる鈴との再会によって、昔の感覚を急激に取り戻していった。そのスピードは幼馴染である奏を差し置いて、誰の目から見ても明らかだった。だからこそ気付いたのだろう。鈴の演奏の中に鈴らしくないぎこちなさが混じっていることに。スタイリッシュな鈴に似合わない、小さな小さな綻びに。
つまり、ジュリアは朝比奈鈴を演じきれなかった。そしてあの時と同じく、その事実は今回も周りを不幸にした。楽しさや自分への期待を優先したがゆえの代償。
やっぱり間違いだった。通行人Fは通行人Fらしくあらねばならないのに、またもや欲を出してしまった。
ジュリアは自分に絶望し、何も言わずに第二音楽室を飛び出す。そして階段を上り、屋上に出る。
空が大粒の涙を流している。泣き止む様子のない雨に打たれながら前に進む。転倒防止用フェンスに寄りかかり、空を見上げる。目を閉じると、激しい雨音にジュリアの心が次々と砕かれていくような感覚を覚える。
不意に雨音が小さくなる。雨が止んだのかと思い目を開けると、視界が狭くなっていることに気づく。よく見ると視界の端に紗月がいた。紗月は自分のブレザーをジュリアの頭に被せ、雨から守ってくれているようだった。
「もしかして君、風邪引くのが趣味だったりする?」
風邪引くことを趣味にすることは出来るのだろうか? 頭の中で素直な問いが浮かぶが、今は真面目に考える余裕がない。首を振る代わりに、全身がガタガタと震える。
「とりあえず中に入ろう」
紗月によって半ば強制的にジュリアは室内に戻される。
美術室に連れていかれたジュリアは手近な椅子に座らされ、肩には紗月のブレザーが掛けられる。そして手にはホットココアの缶が握らされる。いつもは熱すぎてとても手では持てないホットの缶を、今日は心地よい温かさで手に収めることが出来た。
紗月は一人分間を空けた席に腰を下ろす。そしてジュリアの顔を覗くようにして心配そうな声を掛ける。
「いきなり飛び出していったからびっくりしたよ。すぐに追いかけてよかった。 ……大丈夫?」
さっきよりは気持ち的にも落ち着いたような気がする。温かい飲み物に触れている手がじわじわと温かくなってきていた。ジュリアはこくんと小さく頷く。
「そっか。ならよかった」
紗月は軽く笑みを浮かべる。
それからしばらく二人とも口を開かない状態が続く。
雨が窓を
先に沈黙を破ったのは紗月だった。
「前から聞いて見たかったんだけど、ジュリアはどうして演劇部に入らないの?」
再び沈黙が降りる。
どう答えようか考えたが、結局何も思い浮かばなかった。鈴を演じることに失敗したからか、今まで話したくないと思っていたことを、今はとても誰かに話したいと思えるようになっていた。ジュリアは素直に話すことに決めた。ゆっくりと口を開くと、意外にも抵抗感なく話すことができた。
ジュリアは中学生の頃、演劇部の期待の星として、後輩・先輩問わず、多くの部員から慕われて頼りにされていた。それはジュリアに自信という力を与え、失敗や絶望という負の遺産を奪った。しかしジュリアは実力に
ジュリアには同い年で幼馴染の親友がいた。名前は
エマもジュリアと同じようにお芝居が好きで、中学校ではジュリアと同じく演劇部に入部した。エマもジュリアに負けず劣らずの実力の持ち主で、エマはジュリアと並んで演劇部の先達となる存在だった。二人はお互いに切磋琢磨しながら、演劇部を引っ張っていった。
そんなある日、練習中にエマが倒れてしまった。原因は持病の悪化によるもので、緊急入院を余儀なくされた。ジュリアは親友エマのお見舞いのため、毎日病院に通った。演劇部員たちもエマのお見舞いに頻繁に訪れた。なかなか良くならないエマの様子に部員たちは顔を曇らせ、その様子を見たエマはもっと落ち込んでいた。
いつものように学校帰りにジュリアがエマのお見舞いに訪れると、エマが言った。
「ねえ、ジュリア。お願いがあるの」
ベッドの上に上半身を起こしているエマが青白い顔でジュリアに話しかける。ジュリアはエマの方に顔を向ける。
「どうしたの、エマ? なんか欲しいものでもあるの?」
「ジュリア、お願い。私になってほしいの」
ジュリアはエマの言葉に首を傾げる。
「エマになるってどういうこと?」
「私の代わりに私を演じてほしいの」
「ええ!? どうしてそんな……」
エマは視線を落とす。
「私のせいで演劇部のみんなをこれ以上悲しませたくないの。私が演劇部に入ったのはジュリアと一緒にお芝居が出来るっていうのもあるけど、一番は私の演技を見てくれた人を幸せにすることなの。なのに、私は演技が出来ないどころか、みんなを不幸にしてしまっている。これは私の望むことではないわ。だから、ジュリアに私の代わりに私の意思を届けてほしいの」
エマはジュリアの腕を掴む。目には涙が浮かんでいる。
「自分の
ボロボロとこぼれた涙がベッドのシーツを濡らす。ジュリアはエマの泣き顔を見つめながら言う。
「エマ、私のこと勘違いしてない? 私は何かを押し付けられたり、利用されるつもりはないよ」
ジュリアはポケットからハンカチを取り出し、エマの涙を拭う。
「だからエマのためじゃなくて、私のためにエマを演じる。エマの夢は私の夢。私の演技を見てくれた人を幸せにすることは、私の夢でもあるんだよ。だから、泣かないで」
「ジュリア……。ありがとう」
こうしてジュリアはエマを演じることになった。
ジュリアは並外れた観察眼と集中力、そして常人よりも広い声域という特殊能力の持ち主だ。エマがジュリアに頼んだ理由、そしてジュリアがエマの頼みを拒まなかった理由はこの点にもある。ジュリアはエマを演じることに対して、少しの不安もなかった。ただ、エマの願いを叶えてあげたかった。
幼い頃から一緒にいるため、性格や癖や考え方等、エマのことはよく知っていた。それゆえジュリアは、エマを完璧に近いかたちで演じることができた。
ジュリア演じるエマが演劇部に戻った日は、多くの部員がエマの回復を喜び、笑顔が溢れた。ジュリアはエマの代わりに、エマの望みを叶えることに成功した。
それからもジュリアは演劇部ではエマを演じ続けた。ジュリア本人が部活を休み続けても怪しまれるので度々顔を出すようにし、ジュリアとエマの演技を上手く両立させた。幸いエマと同じクラスの人間はジュリアしかいなかったので、エマの学校欠席に気づく部員はいなかった。ジュリアはこうしてエマの願いを叶え続けた。それに対して大変だとか辛いとか、そういった感情は一切なかった。むしろ、親友を演じることができて、親友の願いを自分の手で叶えられることに喜びを感じていた。言い方は悪いが、これからもこの状況が続けばいいとさえ思っていた。
しかし、長くは続かなかった。ある日突然、エマの病状が悪化し、昏睡状態に陥ってしまう。明日をもしれない我が子の状況に、エマの両親は、エマが好きだった演劇部のみんなに、最後にエマのお見舞いに来てほしいことを顧問を通して伝える。それにより、ジュリアがエマを演じていたことがバレてしまった。
演劇部員たちは、エマのことを黙っていたジュリアを責めた。エマの両親もジュリアが無理にエマを演じたことで、演劇部員たちに真実を伝えなかったことをよく思わなかった。どうして本当のことを伝えなかったんだと、いろんな人から言われたが、ジュリアは一切本当のことを言わなかった。エマを引き合いに出すことはもちろんのこと、ジュリアがエマを演じ切れなかったことを認めたくなかったからだった。理由がどうであれ、ジュリアはエマの願いを叶え続けることが出来なかった。それはジュリアにとって、エマの目が閉じられたままであることよりも、ショックなことだった。
治療の甲斐があり、エマは一命を取り留めた。しかしもっと大きな病院での治療が決まり、転院とともにエマの転校が決まった。結局ジュリアはあれからエマに一度も会えないまま、お別れすることになってしまった。そのため、エマがあれからどうなってしまったか分からずじまいで終わってしまっている。
それ以来、ジュリアの心の中には演技が好きな気持ちと同時に、自分は本当に演技をしていい人間なのだろうかという迷いが
自分の力があまりにも大きいことに気づき、エマの一件があってからすぐ、演劇部を退部することにした。周りはきっと、嘘をついたことがバレて演劇部に居づらくなったと、ジュリアのことを思っているだろうが、それは真実ではない。
ジュリアはその時からずっと恐れ続けている。自分の好きな演技が相手を不幸にしてしまうことに……。
「……私はやっぱり演技の道を諦めるべきだった。好きで好きでたまらないから、ついそれに甘えて自分の気持ちを優先させたのが間違いだった。私は……全然分かってなかった。全然懲りてなかった。こんなことになるなら、鈴先輩なんて演じなければよかった……!」
ジュリアは固く拳を握りしめる。その様子を黙って見ていた紗月が口を開く。
「じゃあ、今からでも辞めるか? 鈴先輩を演じること」
紗月の呑気な口調に、ジュリアがやけになったような口ぶりで反応する。
「もう辞める! というか、もう鈴先輩にバレちゃったし、もう続けても無意味だよ……」
「確かにそうかもしれないけど、じゃあ、奏先輩はどうなるの?」
「どうなるって……分からないよ。元々は生徒会への依頼だし、生徒会役員でもない 私たちには関係のないこと。生徒会長にお願いして、私たちはもうこの件から……」
「それってホントに本心で言ってる?」
紗月はジュリアの肩に手を置き、怒鳴り出す。
「いい加減にしろよ! たかが鈴先輩を演じ切れなかったことで、簡単に諦めるのかよ!? 奏先輩の、クラシックギター部みんなの希望を踏み
「たかが、だって……?」
紗月の言葉にジュリアも声を立てる。
「演技のこと何も知らないくせに、勝手なこと言わないでよ!!」
ジュリアは怒って紗月を突き飛ばす。 紗月は近くの机にぶつかり、その拍子に机の上にあったスケッチブックの紙がバラバラと散乱する。ジュリアが落ちたスケッチの一つ一つに目を向けると、そこにはたくさんの人の絵が描かれていた。どれも見覚えのあるワンシーンだ。ジュリアが演じてきた鈴の演技に似ている……。そう思ったところでハッとする。この絵の人物はジュリアだ。鈴を演じるジュリアの姿だった。
「……ずっと描きたいものが分からなかった。でもやっと自分が描きたいものを見つけることができたんだ」
そばにあった絵が拾い上げられる。紗月が愛おしそうに絵を見つめる。
「爪が割れるまで慣れないクラシックギターの練習を頑張ってきた。奏先輩からもらった鈴先輩の演奏動画をこれでもかというほど研究してきた。鈴先輩を演じるために、なりふり構わず演じてきた。そんな真白ジュリアを、俺はこれからも描き続けたい」
ジュリアは目を大きく見開く。紗月は恥ずかしそうに続ける。
「俺は真白ジュリアのファンだ。確かにファンでは君の苦しみや苦労の全てを理解することはできないかもしれない。だけど、信じることはできる。俺はファンとして、ジュリアがクラシックギター部を救うことを信じている。だから、君も諦めるな。ファンの期待に応えるのが役者である君の役目だろう?」
「紗月くん……!」
ジュリアは紗月の胸に飛び込む。
「ありがとう」
突進するような勢いで飛び込んできたジュリアを気遣う暇もなく、紗月は急に襲った体の痛みに意識が飛びそうになる。
「さ、紗月くん!? 大丈夫!?」
「あ、ああ……もうダメかも……」
「ちょ、ちょっと! 紗月くん、しっかりして!?」
ジュリアは目をぐるぐる回した紗月を抱えながら、心の中で感謝する。
(紗月くん、ありがとう。そうだよね、ファンの期待に応えるのが役者の役目だよね。待ってて。私、必ず紗月くんの期待に答えてみせるから)
ジュリアの瞳からはもう迷いが消えていた。窓の外は清々しい初夏の空が広がっていた。
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