第17話 宣戦布告

 あれからクラシックギターには触っていない。

 小学生の頃からほぼ毎日欠かさず触れていた。風邪で体が思うように動かない日もギターを弾いていた。ギターが弾けなかったのは中学生の頃、修学旅行に行った時。修学旅行にもクラシックギターを持って行こうとしたが、流石に親に止められた。三泊四日の旅行だったが、その間ギターに触れられないことがとてつもなく耐え難かった。家に帰ってきてからは、三日三晩、ギターを弾き続けた。

 そんな自分がもう何日もギターを弾いていない。いつもならギターを弾いている時間に、学校近くの公園で油を売っている。律は座っているブランコをぶらぶらしながら、ぼーっとしていた。ギターを弾く気になれない。何も考えたくない。今はただこうしていたかった。

 森ノ熊児童公園。森ノ熊高校前の雑木林を隔てた先にある小さな公園である。遊具もブランコとシーソーだけというほどのこじんまりとした公園であることや、周りを鬱蒼とした林に囲まれているため、遊びに来る子どもは少ない。今日も放課後なのにも関わらず、公園には律以外には誰もいなかった。

 律は鈴が偽物であったことを知った。鈴の意識がまだ戻っていないことに衝撃を受けたのもあるが、鈴が律に言ってくれた言葉が全て嘘だったことがショックだった。そしてそれが嘘だと見抜けなかった自分に腹を立てるかと思っていたが、不思議とそうならないことに驚いていた。むしろ力がどんどん抜けていくような、喪失感に近いものを感じていた。この感じたことのない感覚に、律も驚いていた。しかし、これをどうにかしようとも、そうする術も、今の律は持ち合わせていなかった。

 あれからどうすることも出来ずに、放課後、この公園に来ることが続いている。ここは人がほとんど来ないため、一人になりたい時によく来る場所でもある。木々が鬱蒼と茂っていて、日の光があまり入ってこないため、天気が悪い日だったり夜の時間帯だと何となく怖い場所だが、そうでない時は静かで気持ちの良い場所である。

 律がブランコに乗りながら木々のざわめきや小鳥の話し声に耳を傾けていると、足音が聞こえてきた。足音はどんどんこちらに近づいてきて、律の数歩先で止まる。

 律が顔を上げ、目の前に立つ人物に気づく前に、相手の方から声が聞こえた。

「律。こんなところにいたのか」

 よく知る声と顔を持つその人物を前に、律は険を含んだような声で告げる。

「……お前は鈴じゃないな」

 目の前に立つ人物は朝比奈鈴そのもの。だが、実はそうではないことを律はもう知っている。睨みつける律の強い視線を無視して、鈴は話し始める。

「コンクールに出ないと聞いた。どうしてだ」

「どうしてもこうしてもない。お前が本当の鈴じゃないからだ」

「僕との勝負から逃げるのか?」

「逃げる? そもそもあの約束は俺と鈴とのものだ。お前とした約束じゃない以上、逃げるも何もない」

「僕は鈴だ。君のライバルの朝比奈鈴だ! 僕は君との約束を何がなんでも果たす。そしてクラシックギター部を守りたい。だから力を貸してくれ」

「テメェ! いい加減にしやがれ!」

 律は鈴との距離を一気に詰め、その胸ぐらを掴む。

「お前が鈴だって? ふざけんじゃねぇ! 鈴の実力がそんな素人に毛が生えた程度のもののわけないだろ! 鈴は俺のライバルだ。偽物のくせに勝手なこと言いたい放題言いやがって! これ以上、あいつを侮辱するんじゃねぇ!」

 律は鈴の頬を思いっきり殴りつける。鈴は衝撃で地面に倒れ込む。口の中に血の味が広がる。経験のない痛みに顔を歪めつつも、なんとか立ち上がる。そして顔を制服の袖で拭い、さらに頭に被ったカツラを取り去り言い放つ。

「……鈴先輩を侮辱してるのはあなたの方じゃないですか、律先輩!」

 鈴とは思えないほど高い声が響き渡る。律は目の前の相手の本当の姿に目を見開く。

「お前は……真白、ジュリア! お前が鈴を演じてたのか?」

「そうです。奏先輩からの依頼を受けて、鈴先輩を演じてました」

「依頼ということは、あの紗月ってやつとグルか。お前たち一体何を企んでやがる」

「何も企んでなんかいません。ただクラシックギター部を廃部の危機から救うために動いています」

「じゃあどうして鈴を演じる必要がある? まだ入院している鈴を演じて、俺を騙して、一体何の得がある? 俺にはお前が詐欺師にしか見えない。そんなお前に、鈴のことをあれこれ言われる筋合いはない!」

 律がジュリアを怒鳴りつける。幸い周りで遊んでいる子どもはいなかった。ジュリアは静かに言い放つ。

「鈴先輩を演じる意味はあります。……まだクラシックギター部を救うことができていないからです。そして、律先輩との勝負もまだです」

「この後に及んでまだそんなことを……! お前は所詮、鈴の偽物だ。鈴じゃない! これ以上ふざけたことを言うなら、今度は容赦しない」

 鈴の言葉にジュリアはまっすぐに向かい打つ。

「じゃあ、あの三重奏の演奏の後、どうして律先輩は涙を流したんですか?」

「……! それはお前を本当の鈴だと思って……」

「本物だと思ったなら、私が演じた鈴先輩は偽物ではありません」

「それは……」

「確かに私は本当の鈴先輩本人ではありません。でも、私が演じた鈴先輩は本物です。鈴先輩の意思を持った本当の朝比奈鈴です!」

 本当の鈴のような意志の強い瞳を向けるジュリアの姿に、律は一瞬たじろぐ。ジュリアは自信を持って続ける。

「偽物か本物かは関係ない。その価値は相手によって決められるもの。律先輩は私が演じた鈴先輩に対して、確かに鈴先輩を感じた。鈴先輩だと信じられたから、自分の思いをぶつけることができたんじゃありませんか?」

 ジュリアは三重奏を演じた後、訥々とつとつとしつつも、しっかりと自分の気持ちを伝える律の姿を思い出す。ジュリアの演じた鈴の存在は、確かに律の心に届いた。ジュリアの手柄というよりも、ジュリアが演じた鈴が律に認められた瞬間だった。

「私も律先輩と同じ表現者です。表現に命を懸けている人間です。私の演技の拙さを侮辱するのは構いません。自分の実力不足だから当然です。ですが、私の演じる鈴先輩を認めているにも関わらず、軽々しく偽物、偽物だと口にして侮辱することは許せません! あなたが信じた鈴先輩は偽物なんかじゃない、大切な繋がりなのだから」

 律が大きく目を見開く。ジュリアは静かに律から視線を外す。

「律先輩、私は信じてます。コンクールで会いましょう」

 言うべきことは言った。後は律が決めることだ。

 ジュリアは踵を返し、鬱蒼とした林が続く小道を進んでいった。

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