第18話 コンクール当日

 東京ブリランテ小劇場。森ノ熊地域の海岸沿いに位置する客席数三五〇席ほどの劇場施設である。小ホールと呼ばれる広さであるにも関わらず、国内外で活躍する楽団によるオーケストラの演奏やドラマ・映画で活躍する俳優たちによる演劇で日々賑わっている。音楽コンクールも頻繁に開催されており、次世代を担う音楽家が多く集う場所でもある。小劇場は屋上付きの三階建て。都会の喧騒から離れた海辺の開放感のある海浜公園からは、涼やかでそれでいて心地よい潮風が吹いてくる。快晴の空に燦々と照りはゆる太陽。はるか上空から降り注ぐ力強い光を受け、建物上部にあるステンドグラスが七色にきらめく。その装いはまるで、音楽用語「Brillanteブリランテ」(輝くように)の名へのふさわしさを証明しているようだった。

 そんな不思議な存在感を感じるのは、自分がこれからかの舞台の主役となるからだろうか。屋上の欄干にもたれ、ジュリアは穏やかな風を全身で受けていた。しばらくすると、屋上に繋がる階段から慌ただしい足音が聞こえてきた。その人物は、ジュリアの姿を確認すると、すぐに近くまで駆けてきた。

「真白さん! 律と会ったって本当? 説得できた?」

 姿を現した奏が息を切らしながら聞いてくる。

「えーと、会って話したんですが、説得っていうよりも喧嘩っていうか……」

「え? それってどういう……? あと、それ……顔少し腫れてるみたいだけど大丈夫?」

「ああ、はい。ちょっと転んでぶつけてしまって」

「そうだったの、お大事にね。それと例の件、私の方でなんとか頑張ってみたわ。あとは律次第ね」

「ありがとうございます。とりあえず、律先輩のことはきっと大丈夫です。たぶん私の気持ちは伝わったはずですから。信じて待ちましょう」

 全国高校クラシックギターコンクール当日。

 クラシックギター部を救うために出場を決意したジュリアは、鈴として今日コンクールの舞台に立つ。

 会場となる東京ブリランテ小劇場には、朝早い時間からジュリアたちを含め、多くの学生が足を運んでいた。先ほどまでほとんど人の姿が見えなかった屋上も、少しずつ騒がしくなってきている。

 奏は周りの様子にそわそわしながら、ジュリアに声を掛ける。

「これから鈴になる準備よね? 紗月くんは?」

「確かもうすぐ来るはずなんですが……」

「悪い、遅れた」

 屋上に紗月が現れる。いつも眠そうな紗月だが、今日はいつにもまして眠そうだ。大きなリュックを背負い、手にも手提げを持っている。夜遅くまで鈴のコンクール用のメイクや衣装について考えていてくれたのだろう。紗月が何も言わなくても、ジュリアはもう紗月のことがなんとなく分かるようになっていた。ジュリアは紗月を笑顔で迎える。

「紗月くん、おはよう。こんなにたくさん準備してきてくれてありがとう。じゃあ、早速準備始めよっか」

「分かった」

 ジュリアは紗月とともに、階段を降りて行こうとする。その背中に奏が声をかける。

「真白さん! 今日まで本当にありがとう! 私はずっと信じてるから。律も鈴も真白さんも紗月くんも、みんなのことを」

「奏先輩、ありがとうございます。行ってきます」

 ジュリアと紗月はゆっくりと階段を降りていく。

 奏は両手を組み、祈るように二人の背中を見つめていた。


******


 ――あなたが信じた鈴先輩は偽物なんかじゃない、大切な繋がりなのだから。

 あの時の言葉がずっと頭から離れない。自分より年下で、しかも女の子に言われた言葉は、今でも深く心に突き刺さったままだ。どうしていつまで経っても心から抜けてくれないのか? その理由はもう分かってるだろ? 自分への問いかけがさらなる問いかけになって返ってくる。

 律は立てかけてあったギターケースを手に取り、ギターの状態を確認して蓋を閉めた後、自分の爪が問題ないことを確認する。

 手早く身支度を終え、家の鍵を閉める。

 行こう、大切な繋がりを守るために。

 空には大きな入道雲が浮かんでいた。

 律は大きく一歩を踏み出した。 


******


 鏡の前で舞台に立つための最終確認をする。

 色素の薄い茶髪を耳にかけ、前髪は少しアップにセットする。色白の肌が舞台上でも映えるように、ブルーベースのメイクの上に少しラメが散りばめられている。濃すぎず薄すぎない具合で入れられたシェーディングは、彫りの深い顔を綺麗に見せている。

 清潔感のあるスーツに身を包んだ鈴は、ネクタイを丁寧に結び襟元を締める。苦しくない程度に調整し、姿見で全体のバランスを確認する。紗月が後ろから鏡を覗いていた。鈴を自分に振り向かせた紗月は、鈴の髪型の乱れをなおしたりと、微調整を重ねていった。

 紗月のチェックが終わった最後に鈴の表情を作る。目をつむり、柔らかい雰囲気と優しい微笑みを持つ鈴をイメージし、それを自分の顔に落とし込む。ゆっくりと目を開けると、そこには真白ジュリアではなく、朝比奈鈴が立っていた。

 鈴は自分の爪を確認する。律にもらった爪やすりで、少し尖った右手中指の爪を軽く研ぐ。仕上げに目の細かい紙やすりで凸凹した断面を平らにならす。やってはみるものの、律があの時やってくれたみたいに上手くはいかなかった。

 自分ができる精一杯の準備を爪に施し、鈴はクラシックギターを手に取る。そしてそのままそばに立つ紗月へ向き直る。

「それじゃあ、行ってきます」

「楽しんでこい。お前は自由だ」

 紗月の微笑みに見送られ、鈴は舞台へ向けて歩き出した。



 舞台中央に進み出て、観客席に向けお辞儀をする。

 後ろにある椅子の高さを調整してから、腰を落ち着かせる。

 足台に足を乗せ、クラシックギターを抱くようにして構えの姿勢をとる。

 目を閉じ、鈴の演奏イメージを頭の中で描く。

 先日律と会って話したことで、考えが変わった。今日ジュリアが鈴として弾くのは、律のための曲。律に全てを任せることにした。

 この会場のどこかに律がいる。絶対来てくれているはずだ。その律に聞かせたい曲。僕からのメッセージをこの曲にのせよう。

 鈴が曲を奏で始める。

 しばらくすると、さざなみが立ったかのように、会場が少し騒がしくなったのを感じる。鈴はそれを気にもせずに、律のために弾きつづけた。


******


「な、何がどうしたんだ?」

 突然ざわめき出す周りの様子に、観客席で奏と並んで座っていた紗月は混乱する。奏の目は舞台に向けられたままだが、その目は見開かれている。紗月の問いに、視線は舞台に注がれたまま、口だけが動く。

「鈴が弾いてる曲は、コンクールの課題曲じゃないわ……!」

「何だって!?」

 紗月は驚いて舞台上の鈴を見る。

(どうしてあいつはコンクールの課題曲とは別の曲を演奏してるんだ!?)

 困惑する紗月の横で、奏は呟く。

「この曲はあの時律が弾いた……」


******


「鈴と初めて会った時に俺が弾いた曲、か……」

 律は観客席の最後尾の席で、舞台で鈴が奏でる曲に耳を傾ける。

 フランツ・シューベルト作曲『アヴェ・マリア』。わずか31歳で亡くなるシューベルトが短い生涯の中で残した代表作。この曲は、元々『エレンの歌』という詩に曲をつけたものであった。その詩とはウォルター・スコットの叙事詩『湖上の美人』の一部であり、聖母マリアへの祈りが描かれた作品となっている。

 曲の構成やリズムはシンプルで、シンプルであるがゆえにその曲の美しさが際立ち人々の感情に直接届くような、感動的な旋律が特徴である。この曲は歌曲であり、ラテン語とドイツ語の歌詞があるが、どちらも言葉の一つ一つに祈りや感謝の気持ちが込められたものとなっている。

 この曲は、鈴に初めて会った時、律が鈴のために弾いた曲だった。この曲を聞いた鈴は涙を流しながら喜んでくれた。幼い頃から体が弱かった鈴は、長い時間を病院で過ごしてきた。孤独と戦う毎日は、まだ幼かった鈴にとってとても辛いものだったのだろう。律の演奏は、そんなボロボロにだった鈴の心を癒した。律は自分の演奏が誰かのためになることを嬉しく感じるとともに、感動してくれた鈴が好きになった。この曲は、律と鈴との間に繋がりを作った曲でもあった。

 どうして鈴は……ジュリアは、課題曲を無視してまで、今この曲を弾いている? それは俺と鈴の約束の勝負の先に存在するもののため、なのか?

 その時、舞台上から風が吹いてきたような気がした。その一瞬の間、舞台上で演奏する鈴が律に向けて語りかけてきたような気がした。

「信じろ、繋がりを。鈴は必ず戻ってくる」

 鈴ではないジュリアの言葉が聞こえたような気がした。


****** 


 『アヴェ・マリア』を弾き終わり、落ち着いた様子で舞台上を後にする鈴の姿を、奏も紗月も呆然と眺めていた。そんな時、奏の携帯電話が音を鳴らし始める。

「あっ、電源切るの忘れてた!」

 周りに申し訳なさそうに振る舞いながら、奏は電話に出る。場所が場所なため、急いで電話を切ろうとしたところ、奏の顔がみるみるうちに驚いたような表情に変わっていく。電話を切った後、唐突に立ち上がり、コンサートホールから外に出ようとする。

 奏のいきなりの行動に驚きつつも、何かを感じ取った紗月は奏に追いつき、無理やり事情を聞く。

「鈴先輩が……!?」

 事情を聞いた紗月は、奏とともに急いでブリランテ小劇場を後にした。


****** 

 

 律は既に閉じられてしまったコンサートホールの扉の前に立っていた。扉越しに先ほどまで自分が立っていた舞台を見ていた。

(あんな啖呵を切った割には、情けない結果になりそうだ。でも悔いはない。自分とあいつらには、なんとかけじめをつけることができそうだ。これできっぱりクラシックギターを辞められる)

 律が踵を返し、エントランスホールを後にしようとしたところ、複数の大きな声で呼び止められる。

常盤ときわ先輩!!」

「先輩! 待ってください!」

 声が聞こえてきた方向に目を向けた律は息をのむ。そこにはクラシックギター部を辞めていった元部員たちの姿があった。

「ど、どうしてお前たちが……!?」

深山みやま先輩が私たち一人一人に声をかけてまわってくれたんです。その時に今日のコンクールのことも知って……。常盤先輩と朝比奈先輩がクラシックギター部のために頑張るから、応援しに来てって」

(奏が……?)

 クラシックギター部員たちは五十人ほどいる。その一人一人に声をかけることはそんな簡単なことじゃない。俺たちがギターの練習に明け暮れていた裏で、そんな大変なことを一人でやってくれていたなんて……。

 それに、今日この日のためにこんなにも多くの部員が駆けつけてくれた。律は胸の奥に何か温かいものが溢れてくるような感覚を覚える。そして次の瞬間には、自分でも考えていなかった言葉がこぼれ出ていた。

「今まで本当に悪かった……。どうかこの通りだ」

 律は駆けつけてくれた部員たちに頭を下げる。部員たちは突然の律の行動に全員驚いた表情を浮かべる。そしてしばらくした後、一人の女子生徒が口を開く。

「顔を上げてください、先輩。私たちは常盤先輩に謝られるようなことはしていないです」

 律はその言葉に驚いたように顔を上げる。

「いや、そんなことは……」

「あの時、朝比奈先輩が事故に遭って入院することになって、クラシックギター部は一体どうなってしまうんだろうと心配でした。でも朝比奈先輩と一番親しかった常盤先輩が、朝比奈先輩の代わりに部長としてクラシックギター部を支えてくれて、とても嬉しかったです。朝比奈先輩と一番親しかったはずなのに、悲しい表情一つ見せずに、常盤先輩は私たちを導いてくれました。そして今日もこうしてクラシックギター部を守るために戦ってくれました。それなのに、私たちは常盤先輩を裏切るような行動を取ってしまいました。本当にごめんなさい」

 女子生徒が頭を下げると、他の部員たちも次々と謝罪の言葉を口にしながら頭を下げる。一斉に下げられた頭に律は困惑してあたふたする。そして、しばらくして口を開く。

「みんな顔を上げてくれ。こんな風に慰め合ってたら日が暮れてしまう」

 部員たちはおずおずと顔を上げる。律は一人一人の顔を見渡していく。

「みんな、最後まで俺を思い、信じてくれてありがとう。クラシックギター部のみんなに出会えて、自分は本当に幸せだったと思う。だが、俺はもうクラシックギター部に戻るわけにはいかない」

「そ、そんな……!」

「どうしてですか!?」

 部員たちから次々と言葉が聞こえてくる。律は静かに答える。

「これは自分自身への約束なんだ。これ以上約束を違えるような真似はしたくない。だから……」

「それはもう必要ないよ、律」

 突然聞こえた声に、律は動きを止める。声がした方向にゆっくりと視線を向ける。そこには、奏に支えられながら歩く鈴の姿があった。青白い顔をした鈴は、自分が知っているジュリア演じる鈴とは違い、全身がひどく痩せこけていた。その様子を見て、まさかと思う。

「ほ、本物の、鈴、なのか?」

 鈴は柔らかな微笑みを浮かべながら、ゆっくりと頷く。

 隣で鈴の体を支えていた奏は、目に涙を浮かべている。

 幼馴染二人の様子に、律は目の前の鈴が、長らく病院のベッドでずっと眠り続けていた本物の朝比奈鈴であることを理解する。

 律はよろけそうになる足をなんとか踏ん張り、鈴に向けて足を踏み出す。鈴の目の前にたった律の目からは涙がこぼれていた。

「起きるの遅すぎだろ……」

「うん、心配かけてごめん」

「……おかえり、鈴」

「うん、ただいま。律、奏」

 律が鈴の体に腕をまわす。抱き合う二人に、さらに覆い被さるように奏が抱きつく。三人は声を上げて泣き続けた。しかしその顔には、嬉しさが滲んでいた。クラシックギター部員たちも、三人の周りに次々と集まる。

 繋ぎ止められた絆は、さらに太く強く結ばれていく。

 これからもそうあると、律たちはそれを信じて疑わなかった。

 

******


 クラシックギター部全員が笑いあっているのが見える。

 鈴の演技を終えたジュリアは、紗月とともに、エントランスホールの柱の陰に隠れるようにしながら、律たちの様子を見ていた。鈴が復帰したクラシックギター部は、息を吹き返したかのように明るく元気な雰囲気に包まれている。その様子を目にしたジュリアの顔にも笑みが刻まれた。

「鈴先輩、目が覚めて本当に良かった」

「奏先輩と一緒に君の演奏を見た後、奏先輩の携帯に、鈴先輩の目が覚めたっていう連絡があったんだ。急いで二人で向かって、医者の言うことも無視して、無理やり鈴先輩を連れてきたんだけど……。鈴先輩、本当に大丈夫かな? なんかさっきよりも顔色悪くなってね?」

「鈴先輩なら大丈夫だよ。病院で一人でいるよりも、大切な仲間たちと一緒にいる方が楽しいに決まってるからね」

「ま、そうだな」

 ジュリアは青白い顔をしながらも、面白おかしく笑っている鈴の姿を見て嬉しく感じた。鈴はいつも微笑みを浮かべているが、本当はああいうふうに笑うのが似合う人なんだと、今日初めて知った。ジュリアはクラシックギター部員たちの楽しそうな様子をしっかり目に焼き付け、踵を返そうとする。

「もう行くのか? みんなには会わなくていいのか?」

「うん、今はクラシックギター部の人たちだけで、これまで一緒に過ごせなかった分の時間を過ごしてほしいから」

「ジュリア」

「何? 紗月くん」

「依頼達成だな。お疲れ様」

「ありがとう」

 ジュリアと紗月はクラシックギター部員たちの邪魔にならないよう、静かに会場を後にした。

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