エピローグ

 コンクールから数日後。

 夏休みも終わりに差しかかり、夏休みの宿題に苦しめられる人間が続出しているであろう時期に、ジュリアと紗月は第二音楽室を訪れていた。

 教室前方に立つ二人を取り囲むのは、総勢五十人にも及ぶクラシックギター部の面々だった。みんなそれぞれクラシックギターを構えて、指揮者の生徒の合図を待っていた。

 初めは結構広い教室だと思っていた第二音楽室も、こんなにも多くの部員が集まると、そんなに広い教室でもないことが分かる。第二音楽室に多くの部員が集まる光景に見慣れていないジュリアたちはとにかくその数に圧倒されていた。しかし、これがクラシックギター部本来の姿。鈴が事故に遭う前までは、このかたちでずっと練習してきたのだ。全員揃っての久しぶりの演奏に、みんなワクワクしていることがこちらにも伝わってくる。そのくらい一人一人が良い顔をしていた。

 今日、ジュリアと紗月はクラシックギター部のミニコンサートに招かれた。ミニコンサートと聞いて来たものの、お客さんはジュリアと紗月だけだった。ジュリアは観客が自分たち二人だけであることに心細さを感じるあまり、一番目の前に座る人物に確認する。

「奏先輩、今日のミニコンサートって、お客さんは私たちだけですか?」

「そうよ。ジュリアちゃんと紗月くんだけよ」

 ジュ、ジュリアちゃん……!? いつの間にか呼び方が真白さんからジュリアちゃんに変わっている! ジュリアは観客が自分たちだけであることよりも、ジュリアに対する奏の呼び方が変わっていることに気を取られてしまった。「どうしてですか?」と聞くつもりだったが、そのままタイミングを逃してしまう。

「おい、奏! 二人にちゃんと伝えてなかったのか?」

「あれ? 伝えたと思ったんだけどな」

「ホントにいろいろと抜けてるやつだな!」

「あんたこそ人のこと言えないんじゃないの、律!」

「何だと!?」

 突如として律と奏による喧嘩が始まる。恒例行事と化しつつあるこの光景を目にしても、もはや誰も止めようともしない。なぜなら、その必要がないからである。

「ほらほら、二人とも。仲良くしないとダメだよ。どちらにしろ、今ちゃんと伝えれば良いんじゃない?」

「あ、そっか」

「それもそうだな」

 柔らかな微笑みに添えられた鈴の穏やかな言葉は、すぐに律と奏の頭の熱を下げ、みんなに平和を取り戻してくれた。鈴がいる限り、クラシックギター部の平和が壊されることはない。そんな厚い信頼の眼差しが鈴には注がれていた。

 ジュリアは改めて鈴の姿を見る。コンクールの日に会場に現れた鈴は目覚めた直後ともあり、顔色が悪く立っているのもやっとという状態だった。でも今目の前にいる鈴は、あれから少し太ったようで健康的で肌艶も良く、よりカッコいい好青年になっていた。その鈴がジュリアと紗月に向けて言う。

「真白さん、紗月くん。今日は二人に僕たちからお礼の気持ちを伝えたくてここに来てもらいました。クラシックギター部が廃部を免れ、またこうしてみんな揃って演奏することができるようになったのは、二人のおかげです。本当にありがとう!」

 鈴の言葉に続けて、クラシックギター部員たちから「ありがとー!!」という言葉がジュリアと紗月に送られる。数え切れないほどの感謝の言葉と盛大な拍手に包まれたジュリアは、慣れない状況に頬を赤らめる。紗月は照れた様子はないが、やる気のなさそうないつもの表情に、若干の笑みが浮かべられている。歓声が少しおさまったところで、鈴・律・奏の三人が順に口を開く。

「そして、二人には感謝の気持ちを込めて、クラシックギター部全員から合奏のプレゼントを贈らせてもらいたいと思います」

「二人には感謝してもしきれないほど世話になった。どうやってお礼をしようかとみんなで考えたんだが、これが一番俺たちらしいやり方だと思ってこれに決めたんだ」

「ジュリアちゃんと紗月くんのために、一生懸命心を込めて演奏するね! ぜひ楽しんでいってください!」

 奏の言葉を最後に、しばし沈黙が降りる。

 ジュリアがゴクリと喉を鳴らした途端、クラシックギター部の演奏が始まった。

 金管楽器や木管楽器が登場するオーケストラの演奏は何度か見たことがあるが、クラシックギターだけのオーケストラ、つまりクラシックギターの合奏を目にするのは初めてだった。

 クラシックギター一つで出せる音はそんなに大きくないが、複数集まると重厚で華やかな音になる。それにナイロン弦で奏でられるクラシックギターの音は柔らかく、聞いていて非常に心地よい。硬質な感じがないことで、リラックスして聞くことができる。主張が弱いというわけではなく、自然に近い音というイメージ。人で例えるならば、気を遣わなくても自然に素の自分をさらけ出せるようなそんな人のイメージ。クラシックギターの音の波になら、安心して自分の身を預けることができる。ジュリアをそんな気持ちにしてくれる楽器は、クラシックギター以外にはない。

 鈴を演じることでクラシックギターの素晴らしさを知ることができた。クラシックギターを通して、鈴たちが大切にしてきた繋がりに触れることができた。彼らの繋がりに触れることで、ジュリアは幸せとは何かという問いの答えを得ることができた。

 みんなの演奏の中に温かさを感じる。クラシックギターの音が、一人一人の思いを運んできてくれる。

 今、この瞬間の、この思いを、自分は生涯絶対忘れないだろう。

 ジュリアはクラシックギター部の一人一人が愛おしそうにギターを抱く姿に幸せを感じた。

 


 クラシックギター部のミニコンサートが終わり、鈴・律・奏の三人と別れたジュリアと紗月は、夕焼け空が見渡せる学校の屋上に来ていた。

「まだこんなに暑いのに、どうしてここに?」

「なんとなく。ここでさっきの演奏の余韻に浸りたいなって……」

 紗月は森ノ熊の街並みを眺めるジュリアの横に並ぶ。

「……クラシックギター部を助けることが出来たのに、なんか嬉しくなさそうだね」

「そんなことないよ、すごく嬉しいよ。ただ、演技するのが楽しすぎて……。その時間が気づいたらあっという間に終わっちゃったのが残念というか、寂しいというか」

「だったらまたやればいいじゃん。もう君は、自分自身に証明できたんでしょ? 本当に進みたい道が」

 ジュリアはゆっくりと紗月に視線を向ける。

「次にやるべきことは、自分自身が一番よくわかってるはずだ」

 次にやるべきこと……。ジュリアはこくんと頷く。

「じゃあ、それを素直にやればいい。お前は自由だ」

 紗月の言葉に、これまで心を縛っていた見えない鎖が切れ、束縛から解放されたような感覚を覚える。次の瞬間には、ジュリアの瞳には明るい光が差し込んでいた。

「紗月くん、ありがとう」

 ジュリアは紗月に片手を差し出す。紗月も片手を差し出し、互いに握手を交わす。ジュリアは精一杯の感謝を込めて手を握った。

「あ、ここにいた! 探したぞ、天川!」

 屋上の扉から突然男子生徒が現れる。上履きを見る限り、二年生のようだ。

「一色先輩。どうしたんですか? まだ夏休み中なのに」

 男子生徒の言葉に紗月が反応する。そして男子生徒は、そのまま紗月の元に近づいていく。

「秋の文化祭に展示するための作品を描きに来てたんだ。美術室で作業してたら、急に紗星さとしが訪ねてきたんだ。紗月に会ったら、これ渡してくれって」

 男子生徒が紗月に紙パックを二つ手渡す。パックには『やさしいミルクコーヒー』の文字。

「それと紗星さとしから伝言。『上出来だ』だって」

「その割に飲み物二つって少なすぎないんじゃ……」

「じゃあ、ちゃんと伝えたからな。俺、もう帰るからさ。飲み物だったし早めに渡した方が良いと思って、お前のこと探してたんだ。じゃ、またな」

 男子生徒が手を振りながら、駆け足で階段を降りていく。状況を見守っていたジュリアが口を開く。

「今の人って美術部の先輩?」

「そう、美術部部長の一色先輩。美術部は三年生がいないから、二年生の一色先輩が部長を務めてるんだ」

「そうだったんだ。それと、どうして一色先輩は紗月くんのことを天川って呼んだの? 紗月くんの苗字は紗月でしょ?」

「あれ? まだ言ってなかったっけ? 俺の苗字は『天川』」

「え? じゃあ『紗月』は?」

「名前。俺の名前は天川紗月。生徒会長の天川紗星は俺の兄」

「ええ!? 紗月くんってあの生徒会長の弟だったの!? どうして教えてくれなかったの〜!」

「俺、あんまり『天川』って苗字が好きじゃなくて。天川って名乗るだけで、兄貴と比べられたり、兄貴関連で妙な因縁つけられたりするから、自己紹介するときは苗字じゃなくて名前を名乗るようにしてるんだ」

「あ、最初の頃、美術室で不良に絡まれてたのはそういうことだったのね」

 ジュリアは出会って間もない頃、紗月が不良たちに絡まれていたところを思い出す。そしてその紗月の状況を救ったのが、ジュリアだった。

「兄貴は優秀で人望もあって、仕事においては非常にやり手だ。生徒会長として、いろいろと裏で手を回してることもあるんだろう。森ノ熊高校の治安がここ一、二年で急に良くなったのも、兄貴がああいった不良たちを裏で密かに処理してくれていることが大きい。だが、そのやり方は一切俺たちには見えない。不良たちがそのやり方に反発するってことは、きっと双方が納得するやり方ではないんだろう。煮え切らない不満を兄貴じゃなくて弟である俺に向けるのも、ある意味納得できるかも。ただ、やっぱりこっちとしては迷惑なんだよな。こんなんじゃ、静かに絵も描けやしない」

「紗月くん……」

 生徒会長として森ノ熊高校を守ってくれている紗月の兄。だが、そのやり方は人に言えるものからそうでないものまで様々なようだ。弟の紗月は血縁者というだけで、これまでも多くの問題に巻き込まれてきたのだろう。しかもその中には、この前のような身の安全を脅かしかねないものも含まれている。こうなるともう迷惑を通り越して危険である。兄の紗星は弟がこんな目に遭っていることに対して、何も思わないのだろうか。ジュリアは、今思っていることとあの優しそうな生徒会長のイメージが上手く結び付かなくて困惑する。

「兄貴は誰よりも優秀で偉大だ。周りがそう評価するのは俺も納得している。だが弟の俺にとっては、昔から兄貴が何を考えているか分からない、今でもよく分からない存在だ。ある意味、怖い存在でもある。だが、俺が何を思おうと、俺が天川紗星の弟であることは変わらない。……とまあ、何が言いたいかというと、苦手なんだよ。兄貴が。ああ、どうしてあの人が俺の兄貴なんだろうな……」

 紗月はため息をつきながら空を見上げる。空には薄い月が浮かんでいた。

 ジュリアは紗月の横顔を見つめる。珍しく饒舌な紗月の様子に、兄との関係への余裕のなさが感じられるような気がした。ジュリアはその自信のなさそうな横顔に向けて言う。

「何言ってんの! 紗月くんのお兄さんが天川生徒会長でよかったと思ってる」

「……ジュリア、俺の話聞いてた?」

「うん。だって、あの時私が紗月くんのお兄さんを見ていなかったら、私は紗月くんを助けることが出来なかっただろうから」

 最初の頃、不良に絡まれていた紗月をジュリアが天川紗星を演じることで救った。それが出来たのは、直前にジュリアが天川紗星を見ていなければ出来なかったことだ。

「それに紗月くんのお兄さんがいたから、私たちはクラシックギター部を救うために一緒に協力し合うことが出来たし、仲良くなることが出来た」

 いつの間にか紗月は見上げていた空から視線を外し、じっとこちらを見ていた。

「身内との関係って、なかなかすぐには解決できないものだと思う。それが兄弟ならなおさら難しいと思う。だけど、近しい関係だからこそ、解決するチャンスの数も多いと思うの。だから、そのチャンスが来たときに無駄にしないように動ければ良いと思う。でも私は紗月くんはそもそもそんなことする必要もないと思う」

 ジュリアが紗月の顔を見据える。

「紗月くんがお兄さんを苦手だと言いつつも、その事実を気持ちよく思っていないってことは、紗月くんにとってお兄さんはよく分からない存在じゃなくて、大切な存在ってことじゃない?」

 紗月の目が大きく見開かれる。

「紗月がお兄さんのことを大切に思っている限り、その思いは必ずお兄さんに届き続けてるよ。だから紗月くんが悩む必要ない。大切なのは自分の気持ち。紗月くんのお兄さんを信じる気持ちだと思う」

 信じることの大切さ。これを教えてくれたのは他でもない鈴や律や奏、そしてクラシックギター部みんなだ。ジュリアは彼らの顔を頭に思い浮かべながら続ける。

「それに……私が信じることの大切さに気づくきっかけをくれたのは紗月くんだよ。紗月くんが生徒会の依頼を受けることを後押ししてくれなかったら、私はいつまでも変われないままだった。本当にありがとう」

 ジュリアは紗月に微笑みかける。

「だから紗月くんなら絶対大丈夫だよ」

 ジュリアの言葉に紗月は頬をかきながら視線をゆっくりとそらす。

「うん、ありがとう」

 ジュリアはニッコリと微笑んだ後、腕を宙に向け背伸びをしながら口を開く。

「紗月くんのおかげで、前よりも自分のことを好きになれた気がする」

「……俺も好きになった気がする」


「紗月くんも? よかったね!」

「……ああ」

 紗月が少し肩を落としたのをジュリアは気づかなかった。ジュリアは少し迷ったような顔をした後、何かを決めたかのように紗月に向き直る。

「あの……紗月くん、ちょっとお願いがあるんだけど」

「お願い?」

「夏休み終わったら演劇部まで付き合って欲しいの」

 ジュリアはスカートのポケットから一枚の用紙を取り出す。

「これ、出しに行きたくて……」

 紗月はジュリアの手にあるものを見て、口元に軽く笑みを浮かべる。

「じゃあ、やさしいミルクコーヒーで手を打ってあげるよ」

 紗月の言葉にジュリアも笑顔で答える。

「ありがとう」 

 山の端に太陽が沈もうとしていた。そしてその上では、星々が登場を待ち侘びていたかのように、地上にその輝きを知らしめていた。

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