第14話 ジュリアと律

 鈴を演じ始めて早くも一ヶ月が経とうとしていた。

 鈴というライバルと再び勝負をすることを誓った律は、以前にもまして練習に精を出すようになっていた。クラシックギター部の活動がない日も、第二音楽室で一人黙々と練習に明け暮れている。クラシックギター部を廃部の危機から救うためにコンクールで入賞を果たす、という目標は律の眼中にはなく、ただ、鈴と戦うことしか頭にないようだった。

 しかしそれでも良いと思った。最近律は良い顔をするようになってきたと思う。これまでは抜け殻のように生気のないような音を出していた律のギターからは、律らしい丁寧でしっかりした音が聞こえてくるようになった。鈴の存在がこれほどまでに律を変えてしまうなんて、改めて律にとって鈴は特別な存在なのだと思った。

 ジュリアも鈴を演じる以上、鈴や律に恥じないように努力しなければならないと、心の中で自分を叱咤激励する。

 今日はクラシックギター部を休んで、ジュリアとして鈴を演じるための準備にあてる日。とはいっても、その時間の大半はクラシックギターの練習にあてるためのものだ。

 ジュリアは放課後、美術室にある準備室に足を運んでいた。美術部員の紗月を通して、事前に美術部部長から準備室の使用許可をもらうことができた。だからコンクールまでは、ジュリアとしてのクラシックギターの練習場所はこの美術準備室ということになる。

 ジュリアは奏を通してクラシックギター部から借りたクラシックギターをケースから取り出し、足台や譜面台の準備をする。チューナーを装着し、六弦から一弦まで順番に調弦していく。チューナーの針がなかなか真ん中に定まらず、苦戦しながらなんとか演奏する準備を整える。

 今日はいつもこっそり練習を見てくれている奏が鈴のお見舞いで不在にしており、紗月も珍しく予定があるようで、授業終わりに早々と教室を出て行った。そのため、一人で練習しなければならない。

 ジュリアは目を瞑る。奏からもらった鈴の演奏動画を頭に思い浮かべる。並外れた観察眼と集中力で自分の体にコピーした鈴の演奏を、演技としてアウトプットする。鈴の華やかで大胆な音が、自分の使うクラシックギターから聞こえてくる。だが、いまいちしっくりこない。

(うーん、鈴先輩の音に聞こえるは聞こえるんだけど、何かが足りない気がする……。なんだろう、分からない……)

 とりあえず練習の数をこなしてみよう。そうしたら何か掴めるかもしれない。

 ジュリアは鈴の演奏を何度もコピーして、手を動かし続けた。指先に少し痺れを感じる。指の感覚がはっきり感じられなくなるのも構わずに、とにかく弾き続ける。

 一曲引き終わった頃には、汗だくになっていた。ギターを握っていた部分にも薄く汗が滲んでいた。持っていたハンカチで額の汗とギターについた汗をぬぐう。

(なんとかクラシックギターの感覚も掴めてきたし、演奏への集中力も持ちそう。けど、鈴先輩の演奏としては不完全。鈴先輩は何を感じ、何を思いながら演奏していたんだろう? もう少し考えないと……)

 ジュリアが演奏への反省を行っていると、美術準備室の扉の向こうから声が聞こえる。

「鈴、いるのか?」

 ジュリアはドキッとする。この声は……。

(律先輩! どうしてこんなところに!?)

「おい、いるんだろ? 開けるぞ」

 青ざめるジュリアをよそに扉が開かれていく。扉の前に目を向けると、最近ほぼ毎日顔を合わせるようになった律の姿があった。

「鈴……じゃない?」

 律は期待していた人物ではなかったことに、肩透かしを食らったように見えた。それと同時に、ジュリアを怪しむような目で見る。

「お前はあの時の……」

 ジュリアの姿で律に会うのは、律と初めて話した時以来だった。ジュリアとしての律との最近の思い出が律に怒鳴られたことで終わっていたので、ジュリアの姿で律と対面することには少なからず抵抗があった。鈴として律のことを知りつつある今でも、律を前にすると怖いという印象がまだ残っていた。若干怯えながらも、なんとか口を開く。

「ま、真白ジュリアです。律先輩、お久しぶりです」

 ジュリアはぎこちない笑顔を浮かべる。

「トイレに行こうとして美術室の前を通ったら、鈴のギターの音が聞こえたんだ。どうして鈴が美術準備室なんかでギターを弾いてるんだと疑問に思ったが……まさかお前が弾いてたとはな」

 少しずつジュリアの方に歩を進めてくる律の足音に緊張がはしる。律の足音がジュリアの目の前で止まる。

「お前、クラシックギター部の部員でもないのに、どうしてこんなところでギターを弾いている? しかも弾き方やテクニックが鈴と瓜二つだ。お前は一体何者だ?」

(どうしよう、早く何か答えなきゃ! そうしないと鈴先輩のことがバレちゃう! でも何をどうしたらいいの?)

 律に問い詰められ、混乱するジュリアは、律を凝視したまま動けなくなっていた。

 すると、律がさらにジュリアとの距離を縮めて近づいてきたので、あまりの恐怖にジュリアは咄嗟とっさにぎゅっと目を瞑る。

(な、殴られる!!)

 しかし、いつまで待ってもジュリアが予想した展開が訪れることはなかった。

「やっぱり割れてるな。どうりで鈴の演奏にしちゃあ、キレがないなと思ってたんだ」

 ジュリアがゆっくりと目を開けると、律がジュリアの右手首を掴み、その先の指に視線を向けていることに気づく。ジュリアも自分の右手に目をやると、人差し指の爪がパックリと割れ、そこから少し血が滲んでいた。

 特に痛みは感じなかった。でも指の痺れがなかなかおさまらなかったのは、これも影響していたかもしれない。ジュリアは今更ながらに思う。

「何ぼさっとしてる? 行くぞ」

 律がジュリアの右手首を掴んだまま、そのままどこかへ行こうとする。

「え、どこにですか?」

「決まってるだろ? 保健室!」

 律はジュリアを半ば強制的に保健室へ引っ張って行った。



「座って、右手出して」

 森ノ熊高校の保健室は一階にある。放課後のこの時間に保健室を利用している生徒は誰もおらず、保健室の先生に声を掛けて、律はジュリアを診察用の座面が回転する椅子に座らせる。ジュリアはおずおずと右手を律の前に差し出す。律は手早に消毒等の治療を施した後、ポケットから何かを取り出した。そしてそれを使ってジュリアの指の爪を削り始める。

「あの……これは一体?」

「爪やすりで爪を整えてる。こんな手入れの行き届いていないギザギザガタガタの爪で、よくあれだけの演奏ができたもんだ。爪は全てのギタリストにとっての命。クラシックギターを触る前に、必ず爪の状態は確認しておくべきだ」

 律はジュリアの指の爪を次々と綺麗に整えていく。全部の指の爪が終わったかと思いきや、今度もまたポケットから何かを取り出す。さすがのジュリアもこれには見覚えがあった。

「紙やすりですか?」

「ああ。といっても、図工とかで使う目の荒いザラザラしたやすりじゃなくて、仕上げ用によく使われる、目が細かくてサラサラしたやすりだけどな」

 律は小さくちぎったやすりを、爪の断面や表面に当て擦っていく。凸凹していた部分が平坦のまとまりのある状態になっていく。爪に光沢が出てきたように感じた。

「クラシックギターは、爪の断面が少しでもザラザラしていたりすると、弦を弾いた時、良い音が出ない。弦を弾く爪の断面は滑らかであってこそ、クリアな良い音を出すことができる。だから、爪の手入れは重要なんだ」

 ジュリアはふと自分の目の前で、ジュリアのために丁寧に爪を手入れしてくれている律の顔をじっと見る。

(なんだか、楽しそう……?)

 笑ったりはしていないが、なんとなく口元が笑って見えるのは気のせいだろうか?

それに、どことなく前みたいな殺伐としたトゲトゲした雰囲気が、律から感じられなくなっている気がする。ジュリアがあれこれいろいろと考えていると、律が気まずそうに目を爪に向けたまま言う。

「それと……この前は怒鳴って悪かった」

 律からは紡がれることがないと思っていた言葉に目を見開く。そして同時に、今目の前にいる律は、ジュリアが初めて会った時の律とは違うことを理解した。

 鈴というライバルが現れてから、律は変わった。いや、律は本来の律に戻ったのかもしれない。爪やすりを使いながら楽しそうにクラシックギターの話をしたり、気まずそうながらもきちんと反省する姿を見せたりするのが、律本来の姿なのではないか。

「いえ、そんな……私の方こそ……」

 ごめんなさい。ジュリアは自分を恥じた。奏が信じていた律の本当の姿を、ジュリアは信じることが出来ていなかった。過去の一端だけで律を怖くて厄介であると決めつけ、自分とは決して分かりあうことはできない人間だと、無意識に断定していた。変わるべきは自分の方だった。ジュリアは唇を噛む。

「よし、できたぞ」

 律が腰を軽く叩きながら立ち上がる。ジュリアは律が整えてくれた爪を見る。ピカピカになった爪を見て、ジュリアは言う。

「これがギタリストの爪なんですね」

「そうだ。お前が鈴の知り合いかどうかは別に興味はないが、鈴を目標にするなら、まずは爪にこだわることから始めろ。鈴の華やかで大胆な演奏は、爪の形で決まる」

 これやるよ、と放り投げられた爪やすりをすんでのところでキャッチする。律はそのまま保健室から出て行こうとする。

「あ、あの……ありがとうございました! 爪の手入れ、がんばります!」

 律は後ろ手に手を振りながら、保健室を後にする。

 残されたジュリアは律に整えてもらった爪を眺めていた。

(綺麗……)

 ギタリストの爪からはネイルを施した完成された美とは違って、自然の美を体現したような素の美しさが感じられる。

 律は本当にクラシックギターを愛している。律が施してくれた美しい爪を見ていると、そう思わずにはいられない。好きだからこそ、愛しているからこそ、ここまでこだわることができる。こだわりの深さは愛の深さだ。

 ジュリアは椅子から腰を上げる。

 今日律と会えてよかった。鈴としてではなく、ジュリアとして会えたことが何より良かった。鈴の演奏をコピーしていた時に感じていた違和感の正体。それはジュリアとして律に会うことで知ることができたような気がする。

 鈴として律を信じるには、その鈴を演じるジュリア自身が律を信じなければいけなかった。ジュリアは今日それを知った。

 律を思う気持ち。それが鈴を演じるジュリアの演奏に欠けていたもの。

 今なら鈴をもっと良く演じられる気がする。ジュリアははやる気持ちが抑えきれず、気づいた時には保健室を後にし、階段を駆け上がっていた。

 鈴を演じることが律や奏やクラシックギター部の幸せに繋がる。ジュリアは今ではそれを信じて疑わない。

 階段を一階から四階に駆け上がった後も、ジュリアの足は不思議と軽いままだった。

 






 

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