第8話 朝比奈鈴

「急にごめんなさい、かなで先輩。予定とか大丈夫でしたか?」

「全然大丈夫よ。もともと今日はりんのお見舞いに行く日だったから。いつもお見舞いは私ばかりだから、今日は真白さんたちが一緒に来てくれて、鈴も絶対喜ぶと思う」

「それはよかったです」

「奏先輩、そろそろですか?」

「そう、その次の駅でブザー押してもらってもいいかな」

「了解っす」

 ジュリア、紗月、奏は順にバスを降り、すぐ目の前の建物を目指し歩き出す。 

 森ノ熊病院。森ノ熊高校の最寄駅からバスで30分ほどの距離にある中規模病院である。鈴が入院している。五階建ての築三十年ほどの建物だが、壁面が白を基調とした明るい感じの雰囲気であるため、真新しさが感じられるとともに綺麗な印象の病院である。

 ジュリアと紗月は鈴のお見舞いに行くため、放課後バスに乗られ、奏とともに鈴が入院する森ノ熊病院を訪れていた。

「鈴先輩のことを教えてください」

 昼休み奏の教室を訪れたジュリアが発した言葉に、奏はこころよく頷いた。そして言葉で伝えるよりも直接一緒にお見舞いに行った方が早いと話を持ちかけたのが事の発端だった。

 放課後、美術部に行こうとしていた紗月を急いで引き留め、すぐに病院に向かったため、病院の面会時間に十分間に合うことができたようだ。病院の受付を通り、まっすぐに鈴がいる病室へ向かう。

 朝比奈あさひな鈴という表札を確認し、病室の中に足を踏み入れる。仕切りカーテンを開けると、すぐに病院特有のアルコールっぽい、つんとした匂いが風に乗って運ばれてきた。部屋の奥に目を向けると窓が開け放されており、白いカーテンがゆらゆらと揺れていた。そのすぐそばに一台のベッドが置かれていた。そしてその上にはたくさんの管に繋がれ、酸素マスクをした青年が横たわっていた。

 奏はベッドの傍にある椅子に腰掛け、眠ったままの青年に声をかける。

「お見舞いに来たよ、鈴」

(この人が奏先輩と律先輩の幼馴染で、クラシックギター部の元部長、朝比奈鈴先輩……!)

 ジュリアは奏の隣に立ち、鈴と呼ばれた青年の様子を窺う。

 色素の薄い茶色っぽい髪色、色白の肌、少し彫りの深い顔立ち……。まるで外国人のような綺麗な青年だ。しかし、その目はしっかり閉ざされ、血色も元の色白さを越えて青白く見える。体中のあちこちに繋がれている管や酸素マスクが規則正しく曇る姿は、見ているだけでとても痛々しい。

 奏はベッドのそばの棚に置いてあった花瓶を持ち上げ、部屋に備え付けの洗面所で新しい水に入れ替えて、元の場所に戻す。新鮮な水を得た花は、さっきよりも明るく元気になったように見える。

「鈴、今日は真白さんと紗月くんがお見舞いに来てくれたよ」

「初めまして、鈴先輩。一年三組の真白です。こっちは紗月くん」

「どうも」

 鈴からの返答はなかった。外からのそよ風で鈴の前髪がさらさらと動いている。奏は鈴の様子を見て微笑む。

「うん、鈴もちゃんと喜んでるよ。二人ともありがとね」

「いえ、こちらこそ。あの……ずっとこの状態なんですか?」

「そうだよ。ずっとこうして眠ってる」

 奏は悲しそうな顔で鈴のことを見つめる。自分の大切な人が鈴のような状態だったら、とても普通ではいられない。ジュリアはいたたまれない気持ちになる。話題を変えようと質問を続ける。

「お見舞いにはいつも来ているんですか?」

「いつもじゃないけど、ここにはほぼ毎日来てるよ」

「奏先輩一人だけですか? 律先輩は?」

「……鈴がこうなってから、律が鈴のお見舞いに来たことは一度もないの」

「え……だって鈴先輩と律先輩はライバル同士で仲がいいはずじゃ……?」

「律は変わってしまった。もう鈴や私のことなんてどうでもいいのよ……」

 重苦しい空気が広がる。奏はハッとして、無意識に場の雰囲気を暗くしてしまったことに気づき、慌てたように口を開く。

「ご、ごめんなさい! また私は暗いことを……。そういえば、鈴について何を聞きたいの?」

 あ、そうだった! ジュリアは奏に聞こうと思ってたことを頭の中から拾い上げる。

「いろいろあるんですけど、まずは性格から」

「鈴はとにかく優しくて穏やかな性格。大人びてしっかりしていて、子供っぽい私とか律をよく見守ってくれる存在かな。優しくて頼りになるお兄ちゃんって感じ。ちなみに律は、負けず嫌いでプライドが高くて、気持ちがすぐ顔に出るめんどくさい性格。しかも子供っぽくてすぐ意地を張るから、昔から私とは衝突することが多くて喧嘩ばかりしてた。その度に鈴が止めに入ってくれてたな
。律はあれでも鈴には頭が上がらなかったんだよ」

 奏の鈴と律への評価の違いに差がありすぎる。でも憎まれ口を叩きながらも、なんだかんだで奏は律のことも大切に思っている感じがした。

 それにしても、あの激しい律が鈴に頭が上がらないなんて驚きだ。

「鈴先輩ってすごい人なんですね」

「そうね。律が頭が上がらないのは鈴が怖いからってわけじゃなくて、鈴の優しい笑顔にあてられて戦意喪失しちゃうっていうのが正しいかも。鈴は律との勝負にはこだわったけど、基本的には平和主義者で、鈴の顔にはいつも笑顔が浮かんでた。鈴の笑顔を見ると、なんだか力が抜けちゃうの。そんな不思議で温かい力を持ってるのよ、鈴は」

 ジュリアは鈴の寝顔を見る。目は閉じていて顔色も良くはないけど、その優しげな顔立ちを見ていると、自然に笑顔になれるような、そんな不思議な雰囲気を放つ人だと思った。ジュリアは質問を続ける。

「鈴先輩と律先輩はライバル関係だって聞いてますけど、プライベートでもよく遊んだりしてたんですか?」

「そうよ。遊ぶっていっても、いつもクラシックギターを一緒に弾いて過ごしてたわ。私も一緒によく三人で遊んだけど、背中には必ずクラシックギターを背負って行くようにしてた。だって、二人と会うのにクラシックギターを弾かないってことはあり得なかったもの」

「皆さん、クラシックギターがすごく好きなんですね」

「もちろん!」

「ちなみに皆さんがクラシックギターを始めたきっかけって何だったんですか?」

「律よ。小学三年生の頃、私と鈴が通っていた小学校に律が転校してきたの。律はクラシックギターを習っていて、律と仲良くなった私と鈴はそれからすぐにクラシックギターを始めることになったの」

「へぇ〜、じゃあクラシックギターは律先輩の方が先に始めてたんですね」

「そう。私たちは律の演奏を聞いて感動して、クラシックギターをやりたいと思ったの。律の演奏は今でも思い出せるくらい、素晴らしい演奏だった」

 奏はどこか遠くを見つめるような眼差しを宙に向ける。

「同世代でクラシックギターをやっている人が周りにいなかった律も、私たちがクラシックギターを始めたことをすごく喜んでくれた。それからはほぼ毎日三人でクラシックギターを弾いて過ごしてた。あの頃はすごく楽しかったな」

 懐かしく楽しかった頃の思い出に浸る奏は幸せそうな顔をしていた。

「……戻りたいな、あの頃に」

 奏の言葉が重たくジュリアの心にのしかかる。奏は願っている、律と鈴と三人でまた楽しくクラシックギターを弾いて過ごすことを。奏の気持ちを深く知れば知るほど、今の状況がどんなに辛く悲しいものであるか、ジュリアには理解できた。そしてそれと同時に、何とか奏たちの力になりたいという思いが湧き上がってくる。

「きっと大丈夫です。きっとまた取り戻すことができます」

 ジュリアは奏をまっすぐに見つめる。

「こんなにも深く繋がっている奏先輩たちの絆を、誰かが断ち切ることができると思いますか? 私はそんなこと出来るとは思いません。なぜなら、絆は誰かを思う気持ちが強くなればなるほど強くなるものだと思うから」

 奏は驚いたようにジュリアを見る。

「奏先輩が律先輩や鈴先輩を思っている限り、その絆が断ち切られることはありません。先輩の思いが続く限り、運命が先輩たちを守ってくれると思います。私はそう信じています」

 信じることは意外と難しい。よく耳にする言葉であるが、簡単には口にできない重い言葉だとジュリアは思う。だが、あえてその言葉を選んだ。それは、自分への覚悟の証。

 ジュリアの真剣な眼差しに、奏はしばらく胸を打たれたように固まっていたが、少ししてからゆっくりと口を開く。

「良いことを聞いたわ。思っている限り、運命が私たちを守ってくれる。私も信じる。律と鈴を信じて思い続ける」

 奏が柔らかく微笑む。やっと奏の笑顔が見られたような気がする。嬉しさからジュリアの顔にも自然に笑みが浮かぶ。

「かっこいいこと言うじゃん」

 不意に隣から聞こえた紗月の言葉を理解した瞬間、体の体温がどっと上がる。そういえば、自分はさっきかなり恥ずかしいセリフを言ってしまったんじゃないだろうか……。たぶん赤くなっている顔を誤魔化すように、早口で質問をする。

「さ、さっきの質問の続きですが、鈴先輩って何か特徴とかありますか?」

「特徴? そうね……あ、そういえば夏でもホットドリンクを飲む変わり者かも」

「夏でもホットですか?」

「うん、基本的に冷たいものは苦手みたいで、夏に遊んだ時、私と律がアイスを食べている横でホットミルクティーを飲んでたな」

「す、すごい……」

「あ、それで思い出したんだけど、鈴はね……」

 奏は楽しそうに話し続けていた。奏を取り巻いていた不安や苦しみの影は、いつの間にか消え失せていた。奏は本来、天真爛漫で明るい人なのだろう。奏には笑っている顔がよく似合うと、ジュリアは改めてそう思った。

 鈴について一通り聞き終えた頃には、もう日も沈みかけていた。奏は窓の外を見ながら呟く。

「もう夕方なのね。時間が経つのは早いわね。二人は時間大丈夫なの? 私は面会時間ギリギリまでここにいようと思ってるけど」

「じゃあ、私たちはそろそろ。それで、最後に質問じゃなくてお願いがあるのですが……」

「何かしら?」

「鈴先輩の演奏動画があれば見せてほしいです。あともし可能であれば、奏先輩たち三人が中学生の時に金賞を受賞した時の動画があったらこれもお願いします」

「どっちもあると思う。探してみてあったら、明日明後日には真白さんにデータ送るよ」

「ありがとうございます」

「でもそれを見てどうするの? もしかして、真白さんもクラシックギター始めたくなっちゃった?」

「い、いえ! そうではなくて、えーと……」

「あはは、からかってごめんね。ぜひ聞いてみてほしい。音楽を聞けば私たちのこと、律のこと、鈴のことがもっとよく分かると思うから」

「はい!」

 ジュリアはうとうとしかけていた紗月を無理やり起こし、鈴の病室を後にしようとする。その時、奏の声が二人の背中を呼び止める。

「あ、あと一つだけ聞かせて。今更だけど、どうして鈴について聞きたいと思ったの?」

 ジュリアはゆっくりと振り向き、奏と奏の隣にいる鈴に目を向ける。

「鈴先輩がクラシックギター部を救う鍵になりそうな気がするんです。鈴先輩は繋がりを大切にする人だと、奏先輩の話を聞いてそう感じました。律先輩も奏先輩もクラシックギター部も、鈴先輩が大切にしてきた繋がり。その繋がりが今切れようとしている。……それを止められるのは、他ならない鈴先輩だけです。今日奏先輩から話を聞いて、確信しました」

 ジュリアは一度言葉を切る。そしてはっきりと言う。

「奏先輩、鈴先輩の代わりに鈴先輩に許可をください」

 奏は目を見開く。それまで眠そうにしていた紗月も目を丸くしている。

「鈴になるって……一体どういうこと?」

 ジュリアの瞳は迷いのないはっきりした光が宿っていた。



「なんか俺、今日ここに来る必要なかったんじゃない?」

 病院を出てすぐに横を歩く紗月が不満そうな声を上げる。そういえば鈴の病室にいる間、ほとんどジュリアと奏が話していて、紗月はそれを見ながらじっと立ってるだけだった。ジュリアは口を尖らす紗月に反論する。

「そんなことないでしょ。私が紗月くんに頼んだこと、ちゃんと覚えてる?」

「『朝比奈鈴の顔をよく見ておいてほしい』だろ? 俺には十分すぎるほど時間があったから、飽きるほど見させてもらったよ。描きたくなるほど綺麗な人だった」

 紗月は「今度奏先輩に鈴をモデルに絵を描いていいか許可でももらおっかな〜」と、さっきとは打って変わって上機嫌になっていた。

「それにしても、どうしてそんなこと俺に頼んだの?」

「さっき病室で言ったでしょ? 鈴先輩になる、って」

 紗月はジュリアの言葉に足を止める。まさか、それって……。

「紗月くんには、鈴先輩の顔を描いてほしいの。私の顔に」

 驚く紗月を前に、ジュリアの顔には笑みが浮かんでいた。


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