第9話 思い出の三重奏

 授業終了のチャイムが午後の気だるげな空気を破る。机に真剣に向かっていた優等生も、必死に頭を抱えていた文芸部員も、よだれを垂らしながら突っ伏していたバスケ部員も、止まっていた時間がやっと動き始めたが如くバラバラと席を立つ。

 自分も教科書や資料集をロッカーにしまいに席を立つ。自席に戻るとすぐに帰りのHRホームルームが始まった。頬杖をつきながら窓の外をぼんやり見る。黒板の前に立つ担任の話はほとんど耳に入ってこなかった。

 同級生たちが部活や家に向かうため次々と席を立つ。自分もいつものように第二音楽室に向かうため、鞄とギターケースを持ち教室を出た時、聞き慣れた声に呼び止められる。

「律!」

 振り向かなくても声の主が奏だと分かった。どうせいつものようにクラシックギター部を辞めていった奴らに謝れだの、本当にこのままで良いのかだのとうるさく言われるに決まってる。そう思い律はわざと奏を無視して、第二音楽室へ向かおうとする。奏は自分の言葉を無視して先を行こうとする律に構わず声をかける。

「鈴に会って!」

 鈴、だと? 鈴、という言葉に一瞬足が止まる。そしてゆっくりと後ろを振り向く。気の強そうな顔がいつものように律を睨んでいる。律は苛立たしげに言い放つ。

「しつこいぞ、奏。俺は忙しいんだ。見舞いには行けない」

 踵を返そうとする律を、再び奏の声が止める。

「お見舞いじゃない! 鈴が来てるの、第二音楽室に、クラシックギター部に!」

「……!」

 律は自分の耳を疑った。鈴が第二音楽室にいる? 思わず奏に問い返す。

「目を覚ましたのか……?」

 奏は一度律から視線を逸らした後、何かを決めたように再び律の目を見据える。

「……来れば分かるわ」

 奏はゆっくりと踵を返す。律を待つかのように進む奏の後ろ姿に誘われ、律もその後を追った。


 窓の外では鳥たちが翼をはためかせ自由に飛びまわっていた。放課後の廊下は部活に向かう生徒やおしゃべりに花を咲かせる生徒で賑わっている。彼らを横を通り過ぎ、階段を登っていく。いつもより背中のギターケースがずっしりと重く感じる。久しぶりに感じる背中の重みに、若干の煩わしさとそれを大きく上回る嬉しさを感じる。

 一歩一歩を踏みしめるように階段を上ると、気付いた時には目の前に第二音楽室の扉があった。扉の傍には奏がいた。奏は自分から扉を開ける雰囲気はなく、律にその役目を果たさせようとしていた。

 いつもと変わらず当たり前のように扉を開け、練習を始めるところだが、今日は何だか違う。扉の奥からプレッシャーに似た何かを感じる。律は一度深呼吸をしてから、勢いよく扉を開ける。

 勢いよく吹き付けてきた風に目を細める。無意識に顔の前にかざしていた手の隙間から、窓から見える透き通るような青空とそれを背負って立つ人影が見えた。人影はこちらの存在に気付いたように、ゆっくりと顔を上げる。律はギターケースを少し背負い直し、ゆっくりと歩を進める。

「鈴……」

 律と同じようにギターケースを背負った朝比奈鈴がそこにいた。鈴の茶色がかった髪が太陽の光を受け、元々少し彫りの深い顔立ちと相まって、外国人風の様相を呈している。鈴は、あの頃と変わらない柔らかな笑みを浮かべ、目の前に立っていた。

 信じられない光景を目にしたように、茫然とその場に立ち尽くす。頭が上手く働かない。全てが固まって動かなくなってしまう前になんとか口を開こうと、ぽつぽつと言葉をこぼす。

「鈴……本当に鈴なのか? 体は、もう、平気なのか? どうして、ここに、いるんだ?」

 鈴は律の言葉には答えない代わりに、口元に優しい笑みを浮かべている。初めて会った小学生の頃から変わらないその笑顔に、なんとも言えない懐かしさと申し訳なさを感じる。

 律は鈴に言おうか迷っていた。自分の中に感じていた申し訳なさの正体。律が鈴の勝負の中で抱えていた負の感情を。そしてそれが鈴に怪我を負わせ、律と鈴の関係を壊し、クラシックギター部を亡きものにしようとしていることを。

 自分だけで抱えておくには大きくなりすぎた。何度も捨てようとしたが、ダメだった。

 だけど、鈴なら……。鈴の微笑みを見ていると、全てを許し受け止めてくれるのではないのではないかと思ってしまう自分がいる。

 天秤が大きく揺れ動いている中、鈴が第二音楽室後方へゆっくりと移動する。教室の後ろには、これまでクラシックギター部員たちが獲得した歴代のトロフィーや盾が飾ってあった。棚の上やガラス戸の中には、クラシックギター部の過去から現在にかけての華々しい栄光がびっしりとつまっていた。

 鈴は棚まで行き着くと、目の前に並べられていたトロフィーの一つをいきなり倒した。鈴のいきなりの行動に、律だけでなく奏も驚いた様子で手を口で覆っている。

 鈴はそれからも次々とトロフィーや盾を倒していった。棚のガラス戸の中にあったものも例外ではなかった。

「お、おい! 鈴、何してるんだ!」

 久しぶりに再開したライバルによる予想外の行動に、声を上げずにはいられなかった。律の声を気にも止めずに、鈴は行動を止めない。

 最後のトロフィーが倒される。昨年クラシックギター部全員で出場した、コンクール団体戦にて獲得した優勝トロフィーだった。倒され力なく横たわったトロフィーからは、その身に宿った金色の輝きが失われたように見えた。

 鈴は振り返り再び律に向けて微笑む。その笑みは一連の行動が始まる前と同じだった。

 律は鈴の行動に困惑しつつも、あることに気づく。よく見ると、棚には鈴が倒していない一部のトロフィーや盾が残っていた。それらに近づいた律は目を見張った。倒されず残っていたトロフィーや盾にはすべて「常盤律」という名が刻まれていた。そしてそれら全てに名とともに刻まれていたのは「二位」「銀賞」「準優勝」といった文言だった。

「……っ!」

 鈴の意図に気付いた途端、頭の血がものすごい勢いで沸騰していくのを感じる。次の瞬間には腕が勝手に鈴の胸ぐらを掴んでいた。

「これは俺への当てつけか? お前にいつも勝てない俺を馬鹿にしているのか? 答えろ!!」

「……随分と好き勝手やったそうじゃないか、律」

 ここに来て初めて鈴が口を開く。鈴は微笑みを浮かべたまま続ける。

「僕は経験がないから分からないけど……奏やクラシックギター部のみんなを悲しませるのは、どんな気持ちだった? 楽しかった?」

 相変わらずの柔らかな口調。しかしそこから発せられる言葉は穏やかではない。

 思いもよらなかった皮肉な言葉の連続に、律は心情はさらに荒れる。

「鈴……テメェ……!!」

「僕は怒ってる。君が奏やクラシックギター部を苦しめたことを」

 鈴は胸ぐらを掴んでくる律の腕を掴み、無理やり引き剥がす。思ったよりも強い力に律はよろける。

「こんなことをするのは、君が弱いからだ。本当に強い人間ならこんなことはしない。律、一体どうしてしまったというんだい?」

「うるせえ! 俺は弱くなんかない! お前なんかには負けない!」

「やっぱり僕たちはクラシックギターでしか語り合えないようだ」

 鈴は一度息をついた後、まっすぐに律を見つめる。

「君が僕より強いというなら証明して見せてよ。暴力に訴えるんじゃなくて、正々堂々と、音楽で」

「何だと?」

「勝負だ、律。三重奏で」

「……!」

 勝負だと? しかも三重奏で? 鈴のいきなりの発言に、またもや混乱する。

(もともと少し変わったやつだったが……まさか三重奏で勝負と言い出すとはな)

 律と鈴のやりとりをずっと後ろで見守っていた奏が、律が思ったことを代わりに口にする。

「どういうこと、鈴。三重奏でどうやって勝負するっていうの?」

「先に相手の演奏に飲み込まれた方が負けだ。反対に言えば、相手の演奏を支配した方が勝ち。……この意味、君なら分かるよね、律」

(なるほど、そういうことか)

 これはただ単に技術力や表現力を競う勝負ではない。奏も一緒に弾くことで、仲間との協調性や連帯感を作ることを競う勝負でもある。そして何よりも勝負の決め手は、先に三重奏の主導権を握った方のものとなる。

 三重奏を行う際に一人一人が負う役割としては、メロディー・ハモリ・リズムの三つ。メロディーは主役、ハモリは引き立て役、リズムは役者たちの舞台のイメージだ。

 そうなると、メロディーを担う人物が演奏の主導権を握りやすいのではないかと思われがちだが、実はそうではない。主役は時として引き立て役に食われてしまう場合がある。また、役者たちの演技に光るものがなければ、彼らは素晴らしい舞台芸術の存在の影に埋もれてしまう可能性だってありうる。

 そうした意味で、自分が負う役割によって勝負の有利不利が影響するわけではない。

 大切なのは、自分が負う役割をしっかり理解して、相手の演奏を生かしつつ、自分の表現をさらけ出すこと。演奏家らしい勝負の仕方。

「ああ、そのやり方で構わない」

 律は同意の意味も込めて首を縦に振る。

 鈴は律の回答を確認した後、奏の方に目を向ける。

「悪いけど、奏にも少し手伝ってもらうよ」

「え? 私?」

 奏は突然声が掛かったことに驚く。

「三重奏は三人じゃないとできないから」

「それはそうだけど……だったら三重奏じゃなくて二重奏でいいじゃない」

「いや、三重奏だからこそ意味がある」

 奏は鈴の言っていることが分からないというように首を傾げる。律も鈴の発言の真意が分からずにいた。

(どういうつもりだ、鈴。一体何を企んでやがる……?)

 奏は気を取り直して鈴に尋ねる。

「曲はどうするの?」

「中学の時三人で金賞取った曲にする。あの曲だったらみんな今でも体が覚えてるでしょ?」

「中学の時私たちで金賞取った曲って……」

 鈴は三拍子の指揮をとる真似をして答える。

「『花のワルツ』」

 

 『くるみ割り人形』より「花のワルツ」。

 ロシアの作曲家チャイコフスキーが作曲し、現在でも世界中で愛されるバレエ音楽。劇中では、少女クララが夢の中で大冒険する姿がファンタスティックに描かれている。

 クリスマス・イブの夜。少女クララは、ドロッセルマイヤーおじさんからプレゼントされたくるみ割り人形を枕元に置いて眠りにつく。時計が零時を告げると、クララは夢を見る。夢では、自分の体がくるみ割り人形と同じ大きさになっていた。驚いているのも束の間、ねずみの軍隊が攻めてきていることに気付き、対抗するためおもちゃの兵隊たちと一緒に戦う。策をめぐらしなんとかねずみの王様を倒すことが出来たクララ。その時くるみ割り人形が立派な王子の姿に変わっていることに気づく。王子はねずみの王を倒してくれたお礼に、クララをお菓子の国へ案内する。お菓子の精たちに歓迎された二人は、パーティをしながらみんなで楽しい時間を過ごした。目が覚めたクララは、それまでの出来事が全て夢だったことを知る。しかし、クララの中には幸せな気持ちがいつまでも残った。

 「花のワルツ」は、そんなクララと王子がお菓子の国を訪れた時に、お菓子の精たちが二人を歓迎して踊ってくれる群舞を表現した曲だ。愉快な三拍子が紡ぐ幸せな調べは、クララと王子だけではなく、現代を生きる人々の心をも掴み続けている。そのくらい有名でもあり、忘れられないほどの幸せを届けてくれる作品だ。

 中学二年生の時、律たちは全国学生ギターコンクールの中学生の部で金賞を受賞した。曲目はクラシックギターの三重奏用に編曲された「花のワルツ」。初めてのコンクールだったが、不思議と緊張はなかった。ただ今でも覚えているのは、まだ三人で弾いていたいという飢えに似た感情。一人では決して味わえない感動。三重奏ならではの魅力を初めて知った日でもあった。

 第二音楽室の真ん中に並べられたままになっていた合奏用の椅子を三脚、それぞれ三角形の頂点となる位置に並べる。座面のホコリを払い、椅子の前に足台を設置する。ギターケースからクラシックギターを取り出し、椅子に座る。ギシギシという音が少し耳障りだったが、手短なところに椅子があっただけでもマシだ。左足を足台に乗せ、膝の上にクラシックギターを構える。あらかじめギターケースから取り出し、クラシックギターのネックの頂点に取り付けていたチューナーで音のずれを直す。弦を弾いた時の音に少し違和感を感じ、自分の爪の状態を確認する。案の定、人差し指の爪が若干欠けていた。爪やすりを取り出し、やすりがけを始める。目の粗いやすりで大まかに削った後、目の細かいやすりで微調整する。もう一度弦をかき鳴らす。凸凹だった音が均一になった。よし、こんな感じでいいだろう。律は自分の指に落としていた視線を左に向ける。

 奏はチューニングをしていた。六本ある弦のうち、低い音が出る六弦から順に音の調整をしていく。ふと磨き上げられた奏のクラシックギターが目に入る。奏が日頃からどれだけ大切にしているかが一目見てわかるほど、指紋一つなく綺麗だった。チューニングを終えたのか、視線を空に向け一度息を吐き呼吸を整えた奏が律の方を向く。軽く頷いた奏に向け、律も目で頷き返す。

 後ろから風が吹く。振り向くと鈴が律に微笑んでいた。こちらももう準備は整っているようだ。律は軽く頷き、セットポジションを取る。

 つかの間の沈黙。屋上には三人だけ。窓の外に広がる青空。吹きつける初夏の風。飛び交う鳥たちの声。自然というとばりに身を落ち着ける。

 律と奏は鈴の方に視線を向ける。鈴も二人の方を向く。

 ワン、ツー、スリー。心の中でカウントし、鈴のスッという短く吸う息の音を合図に、三人の音が重なる。三重奏の開幕だ。

 それぞれのポジションは、鈴がメロディーを担当するソプラノ、律がメロディーにハモる役割をこなすアルト、奏が曲全体を支えるリズムを担当する。

 今回の三重奏は、全員プライムギターと呼ばれる中音域をカバーする標準的なクラシックギターを使用して演奏している。

 クラシックギターにも色々と種類があり、高音域の音が出せるソプラノギターやアルトギター、低音域の音が出せるバスギターやギタロン等様々だ。複数の種類のギターを組み合わせることで、演出に華を持たせたり、重厚な音を出すことができる。つまり、演奏の幅を広げることができるのだ。また表現の選択肢も増えるので、同じ曲で様々な演奏のバリエーションを楽しむことも可能だ。そのため、重奏やオーケストラの醍醐味はその魅力を直に感じられることともいえる。

 では、今回のように標準的なプライムギターのみの重奏じゅうそうは、異なるギターを組み合わせた重奏よりも質や演出が劣ってしまうのかというとそうでもない。同じ音域のギターが複数あることで音の重厚感が増し、統一感のある安定した演奏が可能だ。また、同じギターを使っているという連帯感が生まれ、それがそのまま一緒に演奏する者同士の心を繋ぐことになる。重奏は一人で弾く独奏どくそうと違い、チームプレーが命だ。一緒に演奏する仲間が奏でる音を常に意識しながら、最大限のパフォーマンスをしなければならない。呼吸一つとっても周りに合わせないと、簡単にリズムが崩れてしまい演奏が崩壊してしまう。非常にデリケートな立ち回りを要求される演奏形態ではあるが、それを上回る魅力がある。独奏しか知らなかった律だが、三重奏を通して重奏の魅力や楽しさを知ることができた。そして呼吸をしながら演奏することの大切さを知った。どれも重奏を経験しなければ得られなかった大切な学びだ。

(懐かしい三拍子だ)

 律の左で奏が楽しそうにリズムを刻んでいた。軽やかで少しやんちゃなリズムかと思いきや、時折のぞき見える安定感のある確かなリズム。行動的で危なっかしいところがありつつも、そこには必ず誰かを守るための芯の通った理由がある。昔から奏は奏のままだな。幼馴染の奏でる変わらない素直な音に、自然と頬が緩む。

 楽しい音律のワルツが繰り広げられる。

 妖精たちが腕を組んでスキップしている。

 リズミカルな愛らしい足音がこだまする。

 色とりどりの花は降り止むことなく、クララと王子を歓迎している。

 華やかさを兼ね備えつつも、それを包み込むような温かさを感じる。この温かさを律は誰よりも知っていた。

 自分の音を鈴のメロディーに重ねる。律の正確で繊細な音が、鈴の大胆で華やかな音と素直に合わさり輝く。

(ああ、この感覚だ)

 律は久しぶりの感覚を噛み締める。

 物怖じしない華麗な指さばきと見る者全てを惹きつける圧倒的な存在感。誰もが魅了される大胆で華やかな表現。律が他の誰よりも聞いてきた音。そして、かつて憧れ、羨み、妬んだ音。

 『朝比奈鈴』の音。

 曲のフレーズが切れる。鈴と目を合わせ、呼吸を合わせる。再び流れ出した音の波は、勢いよくどこまでも流れていく。

 行き着いた先は湖だった。小さな小舟が浮かんでいた。小舟の上には腰掛ける二人の姿。律は不安そうな顔で鈴を見つめていた。そんな律に鈴は優しく微笑む。

「ただいま」

 律の瞳から一筋の涙がこぼれ落ちる。

 鈴が帰ってきた。

 次々と溢れる涙を手の甲で拭い、俯いていた顔を上げる。

「おかえり」

 輝く涙の跡には、晴々しい微笑みが添えられていた。

 

「わあー、三重奏、すごく楽しかったー!」

 奏が両手を上げ大きく伸びをする。

「まるで中学生の頃に戻ったみたいだった。鈴も律もさすがね。長年コンクールで鍛えてきただけあるわ。というか、律の中盤のリード、すごく良かったよ。さすがは鈴のライバル! ……どうしたの? 泣いてるの?」

 奏に顔を覗き込まれて我に返った律は、いつの間にか演奏が終わっていたことに気づく。そして顔が涙で濡れている感覚が事実だと知り、ギターを抱えながら焦って袖で顔を拭く。

「……泣いてない」

「まったく……素直じゃないのは相変わらずね」

 しょうがないなといった感じで、奏は軽く手を腰に当てる。

 不意に律の足元に影が落ちる。

「律、大丈夫かい? これ、使って」

 鈴がそばでハンカチを差し出してくれていた。

 律は差し出されたハンカチを、両手で鈴の手ごと包む。鈴が驚いたように目をみはる。

「律?」

「認めるよ、鈴。俺はお前より弱い。俺は、お前にはもう一生勝てない。勝てなくていいと思ってる」

 必死に堪えようと格闘したが、ダメだった。溢れる涙を払うこともなく、鈴の顔を見上げる。

「俺は……お前が羨ましかった。俺より後にクラシックギターを始めたのに、俺より先にどんどん上手くなっていくお前が羨ましかった。クラシックギター部でも周りから信頼されていて、部長としてしっかり部をまとめ上げていて……。鈴には敵わないと思った。俺とお前とで一体何が違うんだろうと何度も思った。答えが得られないままも鈴との勝負は続いた。けど、ある時を境に鈴への憧れの気持ちが、憎しみに変わった。あの冬のコンクールでお前がわざとミスをして俺を勝たせた時だ。コンクールの後、俺は鈴を問い詰めた。あの時は頭に血が上って、何か言いかけるお前のことが全く見えてなかった。そして逃げ出したお前を追って……お前は事故に遭った」

 律の告白に鈴も奏も静かに耳を傾けていた。律は言葉に力を込める。

「今日の三重奏でやっと分かった。お前がコンクールでミスをした理由。俺を勝たせようとしたんじゃなく、本当のミスだったんだよな? ミスをしない余裕がないほど、お前も苦しんでいたんだよな?」

 律は唇を噛み締める。

「俺はお前を苦しめていた。俺が憎しみにさいなまれていたのを、お前が気付かないはずはない。それに俺は気づけなかった……。そしてその後も気づかずに憎み続けた俺は本当にバカだ。本当にすまなかった」

 律は深く頭を下げる。そしてそのままの姿勢で言葉を続ける。

「今さら謝ったってどうにもならないことは分かってる。許されなくてもいい。でもどうか俺の今の気持ちだけは受け取って欲しい」

 言うはずのなかった懺悔にも似た言葉が、律の口から紡がれる。

「また一緒にギターを弾くことができて、また会うことが出来て本当に嬉しかった。……ありがとう」

 やっと口に出来た言葉は、小さく震えていた。涙で視界が滲み、鈴の顔が見えない。

 でも何故か律には、鈴がいつものように柔らかく微笑みかけてくれている気がした。

 不意に後ろから抱きつかれる。背中から嗚咽を漏らしたようなくぐもった声が聞こえる。

「いつまで泣いてるの……。律のくせに……」

 涙声の奏の言葉に頬を緩める。奏には辛い思いをさせた。それでもずっと律を思い続けてくれたことに心から感謝する。

(ありがとう、奏)

 今なら言える気がした。もう逃げない。あの時、拒んでしまった鈴の手を掴むために。ライバルとして受けて立たないわけにはいかない。

「鈴、もう一度、勝負してほしい」

 やっと時間を巻き戻せた。律が向き合うべきだった時間。あの時は苦痛でしかなかった時間が、今は過ぎ去るのが耐えられないほど愛おしい。

「もちろんだ、律」

 鈴が律の手を握り返してくれる。

 そばでは奏が笑っているのか泣いているのか分からない顔を浮かべていた。

 窓から見える青空には、太陽の光が燦々と輝いていた。




 

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