第11話 幼き日・その1(奏の回想)
律とは小学生からの幼馴染だ。小学三年生の時に奏が通う小学校に転入してきた。
「初めまして。
小学生としては少し硬めの自己紹介をする無愛想な転入生の第一印象は、お世辞にも良いとは言えなかった。他の子も奏と同じように感じたのか、クラスからまばらな拍手が送られる。担任の先生も少し困ったような笑みを浮かべながら、律を自席に座るよう促す。律が奏の右斜め前の席に座る。早速授業が始まる。新しい転入生が醸し出す話しかけづらい雰囲気をよそに、この子が他にどんな表情を見せどんな考えを持つ子なのか、奏は気になっていた。
案の定、休み時間になると、律の席の周りには多くの児童が集まった。自己紹介の時と同じく、律のクールな受け答えが聞こえてくる。輪の中に入らなかった奏は、すぐそばの自席から律の様子を伺っていた。やっぱり見た目通りなのかなと思っていると、いきなり輪の中が盛り上がった。
「えっ! 律くんってギター弾けるの? すごーい!」
ギター? ギターってあのギターだよね?テレビに出てる有名人がマイクの前で歌いながらよく弾いてるやつ。
「ギターってあのギターでしょ? 有名人が歌を歌いながら弾くやつ。」
自分と同じことを思ったのであろう男児クラスメイトが言う。
「うーん、歌いながら弾く人もいるにはいるけど、ソロで弾くのが普通かな。そうか、ギターって聞くと普通フォークギターの方を想像するよね。そうじゃなくて、弾けるっていうのは、フォークギターじゃなくてクラシックギターのことだよ」
「ふぉーくぎたー? くらしのぎたー? それって何?」
「フォークギターとクラシックギター。えーっと、それはね……」
律がクラスメイトたちへの説明を始める。奏も初めて聞く言葉ばかりだったので、律がこれからする説明が気になった。そんな時、授業開始のチャイムが鳴る。
「あ、授業始まる!」
「先生来るぞ! みんな早く座ろう!」
律の周りにあった人だかりが、瞬く間に無くなっていく。
残された律の手には一冊のノートが握られていた。開かれたノートの中にはびっしりと文字が書かれていた。
「せっかく説明しようと思ったのに……」
律の様子を見ていた奏だったから、その小さな呟きが聞こえたのかもしれない。
帰りのホームルームが終わり、クラスメイトたちが続々と教室を出ていく。
ランドセルを背負い、一人帰ろうとしていた背中に声を掛ける。
「あの、お願いがあるんだけど」
少し緊張気味の奏の声に律が振り返る。少し癖っ毛の髪の毛が目にかかるのを、手で鬱陶しそうに払いのける。切長の目が自分を見つめる。
「誰?」
「
「お願いって何?」
言葉はぶっきらぼうに聞こえるが、声自体は自己紹介をした時と変わらず落ち着いていたので、少しホッとする。
「さっきのギターの説明、教えて欲しいの」
「さっきのギターの説明って、何のこと?」
「だからさっき休み時間に話そうとしてた、ふぉーくぎたーとくらしのギターのこと」
「ああ、休み時間の時のやつか。いいよ」
「本当?」
「うん。あ、ちなみにくらしのぎたーじゃなくてクラシックギターって言うんだよ」
「クラシックギター。なんか言うの難しいね。でもちゃんと覚える。ありがとう」
奏の言葉に律が驚いたように目を丸くする。
「どうしたの?」
「いや、ちゃんと覚えるって言ってくれたの、君が初めてだから。ちょっとびっくりしただけ」
「そうだったんだ。えーと、じゃあ今日教えてもらってもいい? ギターのこと」
奏が質問すると、律がばつが悪そうに頭を掻きながら謝る。
「あーごめん。明日でもいい? 今日帰ってすぐ習い事があるんだ。だからもう帰らなくちゃ」
「そうなんだ……。あの、習い事っていつ終わるの?」
「三時からだから四時には終わると思う」
「習い事ってどこでやるの?」
「駅近くのビルの二階」
「駅近くか……」
駅の近くには病院がある。もしかしたら律を連れて一緒にお見舞いに行くことができるかもしれない。
「四時だったらまだ間に合いそう。習い事終わったら、駅で待ち合わせしてもいい? 実は一緒に行きたいところがあるの。そこでギターの説明してほしい」
「駅? う、うん。別にいいけど……」
「ありがとう。じゃあまた後でね」
状況が分からず怪訝そうな顔を浮かべる律を残し、教室から勢いよく飛び出す。
やった! 転入生の律が一緒に来てくれれば、きっと喜んでくれる。ギターの話、たくさんしてもらおう。奏は頭の中で、微笑みを浮かべる幼馴染の顔を思い描く。
「楽しみにしててね、
午後四時を五分ほど過ぎた頃、律は現れた。先ほど学校で会った時とは違い、背中に大きなものを背負っていた。
「お待たせ」
「ねえ、律くん。それ、なあに?」
「ああ、これ? ギターケース。今までギター教室でレッスンがあったんだ」
「じゃあ、この中にギターが入ってるの?」
「そう」
「へえ、なんかすごい」
奏から思わず漏れた感嘆の声に、律は恥ずかしそうに顔を背ける。
「別にすごくなんかないよ。こんなの練習すれば誰でも弾けるようになるよ」
「本当?」
「うん」
「そっかぁ……」
練習すれば誰でも弾けるようになるというならやってみたい。自分も律のようにギターケースを背負って歩いてみたい。奏のギターに対する興味は高まりつつあった。
「ところで、これからどこに行くの?」
「あ、そうだった。一緒に病院行こう!」
「病院? 奏、どこか怪我してるの?」
律の口から自然と呼び捨てにした奏の名前が出てくる。会ってからまだ数時間しか経ってないのに、一気に距離が縮んだような気がする。奏も同じように答える。
「私じゃなくて、友達が怪我しちゃったの。だから私と一緒にお見舞いに来てほしいの。ギターが弾ける律が来てくれたら、きっと友達も喜ぶと思う」
「そうだったんだ。喜んでくれるなら、お見舞い付き合うよ」
「ありがとう。じゃあ病院まで案内するね」
奏は嬉しそうに微笑み、律を連れて病院へ向かい歩き始めた。
駅から病院までの道のりは短かった。五分ほど歩いたところに、目的の建物が見えてきた。初めて来た時は、学校みたいにたくさん並んだ窓から何かが出てきそうで怖い印象があったが、今はすっかり自分の中に馴染んでいる。
エントランスを抜け、そのままエレベータに乗る。途中、大きなギターケースを背負った律をじろじろと見てくる人が何人かいたので律のことを心配したが、当の本人は何も気にすることなく、静かに奏の後を付いて歩いていた。
エレベータが七階で停まる。慣れた道順で目的の病室まで歩を進める。しばらくすると、一つの部屋の前に辿り着いた。病室前の室名札には六人分の名前が書かれていた。その中の一つの名前に軽く目を止める。そして奏は気負うこともなく自然にドアを引く。
蛍光灯の明るさに負けないくらい、日が暮れて行く前のオレンジ色の淡い光が、病室の中に注がれていた。病室のそれぞれのベッドでは、テレビを見たり本を読んだり、見舞い客と楽しそうに話している患者たちの姿があった。奏は彼らを通り過ぎ、一番窓際のベッドに近づいていく。そこには自分たちと変わらないくらいの少年がいた。少年は窓から夕焼け空を見ていたようだ。奏たちの足音に気付き、窓から振り返る。
「奏! どうしたの? いつもより遅かったね。今日は来てくれないのかと思ってた」
明るい色の丸い瞳が安堵したような色を浮かべる。入院してから少し痩せたように見えるが、いつも通りの鈴の様子に安心する。
「ごめんね、鈴。その代わり、『すぺしゃるげすと』を連れてきたよ。今日転校してきたばかりなの」
「『すぺしゃるげすと』?」
そう言って鈴は、奏の少し後ろに立つ人物に目を向ける。
「えーと……」
「常盤律。律でいいよ」
奏が紹介する前に、律が自分で自己紹介する。鈴は一瞬目を見開いた後、すぐに笑顔を浮かべ、律に手を差し出す。
「僕は
鈴と律がお互いに握手を交わす。そして律は視線を鈴の足へ向ける。
「足、痛い?」
鈴の右足は、膝から爪先までを包帯でぐるぐる巻きにされていた。その足を手でさすりながら、鈴が答える。
「ううん、もう痛くないよ。でももう少しリハビリしないと、ちゃんと歩けるようにならないみたいで。まだ入院してないといけないんだ」
「そうなんだ。どうして怪我しちゃったの?」
「それは……」
「跳び箱から落ちたんだよ!」
奏が律と鈴の会話に突然割って入る。鈴のベッドに腰掛けながら続ける。
「体育の授業の時、鈴が跳び箱六段に挑戦したんだけど、失敗して落ちちゃったの。ちなみに私は六段飛ぶの成功したよ」
「ちょっと奏、そんな風に言わないでよ。女子に負けたなんてカッコ悪いじゃん」
「えへへ……」
悪びれもなく、奏が楽しそうに笑う。鈴はそんな奏をうらめしそうに見やる。その様子を見ていた律が口を開く。
「跳び箱六段にチャレンジするなんて、鈴はすごいね。失敗しちゃ ったかもしれないけど、ギターと同じように練習すればきっと飛べるようになるよ」
律の言葉に鈴は感激したように喜ぶ。
「ありがとう、律。そう言ってもらえてすごく嬉しい。次も頑張るよ」
律に笑顔を向けながら、鈴は律の背負っているギターケースに目を向ける。
「あの……それってギターケースだよね? すごく大きいけど重くないの?」
「ちょっと重い」
そう言って律は背負っていたギターケースを床に置く。
「律はギター弾けるの?」
「うん」
「わぁ、すごい!」
「別にすごくなんかないよ。こんなの練習すれば誰でも弾けるようになるよ」
奏に言ったのと同じ言葉で、律は鈴に答える。奏がベッドから身を乗り出す。
「ねえ、律。ギター見せて」
「いいよ」
律が黒色のギターケースを開ける。中から現れた本格的な楽器に、奏も鈴も「わぁー」っと声をあげる。学校の音楽の授業でピアニカやリコーダーしか使ったことのない奏たちには、鈴のギターがまるで海賊が隠した大きな宝物のように見えた。
「すごーい! 本物のギターだ! すごいすごい!」
「ピカピカしててすごくカッコいい! これがギターか……」
奏と鈴は目を輝かせながら、律のギターに釘付けになっていた。律は二人の様子を見て、少し得意げになる。
「これはクラシックギターって言うんだ。フォークギターと違って、弦にはナイロンが使われているんだ」
そう言って律は六本あるギターのうち、一番左側の弦を慣らす。ボーンという低い音が病室に響き渡る。同じ病室にいた他の患者さんたちの視線が、律たちに集まる。鈴は慌てる。
「ちょ、ちょっと律! ここ、病院! ご、ごめんなさい!」
鈴が周りの大人たちに対して頭を下げる。相手が子どもだからか、大人たちはしょうがないなというような微笑みを浮かべながら、また元の姿勢に戻る。
「ふう。もう、いきなり音鳴らすからびっくりしちゃったよ」
「でもそんなに大きな音じゃなかったね?」
「そう言われればそうかも……」
奏と鈴が不思議そうに首を傾げる。その疑問に律がまた自慢げに答える。
「それはさっき言ったように、クラシックギターにはナイロン弦が使われているから。ナイロン弦は柔らかいからそんなに大きな音が出ない。対してフォークギターには金属弦が使われているから硬くて大きな音が出るんだ。フォークギターは弾き語りする人が弾いてるのをよく見るかな。バンドでドラムとかと一緒に使われているのがエレキギター。クラシックギターやフォークギターといった電気を使わないで音を出すアコースティックギターと違って、エレキギターは電気の力で音を出すギターなんだ。だからアコースティックギターよりももっと大きな音が出るんだよ」
律の口から次々と出てくる知らない言葉の波に、鈴と奏はポカンとした表情を浮かべる。二人の顔を見て、律が申し訳なさそうな顔をする。
「ごめん。いきなりこんなに話されても分からないよね」
律が気まずそうに顔を俯ける。「どうしたの?」と奏が声を掛けようとした時、さっきのギターの音とは比べ物にならないほどの声が響く。
「律ってすごい!」
奏は驚いて声がした方を向く。鈴は周りに「あ、大きな声出してごめんなさい」と頭を下げた後、身を乗り出して律に言う。
「ギター、本当に詳しいんだね。ギターの博士みたい。すごくカッコいい!」
「でしょ? 私がスカウトして連れてきたんだよ! どう? 見る目あるでしょ?」
「どうして奏が自慢するんだよ……」
腕を腰に当てて胸を張る奏に、鈴は呆れたようなため息をつく。
律は驚いた表情を浮かべた後、恐る恐る口を開く。
「どうして……。どうして鈴も奏もギターの話聞いてくれるの? 自分が知らないことたくさん話されて嫌にならない?」
嫌になる? どうして律はそんなこと聞くのだろう? 頭の隅で一瞬疑問に思いながらも、奏は素直に答える。
「嫌になるわけないよ。だって今日は律にクラシックギターとフォークギターのお話してもらいたくて、私がお願いしたんだもん。律、ギターのことすごくよく知ってるから、鈴と一緒に話聞いてみたかったの。鈴も律の話、面白いでしょ?」
「うん! すごく面白い! 弦の種類によって出せる音の具合が違うのも、電気を使って音を出すギターがあるのも初めて知った。僕が知らないことを、同い年の子が詳しく知っていて、それを先生みたいに教えてくれるのがすごく嬉しい。ありがとう」
「ねえ、もっと教えてよ。ギターのこと!」
もっと知りたい。教えてほしい。奏の頭の中には、ギターに対する興味に溢れていた。それは鈴も同じようで、目をキラキラさせて律の言葉を待っている。
「うん! もちろん!」
律の顔に初めて咲いた笑顔に、奏も鈴も嬉しそうに笑った。
子どもたちの会話が盛り上がっていくのとは裏腹に、病院の看護師さんや患者さんの目が鋭く感じられるようになってきた。奏たちは場所を変え、病院内にあるという中庭に出た。赤いタイルが敷き詰められた道の脇には花壇があり、色とりどりの花が咲いていた。等間隔に植えられたカエデモミジの木々が風に揺られている。これから少しずつ赤く色づいていくのだろう。木と木の間には木造りのベンチが置かれていた。手作りらしい雰囲気が、中庭の空気をより自然に和やかにしているようだった。
鈴に連れられた奏と律は、いくつかあるベンチのうちの一つまで歩いてきた。松葉杖を使う鈴を助けるように奏は鈴と一緒にベンチに腰を下ろした。このベンチの近くには切り株のようなイスもあり、律はこちらに腰を落ち着かせる。
中庭には奏たち以外誰もいなかった。もうすぐ日が暮れるためか、いつも散歩で賑わっている空間はひっそりと静まりかえっていた。
夕方の涼しい風が奏の髪を撫でる。鈴は座ると同時に律に顔を向けた。
「ねえ、律。律がギター弾いてるところ見てみたい」
「あ、私も見たーい! 律、弾いて弾いて!」
「ここで? まあ、いいけど」
鈴と奏にいきなりギターを弾いてほしいとお願いされた律は最初戸惑ったような表情を浮かべたが、すぐに背負っていたギターケースを下ろし、ケースの中から次々と物を取り出し始める。
最初に出てきたのは、短い鉄の棒をクロスにしてその上に鉄の板を貼ったようなもの。思わず質問する奏。
「律、これ何?」
「
続いて律はケースからクリップが付いた小さな機械を取り出す。そして、ギターのネック上部にクリップ部分をはめる。ここでも奏が質問する。
「それはそれは?」
「チューナー。これを使って音をチューニングするんだ」
「チューニングって?」
「音を合わせるための道具じゃないかな? 確か音を出しながら、音のズレを確認するんだよね? 音楽部の友達が音を合わせるのに使ってたのを見たことがあるんだ」
律の代わりに鈴が答える。鈴の答えに律が感心する。
「よく知ってるね。そうだよ。こうやって音を出しながら、その音がズレていないか確認するんだ」
律が弦を弾くと、チューナーの針が大きく左右にふれ、やがて中心よりやや右のメモリに落ち着く。
「チューナーの針が少し右を指してるってことは、音が少し高いってことなんだ。だから弦を少し緩めて音を低くする必要がある」
律はギターのネック部分左右にあるつまみの一つを時計回りに回す。そしてもう一度弦を鳴らすと、チューナーの針は真ん中を指し緑色に光った。奏が声をあげる。
「あ、緑色に光った!」
「この状態になればもう問題なし」
他の弦も同じようにチューニングする律。チューニングを終えると、今度は爪やすりを取り出して指の爪を削り始める。
「次は何してるの?」
「ギターは爪が命。爪の状態で音がすごく変わるんだ。だから良い音を出すために、こまめな手入れは大事」
「へえー。ギター弾く前って、いろいろ準備が必要なんだね!」
奏は何故だか興味深そうに、律の動きを見ている。鈴もうんうんと頷く。
「僕も知らなかった。ギター弾く人はみんなこんなに努力してるんだね。本当にすごいや」
鈴の言葉に律が少し照れたように笑う。
「そんな風に言われると照れるな」
その時、地域で帰宅を促すための、五時を知らせるチャイムが鳴る。東京でも区によって違いがあるようだが、奏たちの住む地域では季節問わず毎日五時になると、防災無線を使ってみんなが知る童謡が聞こえてくる。
「あ、もう五時になちゃった。鈴、お見舞いって何時までだっけ?」
「確か五時まで。だから今日はもう戻らないと。せっかく準備してもらったのにごめんね、律。また今度……」
「何言ってんの? せっかく準備したのに弾かないわけないでしょ?」
律の指が音を奏で始める。
「ちょ、ちょっと律」
「少しぐらい大丈夫だよ、鈴。一緒に聴こう?」
しばらくすると真面目な鈴も観念したように、律の演奏に聴き入る。
中庭にクラシックギターの柔らかい音が広がる。優しい響きに心がうっとりとする。懐かしさにも似た離れがたい感覚に、奏は夢中になっていた。
律はギターを愛おしそうに抱いていた。その姿はまるでお母さんが赤ちゃんを抱っこしているようだった。だからこんなにも温かく感じるのか。心が満たされるような感覚。今まで体験したことのない感覚が心地良くて、いつまでもこのままでいたいと、そう思った。
ふいに横に座る鈴を見やると、その目から涙が溢れていた。奏は焦って鈴に声を掛ける。
「鈴、どうしたの? どこか痛いの? 大丈夫?」
奏の心配そうな声が律にも届いたのか、鈴の様子に気づき、演奏を止め鈴を気遣う。
「鈴、どうしたの? 演奏、良くなかった?」
律の言葉に、鈴は慌てて頬から伝う涙を拭う。
「あ、いや。律の演奏、すごくよかったよ。途中で止めちゃってごめん。聴かせてくれてありがとう」
「本当に良かった? 何か気に触ることでもしたんじゃ……」
なおも心配そうな顔をする律に、鈴は向き合う。
「違うんだ。律のギターの音があまりにもあったかくて……。いつも寒くて暗いこの場所に日の光が差したんだ。そしたらすごく嬉しくなって、それから涙が出て……。ごめん、嬉しいのに涙が出るなんておかしいよね」
恥ずかしがる鈴に、律が真剣な表情で言う。
「おかしくなんかない」
「え?」
「寒くて暗いこの場所があったかくて明るい場所に変わったんだよ。泣くほど嬉しいに決まってるじゃん」
律が笑顔を鈴に向ける。鈴も笑みを返す。
「そっか、そうだよね」
「はあ〜よかった。鈴に何かあったのかと思って焦ったよ」
奏が大きなため息とともに、ベンチの上で両手両足を広げ大きく伸びをする。
「ごめんね、奏。心配してくれてありがとう」
「まったくもー。ま、今回は律に免じて特別に許してあげる!」
奏と鈴のやりとりを見ていた律は、何かを決めたように二人に声を掛ける。
「ねえ、一緒にクラシックギターやらない?」
「え、僕が? 無理だよ。音楽なんてやったことないし」
「え! やりたいやりたい!」
「奏だって音楽やったことないでしょ?」
「やったことないけど、そんなの大丈夫だよ。だって律、練習すれば誰でも弾けるようになるって言ってたもん」
「奏の言う通り。音楽知らない人でも、練習さえすればすぐに弾けるようになるよ。分からないところは教えるから。だから、一緒にクラシックギターやろうよ!」
律の申し出に、鈴と奏は顔を見合わせお互いに頷き合う。答えはもう決まってる。
「わかった。クラシックギターやってみるよ。律がさっき弾いた曲を僕も弾いてみたい」
「私もやる! 律みたいにカッコよく弾けるようになりたい!」
「じゃあ、決まりね!」
沈んでいこうとするオレンジ色の光が、三人を優しく照らす。もうすぐ夜になる。暗くなってくる空とは反対に、三人の心の中には一際輝く月が強くも優しい光を放っていた。
涼しい風が奏の髪の毛をさらっていく。目を覚ました奏は、もう慣れたはずのアルコールのつんとした匂いに顔を
いつものように学校終わりに鈴のお見舞いに来て、鈴と話して(一方的に話しかけて)、いつの間にか眠ってしまっていたようだ。
空はすっかり暗くなり始めている。奏は急いで帰る支度をして、鈴に別れを告げ病室を出る。
病院からの帰り道、奏はまだ眠っていた時に見た懐かしい記憶の余韻に浸っていた。
奏はあの時からずっと律と鈴と三人で過ごしてきた。いつでも三人一緒だった。大人になっても、おじいさんおばあさんになっても、ずっとこの関係が続くと思っていた。
でも一人になってしまった。
人生何があるか分からないとはよく言ったもんだと思う。それでも一人は寂しい。
もう一度、あの頃に戻りたい。
もう一度、あの頃を取り戻したい。
神様、お願い。
どうか私の願いを叶えて。
神様の顔を分からないなりに思い浮かべたはずだった。
でも奏の心の中に浮かんだのは神様ではなく、奏に信じる勇気をくれた真白ジュリアの顔だった。
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