第2話 出会い
一年三組の教室を出て、一組と二組の教室の前を通り過ぎる。
廊下にはジュリア以外誰もいなかった。
同じ階の第一音楽室から聞こえる吹奏楽部の金管楽器や打楽器の激しい音を聞きながら、突きあたりの階段の方へまっすぐに向かう。
「もういい加減にして!」
何かを叩くような音と、女性だろうか、叫ぶような怒ったような声。
突如として聞こえた普通じゃない声に、階段を降りようと傾けた重心が不安定な姿勢のまま静止している。
手すりで体を支えながら、降りかけた階段から足を戻す。
後ろを振り返り、廊下を見渡す。
第一音楽室から聞こえる吹奏楽部の演奏はまだ続いている。
相変わらず誰もいない空間に首を傾げる。さっきの声は気のせいだろうか。
再び足を階段の方へ向けようとしたところに、耳が声を察知する。
「このままじゃ、誰もいなくなっちゃう! どうして分からないの?」
聞き間違いじゃない。確かにさっきの声だ。
第一音楽室の前を通り過ぎ、その奥にある第二音楽室と美術室の方へゆっくりと進んでいく。
どうやらさっきの声は第二音楽室から聞こえてきたもののようだ。教室の扉の窓から中の様子をそっと覗く。
中では、女子生徒が男子生徒に詰め寄り、怒った顔で怒鳴っていた。
「ねぇ、ちゃんと私の話聞いてる? なんとか言いなさいよ!」
「……」
怒鳴られている男子生徒は女子生徒から顔を逸らし、カーテンで閉ざされた窓の方を見ている。
上履きのラインの色は青。どうやら二人は三年生みたいだ。
(ちなみに森ノ熊高校では学年ごとに上履きのラインの色が異なっていて、一年生は赤、二年生は緑、三年生は青となっている)
女子生徒はしばらく男子生徒を睨んだ後、諦めたように顔を俯ける。
「…だから鈴に勝てないのよ」
「……何?」
ずっとそっぽを向いていた男子生徒が、弾かれたように女子生徒の方を向く。
女子生徒は顔を上げ、はっきりと言う。
「あんたは一生鈴には勝てないって言ったのよ!」
ガシャーンッ!!
気づいたときには、女子生徒の横に机と椅子が倒れ込んでいた。
いきなりすぎて、男子生徒が自分の目の前にあった机と椅子を蹴り倒したことに、ジュリアも女子生徒もすぐには気づけなかった。
「俺は鈴には負けない」
男子生徒は呆然とする女子生徒にそう言った後、ジュリアのいる扉の方へ向かってくる。
「わ、どうしよう!」
ジュリアは咄嗟に周りを見渡し、逃げられそうなところを探す。
第二音楽室の隣にある教室の扉が開いていたので、ひとまずそこへ避難する。
ひとまず気づかれずに済んだようだ。
男子生徒らしい足音は、規則正しく階段の方へ消えていく。
ジュリアは思わず胸を撫で下ろす。
「ああ、びっくりしたぁ〜」
「何がびっくりしたの?」
「うわあああ!」
いきなり目の前に現れた顔に腰を抜かす。
驚いて勢いよく尻餅を付いたジュリアは、遅れてやってきたお尻の痛みに顔を歪める。
「いたたたた……」
「えーと、大丈夫?」
「あの……ごめんなさい、ありがとうございます」
伸ばされた手を借り立ち上がる。
「いや、別に謝らなくていいよ。多分、謝らなきゃいけないのは俺の方だから」
「え?」
ジュリアは目の前の人物を見上げる。
緩くパーマがかかったようなふんわりした猫っ毛。切れ長の瞳の上に被さる重そうな瞼。学校指定の緑のネクタイをだらしなく結び、上履きのかかとは踏みつけられている。やる気のなさそうな雰囲気を醸し出している目の前の長身の男子生徒は、申し訳なさそうな顔には到底見えない力の抜けた表情でジュリアに謝る。
「ごめんね」
「あ、いえ、その……。私こそ急に押しかけてしまってごめんなさい」
「別にいいよ。どうせ今実働の美術部員、俺だけだし。……ところで、もう手は離してもいい?」
「わっ! ご、ごめんなさい」
ジュリアは、借りていた手をまだ握っていたままであったことに気づき、慌てて手を離した。
男子生徒は特に慌てた様子もなく、絵の具がこびりついた木の椅子に腰掛ける。そして、目の前のキャンパスに向かって筆をとる。
改めて室内を見渡す。
壁や机には絵の具やのりが飛び散ったような跡がある。棚の上には、石膏像やそれを模した作品が無造作に並んでいる。そして油を薄めたような独特の匂い。
(私が駆け込んだのは美術室だったのね……)
先ほどの男子生徒は、静かに筆を動かしていた。
なんとなく気になり、後ろからキャンパスを覗き込む。部屋に充満している油の匂いが一段と強く感じられる。
男子生徒が描いていたのは下書きのような、何かの形を画面に置いている途中のような、そんな感じのよく分からないものだった。こげ茶色の絵の具で大雑把な軌跡が次々と描かれていく。
「あの……何描いてるんですか?」
「人」
「ひと?」
「人間」
「人間……」
人間、と聞いた瞬間、ただの丸や四角の集合体が頭の中で変身を遂げていく。
そうか、人間。
ここは頭で、ここは腕。じゃあここは足。
待って、このポーズ……。なんだかどこかで見たことあるような……。
これはまさか……。
「もしかして……これって私?」
「よく分かったね、そうだよ。さっきの演技、すごくよかった。感動したよ」
「いやぁぁぁ〜〜〜〜!!」
教室での演技をばっちり目撃されていたらしい。
絶叫せずにはいられなかった。すごく恥ずかしい。
キャンパスと男子生徒の間に無理やり入り込み、男子生徒の作業の手を無理やり妨害する。
「どうか、さっき教室で見たことは忘れてください。そして絵を描くのもやめてください」
「どうして?」
「それは……こんな未熟者の演技を絵に描いても、あなたの絵の価値を下げてしまうだけです。それでもいいんですか?」
「別にいいよ。まあ、絵の価値なんて描く題材によって左右されるものでもないし、俺には関係ないけど」
「いいえ、大事です! 私の残念な演技ではなく、演劇部のもっと実力のある方の演技を描いた方が絶対いいですよ!」
「え、君も演劇部員でしょ?」
「私は演劇部員じゃないです。帰宅部です」
「え、そうなの? 帰宅部だと思えないほど、演技が洗練されていて、美しいと思った」
「う、美しい!?」
「うん。だから、描きたいと思った。君を」
「え……」
男子生徒の瞳がジュリアの瞳をまっすぐ見つめてくる。
さっきのやる気のない表情とは一転、切れ長の眼差しに真剣な光を宿した表情が向けられている。握られた手とあいまって、だんだんと心臓の鼓動が早くなる。
この人、一体何なの?
「あの……えっと……。私は、そういうのは、まだ……」
「あ、ちなみに俺、
「へ?」
「いや、自己紹介がまだだと思って」
「……」
本当に何だろう、この人。
さっきまでの熱が一気に冷めて、急に寒気を感じ始めたジュリアは、握られた手を離し左右の腕をさする。
「どうしたの? ひょっとしてこの部屋、寒い?」
「あ、いえ……。何でもないです。私は
「よろしくね、ジュリア」
「ジュリア!? どうして下の名前言ってないのに、私の名前知ってるんですか?」
「一年三組の真白ジュリアでしょ? 同じクラスだから知ってるに決まってるじゃん」
「同じクラス……?」
「そうだよ」
知らなかった……紗月くんも私と同じく三組だったんだ。
確かに上履きのラインの色は赤。一年生の証だ。
入学から約一ヶ月。お芝居とか演劇部のこととかばっかり考えてて、全然クラスの人のこと、覚えられていなかった……。
「ごめんね、紗月くん。私、物覚え悪くて、紗月くんのこと、全然知らなかった」
「別にいいよ。俺、いっつも授業中は寝てるし、昼休みと放課後はほとんど美術室にこもりきりだから、ジュリアが覚えてないのもしょうがないかも」
「そっか……。っていうか、どうして苗字じゃなくて、ジュリアって呼び捨てするの?」
「え、ダメなの?」
「ダメっていうか……今日初めて話したような人にいきなり下の名前で呼ばれるの、何だかびっくりするというか、すごく恥ずかしいっていうか……。とにかく苗字で呼び合うのが普通じゃない?」
「そう?」
「うん、そう!」
「そっか。でも、俺、普通なのはあまり好きじゃないから、やっぱりジュリアって呼ぶよ」
「……」
普通が好きじゃないってどういうこと……!?
いや、そういうことは置いといて、言い返さないと!
「あの! ……って、あれ?」
紗月がいない!
今さっきまで目の前にいたはずなのに!
ジュリアは再び美術室を見渡そうとして一歩踏み出そうとする。しかし、足が動かない。
え?っと思い視線を下に向けると、紗月が寝ていた。しかも、どこから持ってきたか分からない枕を抱えている。
「どうして今ここで寝るの!?」
叫ばずにはいられなかった。ジュリアの悲鳴に似た問いに、奇跡的に答えが返ってくる。
「昨日……あまり……寝られなくて……。眠く……なちゃった……。だから、寝る……。じゃあ、また明日ね……」
ここで寝るなら、もう家に帰ってから寝た方がいいと良いと思うよ……。
喉元まで出かかった言葉を出すのも何故か億劫に感じ、ため息に変換して吐き出す。
美術室から出たジュリアは、途端に少しよろける。
この疲労感は一体何だろう?
これから家に帰るなんて……。果たして帰れるだろうか……。
ジュリアは今日、なぜか、ものすごく、ありえないほど、疲れていた。
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