第1章
第1話 真白ジュリア
「ああ、姫よ……。どうかこの手を離して。あなたは行かなければ……。さあ、早く。私があなたを一生愛さずにはいられなくなってしまう前に!」
「嫌、この手は絶対離さないから! だから……私を愛して! 一生そばにいて……!」
「はい、カーーーット!」
ステージ上に立つ男女二人の間に、丸めた台本を片手に持った上級生らしき女子生徒が割って入る。中世風の豪華な衣装ではなく、学校指定のジャージに身を包んだ男子生徒と女子生徒は、少し疲れたように背中を丸めながら、監督っぽい女子生徒の話になんとか耳を傾ける。
さっきまでピンと張り詰めたような空気が緩み、騒がしさが戻ってきた。その様子を見て、自分も呼吸を再開する。息を止めていたわけではないのに、空気を吸うのがすごく久しぶりに感じる。
どうしてもお芝居を見てると、いつも絶対別世界にタイムスリップしてしまう。そして時間を忘れ、約束を忘れ、寝食を忘れて……しまいには家族や友達に怒られる。これだけは気をつけようとしてもどうしようもならない、自分の悪いところだ。
授業から解き放たれた放課後の時間。みんなが好きなことをする時間。好きなことが許される時間。
塾とか家事でそれが叶わない人もいるだろう。でもそうした人も、時間がないだけで、時間さえ作れれば、好きなことをすることができる。
でも、私は違う。
スカートの裾をギュッと握りしめる。
時間があっても、できない。技術や能力があっても、できない。
どんなに望んでもできないのに、望んではいけないのに……。
「ついに入部する気になった?」
「はいぃぃぃ!」
突然後ろから掛けられた声にびっくりして、声が変な方向に裏返る。
振り向くと、さっきステージの男女に割って入っていった監督っぽい女子生徒が嬉しそうに笑みを浮かべていた。
「おおお! やっと決心してくれたのね! ようこそ演劇部へ!」
どうやらさっきの悲鳴が「はい!」という元気な承諾の回答に聞こえてしまったようだ。
「あ、あの、いや、そうじゃなくて……」
反論も虚しく、両手を取られ強く握りしめられる。
「もう〜! 入学してから一ヶ月間、毎日こうも演劇部の練習を覗かれたんじゃ、気にしないわけにはいかないでしょ? いつも私が話しかけようとするとすぐにいなくなっちゃうから、今日はフェイントをかけてみたの。あんな感じにね」
女子生徒が視線を向けた方向に目を向ける。ステージの上を見ると、今、目の前にいる女子生徒と同じ姿形をした人物が、相変わらず男女の生徒と話をしている。
あれ? これは一体どういうこと……? この人は双子なの? いや、違う。
よく見ると、ステージの上の女子生徒の髪型や服装は同じだが、なんだかスカートから伸びる脚にしっかりと筋肉が付いていて、体格が目の前の女子生徒よりがっしりしているような気が……。
「……男性ですか?」
「当ったりー! 休憩入ってすぐに入れ替わったの。髪はカツラ
「……」
女子生徒はジュリアの手を離し、ステージに向けて手を大きく振る。
山本と呼ばれた男子生徒は女子生徒のこの言葉を待ち侘びていたかのように、こちらに向けて軽く頭を下げた後、すぐにステージから
逃げるなら今しかない! この人は、危険だ!
頭の中で判断するよりも早く、身体が勝手に外を目指して動き始める。
「あ、待って! 説明がまだ……」
「ごめんなさい! さっきのは誤解です。私、演劇部には入部しません!」
走りながら叫ぶように入部拒否の意思を伝える。
そう、私は演劇部には入部しない。してはいけないのだ。
とにかく走るのに夢中だった。
だから自分の履いている靴が上履きのままであることや、教科書やノートを入れている通学用のリュックを自分のクラスの教室に置きっぱなしであることに気付いたのが大分遅くなった。しかし、最寄駅から電車に乗る前に気付けたことは、不幸中の幸いだった。
ジュリアは短いため息を吐き、元来た道を引き返す。
駅から学校までは歩いて十分ほど。日が暮れるまでにはまだ少し時間がある。
走りすぎて酷使した脚を気遣いながら、ゆっくりとした足取りで緩やかな坂道を登っていく。
学校の校舎が見えるまでには、そんなに時間がかからなかった。
校舎の奥に広がる山々は青々と生い茂り、鳥たちは自然の恵みを祝福するかのように、軽快な鳴き声を響かせている。堂々とした
森ノ熊高校。都会から少し離れた、しかしそれほど田舎でもない、程よい自然に囲まれた地域に位置する学校。生徒数は900名ほど、偏差値は55くらいのこの学校は、今年で開校50周年を迎える。
それほど古くもなく、かといって新しくもない歴史を持つ森ノ熊高校は、文化系の部活動に力を入れていることで有名だ。開校当初からある演劇部は、歴代の先輩の意志を着実に受け継ぎ、毎年開かれる全国演劇コンクールではここ数十年間、入賞を逃すことなく確かな功績を積んでいる。
また、吹奏楽部や合唱部の活躍も、演劇部に引けを取らないほど目覚ましい。
中でもここ数年で飛躍的に成長したのは、全国的に見てもまだまだ数が少ないと思われるクラシックギター部だ。
クラシックギター部は創立からたった二年で、名だたるコンクールで入賞を果たし、現在もその武勇伝は衰えを見せないほどだ。
部員数もどんどん伸びており、森ノ熊高校で今一番勢いのある部活だとされている。
気付いたら緩やかな坂道は終わりを迎えていた。
放課後はまだ始まったばかり。部活に励む生徒たちの元気な声が風に乗って運ばれてくる。
校門をくぐり下駄箱で上履きに履き替える。
体育館正面にある階段を四階まで登っていく。
時々音楽室から聞こえる金管楽器の音を聞きながら、廊下を音とは反対の方向へ進んでいく。
一年三組の教室の扉を開けると、一つだけ荷物が置かれたままになっている席があった。誰もいない教室に足を踏み入れ、通学用リュックを背負い教室を後にしようとして、不意に足が止まる。
手を胸に当て、何かを振り切ろうとするような、必死な思いが思考を占領する。
「ああ、姫よ……。どうかこの手を離して」
掴まれた右手から何かを剥がすように、力を込めようとするが、全く力がはいらない。
「あなたは行かなければ……。さあ、早く」
ただもどかしさだけが胸に溢れる。
「私があなたを一生愛さずにはいられなくなってしまう前に!」
堰を切ったようなこの思いは、誰にも止められない。いや、誰にも止めさせはしない…!
バシーン!
「わっ! 何?」
突然聞こえた大きな音が、音楽室から断続的に響き渡るシンバルの音だと分かるまで時間がかかった。
音の正体を知り、思わず手を額に当ててうなだれる。
「そっか、私、また別世界に飛んで行ってたんだ……」
先ほど体育館で覗いたステージ上の演技が頭の中に広がっていたようだ。
「誰もいなくてよかった……」
こんなところ誰かに見られたら、恥ずかしくて穴を探さずにはいられない。
身長160センチ、栗色の明るい雰囲気のショートヘア、ぱっちり二重の容姿に、別に不満はない。ちょっと他の子よりも背が高くて、目付きが鋭くない部分は、自分の長所だと思ってる。でもそれは別に自慢できるほどのものじゃない。あくまでも普通。平凡であって、私じゃなくても、この世に生きる多くの人が持っているもの。
だからこそ、通行人Fである身分を越えてはいけない。
通行人は、主役にぶつからないように、決められた道をしっかり歩くことに徹しなければならない。
もしも通行人Fが主役よりも目立つ服装で目立つ歩き方をしていたら、その舞台は壊れてしまう。
だから、通行人Fは通行人Fらしくあらねばならない。
舞台の幕が下ろされるその時まで。
いつの間にか閉じていた
窓からは、大分傾いてきた太陽の光とまだまだ練習に精を出す運動部員たちの掛け声が聞こえてくる。
ジュリアは、鳶色の瞳を少しすがめた後、静かに踵を返し、教室を後にした。
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