アクアティリスの故郷

森村直也

アクアティリスの故郷

 二十一時のニュースが告げるカタカナの羅列が叔父さんの名前と同じだと思いながらうおちゃん用の防水バッグを用意する。調整水を浸るくらいだけバッグに入れて、うおちゃんの鱗様の皮膚に覆われた尾鰭のような下半身を抱えながらバッグに納める。うおちゃんはドールというには少し大きい。六歳児くらいの大きさで、重さも多分それくらい。持ち上げるのも楽ではない。

 うおちゃんが落ち着くとバッグごとまとめて抱き上げて私はそのまま玄関を出る。ママチャリの後カゴにうおちゃんを上手く納めると、ハンドルを取って段を道へと押し出した。

 東斜面に建つこの家からは街を海まで一望できる。家々の屋根が足元から緩くデコボコと続いて下り、自動車専用道の高架を境に四角いビルへと変わっていく。高層というほどでもない箱形のシルエットはやがてキリンが並んでいるようなクレーンの列へとつながり、その向こうに墨を流したような海がある。

 下り坂を道幅が広がるまで押して進み、勢いのままサドルに跨る。ライトと慣れを頼りに家々の合間を下っていく。街灯が頼りなく明滅する。窓明かりは少なく、消えたままの街灯も多い。ここは死にかけの住宅街だ。

 やがて私鉄の土盛に突き当たり環状線の大通りに出る。ゆるくゆるく下る通りを海の方へとハンドルを切る。六階建ての幅広の団地が終点で、そこまで行けばうおちゃんは行きたい方向を指している。私は自転車を南に向ける。郵便局前の交差点を曲がれば海に面した工場群だ。

 工場群と国道に挟まれた広い歩道は首都高高架に見下ろされながら南北へと延びている。海の匂いを嗅ぎながら軽快にペダルを漕いでいく。工場の敷地が途切れる箇所で岸壁へとハンドルを切る。灯りのないマリーナの前、波に洗われる橋を渡って自転車を降りる。

 かつて臨海緑地と呼ばれた場所。真ん中の一段低いグラウンドは今や見事な潮溜りだ。潮溜りを迂回すると自転車のライトに朽ちかけた手すりが浮かび上がる。うおちゃんを歓迎するかのように墨色の海は波で鈍く光を返す。

 ちゃぷりと潮が足を洗う。スニーカーはあっという間に水を通す。生ぬるい、満ちていく途上の夏の海水。

 十年ほど前まで海沿いの工場は全て稼働していたと聞く。上昇を続ける海水面に耐えきれずに移転が始まり、昨年ついに全工場が移転を果たした。今では大潮のたびに国道まで浸水し、自動車は海水を雨水の如く蹴散らして進むようになっていた。

 踝に波飛沫を感じながら私は自転車を手すりに寄せる。うおちゃんは待ちきれないとでもいうようにカゴから飛び出す。ぽちゃんと大きな音をさせ、波の合間を泳ぎ始める。私はベンチに腰掛ける。手持ちのペンライトの淡い光の輪の中で、うおちゃんが遊び回る様を眺める。

 うおちゃんは人魚だ。分類学上の名称ではホモ・サピエンス・アクアティリス。十六世紀に西洋世界に発見された現生人類の亜種。赤道付近の海に住むという準絶滅危惧種。私と叔父さんは静岡の清水の魚市場でたまたま見つけた。市場の客を好奇心旺盛と言った様子で水槽の中から眺めていた。漁網に入っていたらしい。水族館か研究施設か放流か、話されていたのを引き取ったのだ。

 うおちゃんはカタコトながら日本語を解した。根気よく聞き出したところ、近縁の陸の人の言葉を幼い頃に学ぶらしい。逃げる気はさらさらないようで、海を恋しがるが放されても堪能すると戻って来る。だから今は一緒に家で暮らしている。叔父さんが不在の間の、同居人仲間として。

 うおちゃんはテトラポットの防波堤の陰で気持ち良さそうに泳いでいる。うおちゃんのそばに幾つか丸い影が見える。横浜にも人魚がいたらしい。

 そういえば。私はスマートフォンを操作する。出がけに目に付いたテレビの画面を思い出す。ニュース、ハヤシミツハル。二単語の検索で情報はあっさり見つかった。

 ――ガーナで武力衝突。邦人一名死亡。

 アフリカの観光地では無い国で日本人の同姓同名がどれだけいると言うのだろう。散歩を堪能したうおちゃんに足を叩かれるまで、私の頭は真っ白だった。


 大学は夏休みだがバイトはある。就職活動が芳しくない分、バイトばかりに精がでる。

 うおちゃんと毎夜駆け抜ける道を朝の日射しを正面から浴びながら一人軽快にペダルを踏む。海沿いの工場群を北に進み、錆びついた門の前で自転車を降りる。入場証を取り出して汗の滴る首にかける。白むほどの日向から警備員室は見通せないが、習慣で軽く頭を下げる。

 バイト先は工場群の隅にあった。移転した工場の事務棟の二階部分にオフィスを設けた私立の研究機関だった。何の研究をしているかを私は知らない。私の仕事は備品や薬品の購入などの事務作業と、お役所へ書類を届けるお遣いと、そして研修生の世話をすること。褐色の肌の南洋系の顔立ちをした研修生は、日本語を話せない事が多い。外語大へ通う私は英語ならなんとかなるが、それすら通じないことも多かった。それを、英語を話し、日本語の修得も早く、研修生としてのキャリアも長いウエキと共に捌いていく。

 今日は三人が退所したようだ。気の滅入る書類は一枚だった。入所は四人で、バスは四人と一人を下ろして去る。四人のうちの一人は嬰児を胸に抱いていた。

 日本で産んだのだろうか。艶やかな褐色の肌に大量の汗を浮かべて、タンクトップと短パン、サンダル履きの女性は、嬰児を愛おしそうにあやしながら示された宿舎へ入って行く。彼らは移住者だと聞いていた。国土が海に沈んでしまった国々から、移住協定の枠組みに従い移住してきた人たちだ。悲劇の移住者が到着した、そんな感じのニュースばかりが話題になり、その後は一切話を聞かない。その人たちのごく一部が、横浜の海岸沿いの一角で疲れ切った顔をしている。

「オツカレサマ。今日もアツイね」

 差し出されたのは私の好きな紅茶だった。差し出してきた腕は男性らしい精悍な体躯を、長袖、カーゴパンツで包み隠したウエキのものだ。暑くないのかな。思うがウエキはダイジョブしか返さない。

「ウエキもお疲れ様。いつもありがとう」

 ウエキは微笑み、そして不意に真顔になった。休憩所の窓の下を黒いワゴン車が過ぎていく。車高が低く車長は長い。ウエキはしばし目を閉じる。私はウエキを見、ワゴン車を見、そして書類入れを見る。溜め息が溢れる。

「しおり、ツカレテル」

「なんでもないよ」

 ワゴン車は門を出て左折した。しばらく走って山側に進むはずだ。その先には木々が生い茂る一帯があり、そして、忌避されやすい施設がある。

「クルマ、ミてた。ナキそう」

 私は思わず薄く笑む。よく見ている。

「叔父さんがね。亡くなったかもしれないの」

 ウエキは私を見つめてくる。私はゆっくり口を開く。

 叔父さんは一年の半分を海外で過ごす人だった。生業はエンジニアだが、実家が農家で大学でも農業を学び、その知識を以て海外で活動していた。

 彼らを助けることは自分たちを助けることだと常々叔父さんは言っていた。その信念に従って、砂漠に灌漑設備を作ってみたり、自分たちが食べる分の作物を育てられるようにしてみたり。彼らが彼らの国で、土地で、彼らの力で生きていけるようにする、その手助けを続けていた。

 私は叔父さんの信念を理解しきれてはいないけれど、叔父さんの真っ直ぐ未来を見るような目が好きだった。同じものを私も見たくて進学で語学を選んだ。母さんには反対された。お祖父さんには不要と言われた。味方は叔父さんだけだった。大事な大事な人だった。

 そして叔父さんは、彼らの争いに巻き込まれた。

「ざんねんだったね」

 ウエキは呟く。私は頷く。

「ジブンたちの土地で生きていく。それはとてもステキなコトだ」

 私は頷く。そして俯く。いたたまれない。気にするなとでも言うように、大きな手が私の頭をそっとそっと撫でてくる。叔父さんの手を思い出す。

 鼻の奥に痛みを覚える。目頭が熱い。いくつも浮かんだ感情を私はうまく処理出来ない。

 ウエキたちの故郷は今、海面の下にある。


 *


 今なら上着が絞れるだろう。思いながら自転車を玄関前に押し上げる。いつもより控えめな重さのエコバッグをいつもより重く感じながら玄関を引き開けた。涼しい空気にホッとする。

「ただいま」

 奥の部屋から物音を聞きつつ私は台所へと直行する。

 キュウリ、トマト。安くて美味しい季節の野菜は野菜室へ。良いアジが三匹買えた。うおちゃん用にチルド室へ。値上がりしている豆腐は今日は諦めた。醤油も心許ないが、特売日まで持たせよう。珈琲は豆を断念インスタントで妥協した。氷アイスの最後の一本を引っ張り出す。代わりに買ってきた五本入りをきっちり収める。去年までは六本入りだったのに。思いながら出した一本にかぶりつく。夕方になっても猛暑はちっともおさまらず、自転車を押しての帰宅はいつも汗だくになってしまう。そして今日は、足が重い理由は他にもあった。

「うおちゃん、ただいま」

「しおり、おかえり!」

 エアコン付けっぱなしの天国のようなうおちゃんの部屋で、氷アイスを齧りながらスマートフォンを片手でいじる。母さんからのメッセージが消せずに表示されている。

 ――電話ちょうだい。叔父さんのことよ。

 アイスを食べきり通話ボタンを、溜め息と共にタップした。


 ――戦争始まっちゃったでしょ。大使館の人も大変で光晴はそのまま連れて帰れないって、向こうで焼いてしまったんですって。認識票? なんかそんなものとお骨が帰って来るらしいわ。お祖父ちゃんはDNA鑑定するまで信じないとか言ってるけど、お金も掛かるし。だいたい、わかってて危ないところに行ったのは光晴自身だし自業自得なのよね。

 自業自得。口の中で転がして、私は努めて押し黙る。

 叔父さんは、渡航レベル2、不要不急の渡航はやめてくださいのレベルであることは事実だが、そう言う場所だから求められて行ったのだ。……と言い返せば、あんたはわかってない、とか、どれだけ心配させて、とか、ご近所に顔向けできない、とか、無意味な言葉が返ってくる。歯を食いしばり黙り込む。

 ――それであんたはいつ帰ってくるの。来年卒業でしょ。東京は水浸しで廃墟だって言うじゃない。治安も悪いって噂だし。ロクなお店もないんでしょ? なんだかよくわからない外国人が沢山住み着いたらしいし。心配だわ。こっちは安全よぉ。水も出ないし、崩れる崖もこの辺にはないし、夏も涼しいし。

 今すぐ切ってしまいたい。深呼吸してそれに耐える。東京二三区、下町と呼ばれる地域の海抜が〇メートルを下回ったのは本当だし、首都機能は関西に移動、企業も移転を続けているのは事実だが、全てを悪い方向の極端な伝聞で話す母さんの言葉に耐えるのは苦痛だった。スマートフォンをスピーカーモードでデスクに置いて、うおちゃんを抱き上げ髪を撫でる。うおちゃんはちょっと不満そうにそれでも静かに撫でられてくれている。

 ――そうそう、小学校の時に一緒だった蔵馬くんて覚えてる? 農業大学を卒業してお祖父さんの農場継ぐんだって。お父さん市会議員でしょ、将来はそっちも考えてるみたいよ。『温暖化に負けない豊かな街を実現する』ですって!

 つまり、私の嫁ぎ先候補と言うわけだ。肥料を輸入し、輸入機材を導入し、ブランド果実を作って売る。市会議員たるおじさんはそんな主張をしていたはずだ。

 バカみたい。囁けばうおちゃんは、何がと言わんばかりにその小さな手を伸ばしてきた。体温の低い手が冷め切らない頬に心地良い。

 ――とにかく、帰ってくる方が絶対いいわよ。あんたのためよ。東京で就職してボロボロになってからじゃ遅いんだから。ね。その家のこともあるし。将来のこと、ちゃんと考えなさいよ。

 そうしてようやく、電話は切れた。


 日暮れ間際が好きだった。家々の明かり、まだ落ち切らない工場の明かり、月が東にあれば言うことはなく、クレーンと半島と堤防とに挟まれた狭い海の穏やかな水面が輝く様はずっと見ていてもちっとも飽きない。しかし、明かりはこの数年でも見る間に減って今やぽつりぽつりと灯るだけだ。

 海を眺めながら歩き出し、けれど近づくほど見えなくなる。うおちゃんをカゴに乗せて坂を下り海へ向かう。工場脇をのんびりと歩く。

「ぬれてる」

「満潮だったからね。そのうち、潮に関係なくこの辺も海になるんだろうね」

 残光に影色を深めていく工場群を振り仰ぐ。工場群を見下ろすような首都高高架を眺めやる。見上げる高さにあったとしても、もう何十年かすればどちらも海に沈むだろう。

 今よりも地球全体が暖かかった何万年も前には、もっと内陸まで海が入り込んでいたと聞く。事実、海岸から一〇キロメートルも内陸に貝塚が出土している。

「そうなったら、どこに行けばいいのかな」

 ホモ・サピエンス・サピエンスは、氷河期に新大陸へと渡り、間氷期に南下した。移住の理由は定かではない。けれど今は。追われても、生活を求めても、逃げられない人が大勢いる。

「きた! みなみ! あつくないとこ! うみ!」

 あはは。思わず声が出る。ホモ・サピエンス・アクアティリスはまさしくきっと、そう言う時代に海に潜った人だ。

「そうだね。海に逃げればいいね」

「うみ! ひろい! おさかな!」

「砂漠の人も、国がなくなっちゃった人も、戦争で帰れなくなっちゃった人も、海で暮らせばいいんだ」

 それが叶っていたならば。叔父さんは死なずに済んだのだろうか。

 のんびり歩いてもいつもの公園まで一時間とはかからない。ジャリジャリと音を立てる潮混じりの砂を踏み自転車を押して入っていく。手すりに近付けばうおちゃんは好きに飛び出し、嬉しげに尾鰭を振るう。

「うおのともだち。おうちでくらす、けど、だめ。だから、うおとともだちになった」

「おうちで暮らしたいけど暮らせないから、うおちゃんと友達になった?」

 そう! うおちゃんはそう言って穏やかな波間へ消えていった。

 テトラポットの防波堤に幾つもの頭が見える。いつの間にかこの辺りで見かける人魚が増えている。

 どう言うことだろう? 自転車を立てて、私は手すりに身を預ける。墨色に沈みゆく海でうおちゃんと人魚たちは自由にのびのび泳いでいる。


 *


 蝉の声はどこでも聞こえる。街中でも海際でも。あの巨大な幼虫は溺れたりはしなかったのか。それとも水の来ないどこかから、わざわざここまで飛んできたのか。

 蝉の声に負けないほどに女性の研修生が大きな身振りで叫んでいる。現地の言葉は機械翻訳では拾いきれずウエキに任せるほかに無い。嬰児がいない。ふと気づく。そういえば、オムツとか備品にあっただろうか。要るだろうか。もう要らないか。考えているとウエキと目が合う。ウエキの目が任せろと言うから私はそのまま事務所へ向かう。多分、嫌な書類が待っている。

「田畑さん、ちょうど良かった」

 事務所には白衣の男性がいた。私の上司だ。上司は置こうとしていた書類を私に渡して来る。チラリと見てやはりと思う。

「あの話、考えてくれた?」

「考えていない事もないですけど、まだ」

「前向きに頼むよ」

 英語が出来る。彼らとの仲も悪くない。是非専属でお願いしたいんだ。上司は続ける。つまり正社員への登用だ。大学四年のこの時分、とても有り難い話だが私はまだ決めかねている。母さんはもちろん反対だろう。助言をくれただろう叔父さんはもういない。給料は即決するにはすこし少ない。そして語学関係を除いた仕事の内容だ。

 死亡届と死亡診断書。これを役所に提出して、火葬許可証を受け取るのだ。本来は葬儀会社を通じて親族がやるだろう手続きをここでは代理でスタッフが行う。対象者は研修生で外国人で帰る場所はすでにない。大使館に一任された政府は民間に処理を委託している。この研究所は委託業者のリストの末尾に名を連ねていると言うわけだ。

 よろしくと上司は言って去って行く。私は会釈し書類を見やる。不備がない事を確認すると、暑い戸外へ再び向かう。書類を区役所へ届けるのがその仕事の一つである。

 女性はまだ泣いていた。荒れ果てて艶をなくした褐色の肢体を日に晒し、ウエキに縋り付くように。私はたぶん彼女を泣かせた側の人間で、共感を示す言葉を持たない。だから目を伏せ社用の自転車へと向かう。


 うおちゃんは今日も墨色の海を友達と一緒に泳いでいる。頭を出して潜って出して。驚くような速さで泳いでまた潜る。楽しそうだ。

 ふと、音に違和を覚える。波音に混じって足音がする。規則的な水の音。振り返れば大柄な男性が長いパンツを海水にすっかり浸して歩いてくる。西に傾いた弱々しい半分の月明かりでも、歩き方に見覚えがあった。

「ウエキ?」

「しおり」

 職場からここまでは歩けば十五分くらいだろうか。遠いわけではないが、ウエキとこの公園で会うのは初めてだった。

「よく、来てるって、キいて」

 ウエキが並ぶ。私は見上げる形になる。私のペンライトは海に向いていて、月は背中を照らしている。ウエキの顔はよく見えない。

「誰に?」

「トモダチに」

 友達? 思ったけれど、ウエキはそれ以上を告げなかった。パシャリと水面で音がする。うおちゃんが寄ってきた。腕をあげて私にせがむ。手すりから乗り出すように腕を出せば、うおちゃんは海面を尾鰭で叩いて飛びついてきた。

「aquatilis」

 うおちゃんはひんやり冷たく心地よい。うおちゃんは私にしっかり抱きつきながらじっとウエキを見上げている。

「この辺にいると思わなかった。おどろいた」

「ウエキの国にはいた?」

 強い風がウエキのシャツを大きく揺らす。嵐の気配がし始めている。ウエキは顔をあげていた。遠く母国を見るように。

「子どもをサラうと、言われていたんだ」

「攫う?」

 ウエキは緩く首を振る。

「ソウだけど、ソウじゃなかった。サラうんじゃない。還るんだ」

 ウエキは私とうおちゃんを見下ろしてくる。左手をこちらに伸ばし、うおちゃんの髪を撫でる。うおちゃんはみじろぎする。ウエキの左手はそのまま私の頬に伸びる。ヒヤリと冷たく、硬く、大きく。うおちゃんがみじろぎする。

 びくり、その手が震えて離れていく。うおちゃんだ。体を捩ってウエキの手首にしがみつき。かみついて、いる?

「うおちゃん?」

 ウエキの手が離れていく。袖が引きちぎられて太い腕が現れる。見覚えのある筋肉質の、褐色の腕が淡い月光を跳ね返す。見知らぬ鱗状の表皮を見せて。

 ウエキを見上げる。腕を庇うように引いたウエキは顔を背ける。うおちゃんはちぎれた袖をぽいと捨てると私の首に手を回す。体をひねってウエキを見上げる。うおちゃんの背中に腕に力がこもる。

「早く帰ったホウがいい」

 ウエキはそう言い踵を返す。大股で水飛沫を立てながら公園から去って行く。うおちゃんの細い腕にさらに一層力がこもる。

 私は水の中へとへたり込む。今更ながら心臓がどくんどくんと鳴りだした。


 そして、緊張と共に出勤した翌日、ウエキの退所が告げられた。


 *


 ずぶ濡れになったスーツを乱暴に脱ぎ散らかしてうおちゃんを抱きあげる。ほてった体にうおちゃんの低い体温が心地いい。

 スピーカーにしたスマートフォンから言葉というノイズが溢れている。母さんは一方的に話し続ける。

 叔父さんが帰ってきた。葬式は来週を予定している。横浜の家は売りに出す。就職はこっちなのだから、どうせその家は空き家になる。そういえば就職はどうするの。あんただったら農協なり信金なり、口きいてあげるから。

――詩織、聞いてるの?

「聞いてる。来週ね。じゃぁね」

 通話を無理矢理終了する。

 叔父さんのお葬式は出ないつもり。家のことは解った。

 私はそれらの言葉を飲み込んだ。葬式に出ないことを恩知らずとか恥知らずとかそんな言葉で飾るだろう。そしてごまかすために言葉にすれば揚げ足取りが待っている。

 叔父さんを弔いたくないわけじゃない。けれどお葬式が重要なわけでは決してない。叔父さんはそんなことでとやかく言うような人ではない。

 うおちゃんと食事を済ます。私はサラダとパックご飯。うおちゃんは冷凍サンマと生食用ワカメだ。落ち着いたら散歩に行く。雨が降ってもうおちゃんは構わない。私も既にずぶ濡れで、雨など構おうという気にもなれない。

 そうだな、うおちゃんが冷たそうにサンマを囓るのを眺めてぼんやり思う。家を処分するのなら、うおちゃんとの同居は難しくなるだろう。万一実家に帰ることになればなおさらだ。海のない内陸長野に連れて行くなどとても出来ない。

「うおちゃん。叔父さん死んじゃった」

 うおちゃんの頭を撫でる。うおちゃんは手を止め私を見上げる。

 うおちゃんは言葉を解す。私の言葉もちゃんとわかって聞いている。

「ミツハル? 死んじゃった?」

「うん。もう、帰ってこないの。そしてこの家は叔父さんのものだから、出ていかないといけない」

「どこいく?」

「どこいこうか」


 うおちゃんを自転車に乗せる。雨だけで無く風も出てきた。自転車を押して坂を下る。

 そろそろ満潮の頃合いだ。嵐が近付き気圧は急激に下がっている。潮はどこまで上がるだろう。海沿いの店はみんな移転してしまった。買い物できる場所も限られてきたし、物価は上がり続けている。生きる暮らすが目的ならば帰る方が楽だろう。

 うおちゃんは清水にいた。出身はもっと南らしい。故郷を離れた理由は聞いていない。

 叔父さんは逃げる場所のない人たちに生きる術を教えていた。逃げずとも暮らせる事を願っていた。

 ウエキたちは暮らすことが出来なくなった。比喩ではない地盤そのものを失った。だから移住せざるを得なくなり、そしてたぶん、帰ろうとしているのだろう。

 私には帰る場所がないわけではない。生活出来ないわけではない。この場所から海沿いから逃げてしまえばきっと叶う。叔父さんの見たものに知らんぷりを決め込んで。ウエキをうおちゃんを他人の話と耳を塞いで。

 坂を下りきり環状線へ。逃げ場のない雨水が広い車道に溜まっている。環状線を海へと向かう。人気の無い広い歩道をうおちゃんと二人歩いて行く。

 閉店したケーキ屋を過る。ここでチョコレートを買うのが好きだった。灯りのないラーメン屋を過る。叔父さんと来た店だった。壁の団地の前を曲がる。郵便局の交差点を工場の方へ曲がっていく。水は脛くらいでさざ波を立て、自転車は重く向きを変えた。

 不意にシャツが強く引かれる。振り向けばうおちゃんが両手を広げてねだってくる。自転車を立てて停める。ライトが速やかに消えていく。

「うおちゃん?」

 抱き上げるとうおちゃんは短い腕を懸命に私の首へと回してくる。口を耳元へと寄せてくる。

「まってる」

 囁きが触れるように耳に届く。そしてチリと針を当てたような痛みが小さく確かに耳に走る。雨の中ではほの温い、けれど冷たいうおちゃんの温度とともに。

「ずっと」

 そしてうおちゃんは緩い戒めを振り切るように飛び降りた。広く浅い道路という川をくるりと回って自転車の前で動きを止める。首都高のライトが乱反射するだけの薄闇の中で、うおちゃんは私を確かに見上げている。

「うお、このへんにいる。まってる」

 うおちゃんは、それを選んだ。


 ――温暖化。

 海水面は上がり続け、海水温も高温域を広げている。

 東京湾に熱帯魚が定着したとSNSは噂する。南国の珊瑚は死にかけていて、海流は位置を変えたと有識者は憂いている。

 災害が増えた。今までその土地に無かった天災が多くなった。

 不作が増えた。土地で最適化した作物が変化に耐えられなくなった。

 森が枯れ、凍土が溶け、野生動物が人を襲い、土地が海の中に沈む。

 どこに逃げれば良いというのか。どうしていけば良いのだろうか。


 *


 ウエキが退所した穴は大きかった。私は音声翻訳機器を片手に研修生たちと向き合い続ける。日本を移住先として指定され、日本の社会に受け入れられず、ここに来ざる得なくなった南洋生まれの人々と。日本の酷暑に心底疲れ、しかし長袖ロングパンツを着ざる得ず、そしていつか何らかの形で修了していく彼らと。向き合う。

「千葉さん」

 黒いワゴンを見送る上司へ声をかける。白衣が強い潮風に煽られている。

「この辺りを珊瑚と海藻の森にできますか」

 上司は振り向き一瞬呆けた。けれどふっと頬が緩んだ。

「出来ると思うよ」

「なら、私」

 私は想像する。いつか海面は工場よりも高くなる。

 穴の開いた工場の天井。朽ちて消えてもはや流れを遮ることのない出入り口に高層の窓。その中で海藻が緩くそよぎ、うおちゃんが楽しげに泳ぎ回る。

「正社員の話、受けます」

 母さんは激怒するだろう。家も早々に売られてしまうに違いない。うおちゃんの部屋を片付けよう。そして、しばらく落ち着いて住める場所に部屋を探そう。

 妙にかさつく腕をついついさすってしまいながら、私は思う。

 この工場群を森にする。新しい故郷にする。うおちゃんの、人魚になったウエキたちのような人の。

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アクアティリスの故郷 森村直也 @hpjhal

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