笑顔の魔法

ゆゆみみ

笑顔の魔法

 嗚呼、あの子が助かるのなら。

 あの子さえ健やかに生きてくれるのなら。

 私は喜んでにえになろう。



 どうやら、世界は終末を迎えるようだった。

 私にも良くは分からない。ただ、ニュースで淡々と何かが報じられている。窓の外は、もうずっと黒く渦を巻いた雲に覆われていて、止むことのない稲光が轟音を撒き散らしていた。

 もう、学校に行く必要もないらしい。両親もずっと家にいて、二人で何かを話している。頭を抱える父親と、それに寄り添って肩を撫でる母の姿ばかりが視界に入った。


「大丈夫だよ、大丈夫。お姉ちゃんがいるからね」


 湿っぽい空気に昼も夜の区別もつかない闇、そして唐突な閃光と轟音。窓を叩く大粒の雨の音に怯える妹を、ただ私は抱きしめていた。私が十七歳なのに対して、妹はまだ十歳。歳が離れていることもあり、私は妹を溺愛していた。文字通り、目に入れても痛くないほどだった。世界がこうなる前は妹にプレゼントをするためだけにアルバイトをしていた。


「おねえちゃん、ありがとう!」


 その言葉と笑顔だけで、私の心の中は暖かいもので満たされた。幸せとはこういうものなのだということを知った。

 守りたかった。腕の中で震えるこの小さな体を。あらゆる怖いものから、守りたかった。妹を守るためならどんなことも厭わないとさえ思った。いるかも分からない神に願った。


 ある日、家に知らないおじさんが来て、両親と話していた。そっと扉に耳を当てると、何かを説明する声と、母の啜り泣く声が聞こえた。近くできょとんとした表情を浮かべる妹には、静かにするよう立てた人差し指を唇に当てた。妹はそれを見て、指を右から左へチャックをする仕草を返す。ああ、可愛らしい。

 暫くして、知らないおじさんは帰っていき、私は両親に呼ばれた。妹を一人にはしておけなかったので、その小さく温かい手を握って共にリビングへと入っていった。


 テーブルで正対する。妹は私の膝の上に乗せた。じんわりと柔らかな温かさが広がっていく。父は何時になく真剣な顔をしていた。母は目を泣き腫らしていた。妹は普段と違う二人の姿に怯えたのが今にも泣き出しそうだったので、私が後ろから抱きしめた。


 曰く、私が選ばれたのだという。

 否、私でなければならないのだという。

 世界を救うためには、私という犠牲が必要なのだと。


 父は言う。お前を犠牲にして得る人生に意味など無い、と。

 母は言う。貴女がそんな辛い目に遭わなくていいのよ、と。

 だが、二人が揃って言う。それでも、私にしか出来ないことでもあるのだと。私以外では駄目なのだと。そして、理由はしれずとも、世界を救える立場に娘が選ばれたことは誇らしいことだと。最後には、自分の人生は自分で決めなさい、と。

 二人の目の奥に、嫌な光が見えた。妹の純粋で穢れのない瞳とは違う、大人の濁った目。私の発する言葉への僅かな期待が見え隠れしていた。実際に視界の端には隣の部屋に慌てて隠したのだろう、見慣れないジュラルミンケースのようなものも見え隠れしていた。私の視線の先を見て、父と母が目を泳がせる。

 ただ、そんなことはどうでも良かった。腕の中を覗く。その中にいる、誰よりも愛おしい天使を。何にも穢されていない、宝物を。柔らかく、微笑んでみせる。妹は稲光と轟音の中で、屈託のない笑みを浮かべた。その体は安心のためか、力が抜けきって、私にその重みの全てを預けていた。


 私の答えは決まった。それを、口に出す。

 父は腕を組み、無言のまま天井を見上げた。母は両手で顔を覆ってさめざめと泣き始めた。私は妹だけを眺めていた。妹だけを想い、妹だけを感じていた。やがて、両親は言う。立派な娘を持った、と。私の決定を尊重する、と。正直に言えば、一度くらい、それでいいのか、と聞くくらいの配慮は見せて欲しいところだった。すんなりと受け入れすぎだろうと、ただ冷淡に両親のことを見つめた。


 私は時の人となった。

 世界を救う救世主なのだと。

 連日テレビで報道され、インタビューを受けた。私はそれらに好意的に答えた。両親にこそ冷淡な感情を抱いたものの、自分自身で決断したことに代わりはないのだから。

 ここが妹の生きる世界で、それが危機に瀕しているのであれば。そして、それを回避できるのが私にしか出来ないことなのであれば。あの子が幸せに生きられるのであれば。

 それだけで、私は良かった。


 現実的な話としても、両親は私を、私の命を差し出す代わりに多くを得るのだろう。それ自体に思うところは多少あれど、それで妹が不自由なく過ごせるのであれば、何も文句などなかった。


 ただ、心残りなのは、あの子を一人にしてしまうことだ。ただでさえ、私が最近色々な所に出ずっぱりになっていることで、家に帰ると私に抱き着いて離れない。私よりも僅かに高い体温とまるでミルクのように甘い匂いが、私の脳を蕩けさせる。ぎゅっと抱きしめる。この子のために私は自らの命を捧げるのだという酩酊感すら感じていた。



 それから、一年が経った。

 辛うじて、世界はまだ生き残っていた。

 私は、世界の中心に建てられた白磁の塔の中で日々を過ごしている。聖女などと呼ばれ、半年前から私はこの塔の中で生活をしていた。何一つ不自由がなく。何一つ心残りがないようにもてなされて。

 もう、私の心は決まっていた。妹のために、そして妹を取り巻く世界と人々のために、その祝福のための犠牲になろうと。ただこの半年、妹に会えていないことだけが一番の辛さだった。


「やだ! おねえちゃん……! やだぁ!」


 この塔に行くと決まった時の妹の悲痛な声がいつまても耳にこびり付いていた。ただ、最後の時には会えると聞いており、それだけが希望だった。



 そして、その日は訪れる。

 私は、白磁の塔の最上階に立つ。

 真上には、ちょうど黒い渦の真ん中が鎮座していた。円形状の空間の中には、外周に沿うようにして、沢山の記者と、よく分からない各国の政治家と宗教のトップめいた人達がいた。

 中央には、木の十字架が立てられていた。

 私はあそこに縛られ、まるで中世の魔女狩りのように火炙りにされる。それで、世界は救われるらしい。

 私が火炙りにされる光景を、この場にいる全員が、そしてカメラを通した先にいる全員が、心待ちにしているのだろう。その瞬間を、世界が救われる瞬間を、また空が青く輝く瞬間を、今か今かと待っているのだろう。


 各国の首脳やら大統領やら法王やらが次々やってきては通訳から、君を誇りに思っている、という言葉を定型句のように聞く。この一年で聞き飽きた言葉だ。


 そして、最後に、家族との別れが来た。

 半年振りに見る妹は少しだけ大人びたようで、でも少しも変わっていないように見えて、この塔よりも穢れのない真っ白なワンピース姿がよく似合っていた。

 父と母と、話す。結局は、聞き慣れたフレーズが繰り返されただけ。

 そして、最後は妹。目の前にきた瞬間、私は思い切り抱きしめた。最後は笑顔でいこうと決めていたのに、涙が止まらなくなってしまった。妹も同じようだった。互いに嗚咽のみを零して、言葉を発せられない。さすがに周囲も美しい姉妹愛に感化されたようで、鼻を啜るような音が聞こえた。


「お姉ちゃん、頑張るね。だから、貴女は幸せになるのよ」


 ひとしきり泣いた後、私は妹の頭を撫でた。決意は固めていたつもりでも、こうして目の前にすると感情が決壊しそうになるのを、なんとか強がりで誤魔化すしかなかった。死ぬのが怖くないわけがない。怖いに決まっている。出来ることなら死にたくなどない。妹と二人、これからも幸せに暮らしていきたい。そんな想いが、今になって溢れだしてしまう。

 けれど、それは、断ち切らねばならない感情。私と共に歩む未来は、もう存在し得ぬのだから。

 妹は泣き止まない、声を上げて、わんわんと泣いていた。何度も何度も私の名を呼ぶ。


「おねえちゃん、おねえちゃん、おねえちゃん……」


 私は頭を撫で続ける。暫くして落ち着いてきたのか、妹は泣き止んで鼻をぐずぐずと言わせていた。再び、容易に、強がりが緩んでしまう。また、涙が溢れそうになってしまう。


 私は。

 私は。

 私は。


「おねえちゃん、わたし、わたし……」


 妹が涙声で言葉を紡ぐ。続く言葉を、彼女が自ら発せられるまで、じっと待つ。妹は、少し時間を置いて、涙を手で拭って、腫らした目のまま、私の方を向く。必死に涙を堪えている。


 嗚呼、やはりそれは天使のよう。

 漆黒の闇の中で私の視界は白く輝き──


「おねえちゃんのこと、ずっと忘れないよ」


 ──暗転した。


 妹は、屈託のない笑みを浮かべる。

 私は、笑みを浮かべられなかった。



 私は十字架にかけられる。

 足元の藁に火が点けられる。

 皮膚が爛れていく。

 不思議と、痛みも熱さも感じなかった。


 人知れず、笑みを浮かべる。

 呪詛の言葉を紡ぐ。


 人に。

 世界に。

 呪いあれ。

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