第2話
あの夏も暑くて暑くて、母に買ってもらったランニングシャツを汗だくにしながら、少しでも涼しい場所を探して、朝から山を駆け回っていた。早朝に別宅から帰ってきた父に絡まれるのが嫌でたまらず、逃げ出すように7時から家を出てきてしまった。父の口から漂う酒気と、スーツから香る母のものではない香水のキツい香りは、小学生である自分にも分かりやすく、家庭の不穏と自分の居場所がなくなっていくことを教えてくれたのだ。
きっと家に金はあるのだろう−父の車はこのあたりの田舎では見ないような黒光のする高級車のようであるし、書斎に置かれているレコードや扇風機などの家電も、友人に聞くと普通は家にはないものであるようであった。その割には、母は愚痴をこぼしながら日々、朝から晩まで農作業に勤しんでいるし、自分もおもちゃを買ってもらった記憶はなかった。教育のためにお金があっても清貧を強いていたのか、それとも単にシーソーが愛人に傾いていただけなのかは、誰にもわからなかった。ただ、母が愚痴の内容が、狸がカボチャを齧ったことや自分が近所の子供達と馴染めないことばかりで、父が週に3日は朝帰りをすることに対しては何も言わなかったあたり、愛情が傾いているということはなかったのかもしれない。
とはいえ、子供である自分にとっては居心地のいい家ではとてもなかった。3つ下の弟の成長につれて、余計に愛情のリソース分配が少なくなっているように思えた。兄としての役目を果たすために弟と共に山を走り回っている時間よりも、皆が寝静まり父が別宅にいる間に、父の書斎で小難しい数学の本を読んでいる時間が何よりも尊かった。父は銭勘定こそ早かったものの、数学なんて学んだことも興味すらもないはずで、なぜ高そうな本をわざわざ買い集めていたのかはいまだにわからない。きっと父も、インテリアとして買っているだけで、小学5年の自分も当然、書いてある内容はほとんどわからなかった。ただ、分厚いハードカバーと羅列してある数式はおつまみとして優秀すぎて、中学生で芋焼酎を初めて飲んで酔っ払った時よりも、数段気持ちよかったのは今でも覚えている。
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