まりんの思い出
まりんがまだ幼かった頃。幼稚園を卒業後、小中一貫の学校で、クラスメイトとなった細谷くんと出会った。
細谷くんのことを異性として意識し始めたのが中学一年生の頃。
当時、家で飼っていたトイプードルのララが老衰のため、まりんとその家族に見守られて息を引き取った。爽やかな五月の風が吹き抜ける、初夏のことだった。
まりんは、ララのことをとてもかわいがっていた。だから頭で分かっていても、ララと別れるのはとても
葬儀を執り行い、家族とともに最愛のララを天国まで送り出して数時間後。まりんはひとり、家を出た。
まりんには時に厳しく、時に優しい両親と、仲良しの兄がふたりいる。そんな家族に行き先を言わずに家を出て来たのは、これが初めてだった。
誰とも話したくなくて、誰もいないところに行きたい。ただひとりになれる時間が欲しくて、それが出来る場所を求めてまりんは、自宅から徒歩三十分圏内にある浜辺へとやって来た。
澄み渡る青空が広がり、緩やかな潮風が吹き抜ける浜辺にはまりん以外、誰もいなかった。
穏やかな波と潮風の音、それ以外はなにも聞こえない。先が見えないくらい、果てしなく続く海原を、暗い表情で見詰めるまりんの目から、大粒の涙がとめどなく溢れ出た。
まだ、人生の半数も生きていない自分よりも早く天国へと旅立った、最愛のララを想いひとしきり泣いた後、手の甲で涙を拭ったまりんが、もっと近くで海原を眺めようと歩き始めた、その時。慌てて浜辺に駆け付けた誰かがガシッと、まりんの左手首を掴んだ。
「細谷くん……?」
「……いきなり、ごめん。たまたまこの近くを通り掛かって……砂浜に、絶望的な顔をした赤園が立っているのを目にして、海に向かって歩き始めたから、思い留まらせようと思って」
真顔で手短に要件を伝えた細谷くんはなにか、とんでもない勘違いをしているらしい。息を弾ませているところを見ると、慌てて砂浜を駆けて来たのだろう。そんな細谷くんに腕を掴まれ、引き戻されたまりんは微笑むと、
「ありがとう。でも大丈夫。私は、命を粗末にしたりなんかしないから。ララの分まで生きるって、たった今、天国にいるララに向かってそう誓ったばかりなの」
「ララ……?」
まりんが口にした『ララ』の名前を耳にし、不可解な顔をした細谷くんに、まりんは一足先に天国へと旅立ったララのことを話して聞かせた。
「そうか……そんな事情があったんだな」
まりんからララの話を聞いた細谷くんは沈痛な面持ちでそう告げると、
「なぁ、赤園……迷惑じゃなきゃ、今から赤園の家に行ってもいいかな? 俺もララに、線香をあげたいんだ」
真剣な面持ちでそう、率直な気持ちをまりんに打ち明けて切願した。
「いいよ。細谷くんならきっと、ララも喜ぶし、うちの家族も賛成してくれる筈だから」
ふと優しく微笑んだまりんはそう告げると、細谷くんの申し出を快諾したのだった。
「今日は本当に、ありがとうね」
自宅前まで細谷くんを見送りに出たまりんはそう、控えめに微笑みながらお礼を告げた。
「いや、俺の方こそ……ララのこと、話してくれてありがとう。ずっと前に家で二匹の猫を飼っていたことがあって……だから、ララを亡くした赤園に共感したんだ」
細谷くんがそう、まりんと同じく控えめに微笑みながら返事をする。
「そうなんだ……良かった、少しだけでも細谷くんと気持ちがシェア出来て」
「俺もだよ。赤園と気持ちをシェア出来て、とっても嬉しい。だから……泣きたくなったらいつでも、俺のところに来ていいからな。大きい悲しみも、小さい悲しみも全部まとめて受け止めるから。また、お互いの気持ちがシェア出来るといいな」
これが細谷くんなりの、気遣いなのだろう。細谷くんは小学生の頃からしっかり者であったが、中学生になってから一段としっかり者になっているような気がする。単なる仲のいいクラスメイトの印象しかなかったが、この時からまりんは細谷くんのことを異性として意識するようになった。
基本、泣きたくなったら、ひとりきりになれる場所で思い切り泣く。それでも足りなければ、細谷くんのところへ行って事情を話すと、細谷くんはなにも言わずに抱きしめてくれるようになった。
「こうすれば、なにも見えないから、思い切り泣けるだろう?」
細谷くんがそう告げて、人前で泣くことを恥ずかしがるまりんに配慮してのことだった。
仲のいい友達にも言えないまりんの悩み事も、ときどき
気持ちをシェアするうちに恋が芽生え、最初は友達同士で遊んでいたまりんはいつしか、細谷くんとふたりでいることの方が多くなった。
そんなある日。家庭科の授業で、一階の調理室にて実習をしていた時のことだ。四人組の班に別れてカレーを作るための調理をしていたまりんはタマネギを切っている最中、うっかり包丁で指を切ってしまった。
細谷くんとは班が分かれていたが、保健委員ということもあり、細谷くんが保健室までまりんに付き添って行くことに。
「細谷くん、ありがとう。ごめんね……手当までしてもらっちゃって」
「いや、気にしなくていいよ。俺が勝手にやったことだから……けど、このくらいの怪我で済んで良かった」
控えめに微笑んで、申し訳なさそうに告げたまりんの、左中指に絆創膏を貼った細谷くんがそう、気さくに笑って返事をした。
「細谷くんって、本当に優しいね」
「相手が、赤園だからだよ。俺は、他の人にはこんなに優しくないから」
「え? それって、どう言う……」
その後の言葉は、不意に顔を近づけてきた細谷くんに遮られてしまった。
「こう言う……ことだから」
まりんの唇にキスをした細谷くんは、いきなりのことに頬を赤く染めてきょとんとするまりんの目を見詰めながらもそう告げた。
真顔で返事をした細谷くんの頬も赤く染まっていた。これがまりんにとって、細谷くんとのファーストキスだった。
それから時が流れてまりんはこの春、美南川県立美浜高校へと進学するにあたり、美舘山と言う名のこの町で新生活をスタートさせた。
時を同じくして、まりんの故郷からこの町に引っ越してきた細谷くんも、最寄り駅から自転車で五分ほどの距離にある、七階建てのマンションを借りて住んでいる。
そして、まりんと細谷くんは現在、県立高で唯一認められた、フラワーアレンジメント科のクラスメイトとして高校生活を送っているのだった。
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