堕天使降臨

「そう言えばさっき……ここにいた管理人さんに、祠に侵入してしまったって、あなたは言っていたけれど……」

「ああ、あれね……実は俺、この町に来たのは今日が初めてで……あちこち散策している内に日本家屋の、大きな屋敷を見つけて、興味本位で屋敷の中に入ったんだよ。

 そしたら地下室へと通じる階段を見つけて……堕天使が封じられている祠が、現世となるこの世界にあるのは知っていたけれど、まさかあの屋敷の地下室がそうなっていたのは知らなかったよ」

 興味本位で、祠に侵入したのは本当だったのか。

 青年のまじめな話を聞き、まりんは密かにそう思った。

「俺が、祠に侵入した時にはすでに、そこにある筈の堕天使の像が消えていて……誰かが、封印を解いた後だってのは、容易に察しがついたんだけど……堕天使も、堕天使の封印を解いた人物の姿も、祠のどこにも見当たらなくて。

 聞くところによると堕天使は根っからの悪で、利用価値がないと判断した人間の命を奪うと言う……取り返しのつかない事態になる前に堕天使と、その封印を解いた人物を捜し出さないと」

 この、まじめな青年の話にまりんはぞっとした。全身から、血の気が引いて行くのを感じるほどに。

「本当……なの?」

 フードを目深に被ったまま、恐怖で声を震わせながら、顔面蒼白になったまりんは、面前にいる黒髪の青年に問いかける。

「今の話……堕天使が、利用価値がないと判断した人間の命を奪うって……」

 真っ赤なロングコートを着て、フードを目深に被る女の子の様子が、今までと明らかに違っている。その異変に気付いた黒髪の青年が、真剣な面持ちで口を開きかけた、その時。

「本当だよ」

 黒髪の青年よりも早く返答した、若い男の甘い囁き声が、まりんの耳元で聞こえた。耳に掛かるくらいの、銀鼠色の髪に優しい目をした、二十代くらいの青年が、後ろからまりんを抱きしめていた。

「この青年の言う通り、私は根っからの悪だ。そして利用価値がないと判断した人間の命を奪う。このようにね」

 甘くも冷酷な雰囲気を漂わせて青年がそう告げた、次の瞬間。まりんの心臓がドクンッと大きく鼓動をしたのを最後に、動かなくなった。背後から抱きしめる青年の腕を掴んでいたまりんの手が滑り落ち、両腕がだらんとした。

「感謝するよ。ついさっきまでここにいた祠の管理人が張って行った結界に阻まれて、君に近づくことが出来なかったのだから」

 薄ら笑いの浮かぶ、冷めた表情をして、青年はまりんにそう告げた。意識を失ったまりんにはその言葉が届かないのを知っていながら。


「おい、お前……」

 悲惨な光景を目の当たりにし、言葉にならないショックから怒りへと変わった黒髪の青年が、爪が手の平に食い込むほどきつく指を折り曲げて感情を押し殺しながら口を開く。

「彼女に……なにをした?」

 ギロリと殺気に満ちた形相で相手を睨めつける黒髪の青年、意識を失ったまりんを抱いたまま、銀鼠色の髪をした相手が冷ややかな笑みを浮かべて返答する。

「堕天の力を使って、心臓を麻痺させた。もう二度と、彼女は目を覚まさない」

 相手がそう言い終わるか終わらない、絶妙なタイミングで黒髪の青年が迫り、相手のみぞおちに左手を翳し、空気圧で以てぶっ飛ばした。

 感情を押し殺し、怒りで体を震わせながら耐えてきたが、もう我慢の限界だ。黒髪の青年がぶっ飛ばした相手がしたことは断じて容認出来ない、残忍な犯行だった。

 とんでもない相手に手を出しちまったな。

 辺りが、不気味なほど静まり返る最中。さりげなく救出した、真っ赤なコートを着た赤ずきんちゃんの女の子を抱いて、ひとりその場に佇む黒髪の青年はそのことを軽く後悔したが、

 けど……目の前で人ひとりが殺されたら……誰だって、正気でいられなくなる。

 怒りに支配されていた心が冷静さを取り戻し、自分自身に言い聞かせるように内心そう思うに留まった。

「すっげーかわいい顔、してんじゃん」

 低い姿勢になり、赤ずきんちゃんが被るフードを脱がした黒髪の青年が、頬を染めて微笑むとそう呟いた。

 愛おしそうに見詰める黒髪の青年が抱く腕の中で、雪のように白い少女が、口を半開きにして永遠の眠りについている。まぶたが閉じられたその顔はかわいくも美しかった。

「ごめんな。俺がついていながら、助けてやれなくて」

 静かに謝罪した黒髪の青年は、少女にそっと顔を近づけるとキスをした。

 黒髪の青年がキスをした瞬間、少女の体が金色に光り輝いた。少女を包み込む、金色の光が消えたのを見計らい、黒髪の青年はキスを止めると顔を離す。

 まだ、人間には試したことがない蘇生術……うまく、成功しているといいけど。

 たった今、黒髪の青年が少女に使った蘇生術とは……その昔、時の神、クロノス様とカイロス様の許可の下、時の神殿内にある『修行の間』にて修行をしていた青年が習得した術のことで、死した肉体の中に魂が残っていれば時を逆戻りさせ、死した動物や植物など生きとし生けるものの命を救い、蘇らせることが出来る。今のところ、この蘇生術を使えるのは青年ただひとりだ。

 過去に一度だけ、時の神殿の近くを流れる運河を泳ぐ魚が死にかけていたところに遭遇し、蘇生術で以て、命を助けてやったことがある。それを、カイロス様に目撃されていたらしい。青年の傍まで歩み寄ったカイロス様が、厳格な表情でこう告げた。

「お前が使ったその術は、自然界の秩序を乱す恐れがある。そればかりか、術を習得したお前が悪しき者の手に渡れば、悪用されかねない。したがって、蘇生術を使うことを禁ずる。これに違反した場合、それ相応の罰が下るだろう」と。

 カイロス様に禁じられてから絶対に使わなかった禁断の蘇生術を使ってしまった。その時点で、時の神との約束を破った青年には、それ相応の罰が下る。後悔はない。蘇生術で彼女が蘇り、再びひとりの人間として人生を歩めるのなら。罰が下る、その前に……

 口を真一文字に結び、覚悟を決めた黒髪の青年。瞬時に出現した二本の銀色の剣を両手に、悠然と歩き出す。

 つけないとな。彼女を手に掛け、俺が喧嘩を売った、残忍な灰色の天使……悪しき堕天使との決着を。

 不意に立ち止まり、前方にいる相手と対峙する。黒髪の青年が眼光鋭く睨めつける視線の先、容姿端麗で清楚な服の上からねずみ色のロングコートを着た、こぎれいな佇まいに大きな灰色の翼を広げた美青年の堕天使の姿がそこにあった。

 今の俺には、時間をかけるだけの余裕はない。さっさと、決着を付けさせてもらうぜ!

 体の全神経を集中させ、深呼吸をした黒髪の青年。両手に携えた銀色の剣をクロスすると柄を瞬時に引き、発動した銀色の光線を撃つ。無数の刃となった銀色の光線が、涼しい顔をして佇む堕天使の体を掠めて飛び去って行く。

「……っ!」

 黒髪の青年が撃った光線が、思わず目を瞠った堕天使の、右肩を掠めて傷を負わす。

 ただの青年かと思いきや、この私の体に傷をつけるとは……

 黒髪の青年を軽視していた堕天使が、要注意人物として注視した瞬間だった。銀色のオーラを身に纏い、闘志の炎を燃やす黒髪の青年は今や、無敵の雰囲気を漂わせていた。

 あの様子では、闇雲に戦えばこちらの方が圧倒的に不利になる。やむなし……か。

 的確に判断した堕天使は黒髪の青年と戦うことを諦め、瞬時に姿を消すと退散したのだった。



 俺はただ、彼女の命を救いたかっただけなのに。なのに……なんで、こんな仕打ちを受けなきゃならないんだ?

 対峙していた堕天使を退散させた後のことだった。片田舎の、広大な田圃のまんなかに設けられたアスファルトの路面に、仰向けの状態で横たわる赤ずきんちゃんのもとへ戻った黒髪の青年が不意に立ち止まり、息を呑んだのは。

 真っ赤なコートを着た赤ずきんちゃんを抱いて佇む、容姿端麗な少年の後ろ姿が、ぎょっとする青年の視界に入っていた。

「まっ……待ってくれ!」

 ウェーブした焦げ茶色の長髪を一本結びにした小学生くらいの美少年が、赤ずきんちゃんを抱いて今にもどこかへ姿を消してしまいそうな気がして、黒髪の青年が慌てて待ったをかける。

「君は一体……彼女を、どうする気だい?」

 赤ずきんちゃんをお姫様だっこする少年がゆっくりと振り向き、黒髪の青年に応じる。

「お前は、禁忌を犯した。時の神との約束を破った罪は重い。彼女の身柄は、私が預かる」

 黒髪の青年をせんした少年の、冷ややかな返答を受け、驚愕した黒髪の青年はどっと冷や汗をかく。頭から目も覚めるほどの冷水をぶっかけられたような、全身から血の気が引くのを感じながら、黒髪の青年は冷静に尋ねた。

「まさか君……カイロス様……なのかい?」

「残念ながら、私は時の神ではない。が、クロノスとカイロスとは旧知の仲にある。故に、蘇生術のことも、それが禁じられていることも知っている」

 冷ややかな少年の返答を受け、黒髪の青年に緊張が走る。時の神と旧知の仲と言うことは、この少年もなんらかの神である可能性が高い。黒髪の青年は慎重に口を開く。

「少年、君は一体……」

「名乗るほどの者ではない。が……私は、お前よりはるかに格上であることは事実だ」

 厳格な表情をして、黒髪の青年を見据えながらも少年が、

「目の前で、大切な女性ひとを殺されたお前の気持ちは、分からなくもない。しかし、時の神との約束を破った以上、なんらかの処罰がお前に与えられるだろう」

 黒髪の青年の気持ちをんだうえで、厳格な口調でそう告げた、次の瞬間。

「うっ……!」

 目がくらむほどの強烈な金色の光が辺り一帯を照らし、思わず右腕で目元をカバーした黒髪の青年は気を失った。

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