堕天使との契約

 十字架に組まれた大理石の柱から白い天使の像が消えたのは、少しだけ力を入れて短剣を抜いた直後のことだった。忽然と姿を消してしまった白い天使の像にびっくりしたまりんが、呆然とその場に立ち尽くす。

「ありがとう、君のおかげで私は再び、自由を手に入れた」

 聞き覚えのある、若い男の声がした。その方向に、まりんが体の向きを変えると……耳に掛かるくらいの、銀鼠色ぎんねずいろの髪に優しい目をした、二十代くらいの青年の姿が、ぎょっとするまりんの視線の先にあった。

「さぁ、今度は君の願いを叶える番だ」

 青年はそう言うと、徐にまりんに近づき、手を取って、右手の甲にキスをした、次の瞬間。灰色の光が迸り、十字架と六芒ろくぼうせいのペンタクルの印が、まりんの手の甲に浮かび上がったではないか。

「これは、君が私と契約をした印だよ。私と契約関係にある間は、堕天使にしか扱えない、堕天の力が有効となる。堕天の力は、使い方によって力が変化する特殊能力だ。君の手で、三人の子供達と、子供達を守る彼を救ってやってくれ」

 ふっと、優しく微笑む青年から堕天の力と言う名の、特殊能力を授かったまりんは念を押すように、毅然と尋ねる。

「私との約束……忘れてないでしょうね?」

「忘れてはいないさ」

 微笑みを絶やさず、余裕のある口調で返答をした青年。徐に右手を、左手の甲にかざす。すると、まりんの右手の甲に浮かび上がったのと同じ印が青年の左手の甲にも浮かび上がった。

「この町と地球……地球に住む全人類に危害を加えない、誰ひとりとして殺さない。君と交わしたこの約束は今、この手に浮かぶ印に刻まれた。これにより、私は君との約束を破れなくなった。これでもう、安心だろう?」

「そうね……」

 余計なことは言わず、凜然と青年を見据えるまりんは、静かに返事をするに留まった。

 彼を信用するにはまだ、確たる証拠が不十分だわ。慎重に、気を張っていないとやられるわね。

 内心、まりんはそう思ったのだった。



 アスファルトで塗装された見通しのいい田圃道のどまんなかで、若い男ひとりと、気を失う三人の少年達を背に、結界越しに佇む美少年が対峙している。

「このままじゃ、ラチがあかねェな……」

 三つ編みに結わいた紫紺の長髪、紅蓮の炎を身に纏っているかのような、真っ赤な着物と袴姿の男は静かに呟くと、

「あまり、時間はかけたくない……そろそろ、決着をつけさせてもらうぜ」

 そう言って、右手に携えた剣を一振りし、刃となった青紫色の光線を撃つ。

 殺伐とした、冷ややかな雰囲気を纏い、男が放った一撃が、前方で対峙する少年が張る結界に命中。

 男の一撃で結界が打ち砕かれた、次の瞬間。熟れたリンゴのように真っ赤なロングコートを着た人物がひとり、構えた銀色の剣で以て、少年を切り裂こうとした青紫色の光の刃を受け止めた。

 フードを目深に被り、両手で野球のバットを持つ容量で銀色の剣の柄を握って力いっぱいスイング。青紫色の光の刃を、それを撃った相手めがけて撃ち返す。

「なかなかやるな」

 そう、ほんの少し体を動かして、飛来して来る光の刃を回避しながら、冷めた笑みを浮かべて男が感心の声をもらす。

「ここは、私が引き受けます。早く、子供達を安全な場所へ!」

 フードを目深に被り、真っ赤なロングコートで正体を隠したまりんが、美少年を背にしたまま、凜然とそう告げた。

「すまない……恩に着る」

 颯爽と駆け付けた女に危ういところを助けられ、冷静沈着に礼を告げると少年は、少女をまんなかにして道路に倒れる三人の少年達とともに姿を消した。


 目標を失い、しばらくの間、耕された広大な田圃の上を飛来していたが、やがて青紫色の刃が音もなく消えた頃。若い男女のふたりが、無言で対峙することしばし、冷めた含み笑いを浮かべる男が沈黙を破り、気取った口調で尋ねた。

「君、あの美少年と知り合いかい?」

 その問いに、まりんは凜然と返答。

「いいえ、まったく面識はないわ」

 まりんからの返答を受けて、男が腑に落ちない表情をする。

「ならなんで、手を出したんだ?」

「さぁ、なんでかしらね。私にも、よく分からないわ。ただ……」

 険しい表情をして尋ねた男に、クールな大人の女性を装い、返答したまりんはそこで区切り、

「目元がきりっとしたあの少年が、あまりにも美しかったから……絶体絶命のピンチを救いたいって、思ったの。だって私……この町で一位二位を争うくらい美少年、大好きだから」

 顔の角度をやや左側に逸らして、大人の色気を出して恥じらいながらもそう告げると、言葉を締め括った。フードを目深に被り、真っ赤なロングコートを着た女から動機を聞き、女と向かい合う男は真顔で即座につっこみを入れる。

「動機が単純なうえに不純だな」

「わっ……悪かったわね!」

 男につっこまれて、少々痛手を負ったまりんは恥じらいながらもそう、つんけんと返事をした。

「君のおかげで、重罪人を取り逃がしちまった……やつらと面識があるんだったら、君を餌におびき寄せることも出来たが……面識がないんじゃな。さァて、この落とし前……どうつけるか」

 なにこの人、いまさらっと怖いこと言ったね?

 まりんにとってそれは、面前にいる男に対してうっすら恐怖を覚えた瞬間であり、聞き捨てならないことでもあった。だが、関わり合いになりたくないのでスルー。その時ふと、まりんは男のある言葉に引っかかった。

「重罪人……?」

「君が大好きな美少年の背後に、三人の中学生がいたろう? やつらはな……この町のどこかにある祠を探し当てたんだよ。はるか遠い昔……そこに封じれた堕天使を退治するためにな」

 険しい顔をしてワケを話す若い男を、まりんは不可解に感じた。

「堕天使を退治するくらいなら……重罪に当たらないんじゃ……」

「君の言う通り、堕天使を退治するだけなら、重罪に当たらない。が、問題はそのやり方だ。

 やつらときたら……魔法と精霊の力でもって堕天使そのものを消し去り、無に還そうとしたんだ。それも、堕天使を封じたまま……めちゃくちゃだと思わないか? そんなことをしてもし、堕天使の封印が解けてしまったらどうするつもりだったんだか……」

 しばし、銀色の剣を右手に携えたまま、まりんは耳を澄ませていた。そうして、あの祠を訪れた人物が、自分自身の他にも存在していた事実を知ったのである。そのことに動揺したまりんは平静を装い、男の話に耳を澄ませ続けた。

「普通の子供だと思って油断したぜ……まさか本当に、精霊王と契約する魔法使いが、この現世に存在するなんて……な。

 予め、その情報を把握していた俺は、他県からこの町にやって来たやつらと接触し、祠に来た目的と理由を問いただしたところ、いま言った答えが返ってきた。

 俺は、堕天使が封じられている祠を管理している。立場上、看過することは出来なかった。祠の中で交戦するわけにも行かず、ここまでやつらを誘い出したのさ」

「祠を……管理しているんですか?」

 その、血相を変えたまりんの問いかけをきっかけに、険しさを帯びていた男の目つきが鋭くなった。まりんにとっては、予期せぬ新事実だ。動揺しているようにも取れるまりんの反応を、面前にいる男は不審に思ったのかもしれない。男が静かに返答をする。

「ああ、そうだ」

「でも、町の噂じゃ……先祖代々続く、強大な霊力を持つ退治屋としても知られるこの町の長者が、先祖が封じた堕天使が再びこの地に復活することがないよう、祠の上に屋敷を建てて監視をしていたと……」

「その通りだ。が……今から十年前にこの町の長者が病死したことで、強大な霊力を持つ、由緒ある退治屋家業が絶たれてしまった。

 俺は、長者の跡を継いで、祠の管理をしている。堕天使の封印が解けてしまうと、堕天使が保有する強大な力が暴発し、地球が消滅しかねない。

 祠の管理人として堕天使を監視する役目と、全人類の生命、そしてこの地球の命が俺の肩にかかっている。最悪の事態を避けるためにも、堕天使の封印は解いてはならないんだ。なにがなんでも、絶対にな」

 慎重に言葉を選びながらの、祠の管理人さんからの返答は、人助けとは言え、堕天使の封印を解いてしまったまりんに釘を刺しているようで、本格的に動揺させた。

「さっき、この場所であの美少年と対峙していた時のことだ。微かだが、誰かが祠に侵入する気配を感じた。まさか……君じゃないだろうな?」

 まりんを不審そうに凝視する祠の管理人さんの目が、ますます鋭さを帯びる。明らかに、まりんを疑っている。堕天の力で以て、目深に被るフード越しから男の様子を窺うまりんは返答しなかった。

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