ITにはくわしくても女のことは分かってらっしゃいませんね

仲瀬 充

ITにはくわしくても女のことは分かってらっしゃいませんね

「もしもし、川端さんのお宅ですか?」

「はい」

「あの、お宅のご主人、浮気してますよ」

「え?」

「知らなかったんですか? 普段からご主人の様子を気がけておいたほうがいいですよ。相手はご主人の会社の社員です」

「あなたはどちら様ですか?」

声からすると若い女性のようだが、電話は切れた。


幹子みきこはソファーに座って夫の行動を思い起こしてみた。

夫の健一はIT関連のベンチャー企業の社長をしている。

会社の経営は安定しているはずなのに残業と称して時々遅く帰ってくる。

先週の日曜日も一人息子の啓太が通う幼稚園の運動会だったのに会社に行くと言って出かけた。


◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


怪電話からひと月ほど経ったころ健一が中条洋子を伴って帰宅した。

中条は中年の女性で会社の顧問弁護士をしている関係から幹子とも面識がある。


健一は半年くらい前から若い女性社員と深い関係にあった。

戸田亜紀というその女性は宝石やバッグなどを欲しがることはない。

食事に連れて行っても値の張らない料理ばかりを注文した。

亜紀に逢うたびに健一は離れがたい思いが募っていった。


健一からそんな経緯とともに協議離婚の相談を受けて中条は今日、健一に同道したのだった。

「幹子、相談がある」

がんでも見つかったの? それとも愛人?」

この冗談めいた返しは夫が相談を持ち掛けたときの幹子の定番のフレーズだ。

あとのほうだ」

一瞬のはあったが、幹子はすぐに言った。

「愛人ができたのね。じゃあ、別れてあげようか?」


あっけらかんとした幹子の反応に中条のほうが驚いた。

「いいんですか、奥様? そんな簡単に」

「中条さん、主人は堅物かたぶつで真面目すぎるくらいの人です。だから浮気じゃなくて本気なんだと思います。そうでしょう、あなた?」

そう言って幹子は健一に顔を向けた。


「すまない」

健一は軽く頭を下げた。

「慰謝料なんかいらないわ。啓太の養育費だけちょうだい」

願ってもない申し出のはずなのに健一は返事をせずに中条を見た。

「奥様、社長は啓太くんを会社の後継者にしたいとお考えなんです」

健一に代わって中条が申し訳なさそうに言った。


「あ、そうなの。じゃ、啓太にも聞いてみましょう」

幹子は啓太をリビングに呼んだ。

「啓太、ママたちが離婚したらどうする?」

「リコンって何?」

「うーん、ママとパパが別々になったら、啓太はママとパパのどっちと一緒にいたい?」

「ママ!」


健一の表情が曇った。

「でもね啓太、ママはビンボーになっちゃうから、お菓子やゲームは買ってあげられないわよ」

「じゃ、パパ!」

啓太は無邪気に意見を変えた。


幹子は立ち上がって洗面所からブラシを持ってきた。

「風呂上りなのでごめんなさいね」

中条にそう断ってブラシで髪をとかし始めた。

「これで一件落着ね、あなた。私、近いうちに実家に移るわ」

幹子は髪をとかしながら健一にそう言った。


中条は幹子の様子をじっと見ていたが、先ほどと同じことを今度は深刻な声で言った。

「いいんですか、奥様? そんな簡単に」

「いいのよ、中条さん。私の幹子みきこって名前、『かんこ』とも読めるでしょう? それで学生の頃は友だちに『あっけらかん子』なんて言われてたくらいです」

にこやかに言う幹子とほっとしたような顔の健一を前にして、部外者の中条だけが戸惑った顔をしていた。


◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


数日後、中条は幹子の実家を訪ねた。

突発的な衝動から幹子は慰謝料を放棄したのではないか。

本人の幹子はともかく両親は離婚条件について不満を抱いていないか。

それらの確認のための訪問だった。

幹子の両親はさほど広くはない畑での野菜栽培で生計をたてており、中条が訪ねて行くと幹子は両親の手伝いをしていた。

社長夫人だった幹子が日よけの帽子を被って畑にいるのを見て中条は胸が痛んだ。


中条が声をかけると幹子は両親に断って作業を切り上げ家に案内した。

来訪の用向きを中条が伝えると、幹子自身はもちろん両親も不満には思っていないとのことだった。

親子そろっての欲のなさに中条は感心し安心もしたが、帰ろうとして腰を浮かせたとき幹子に呼び止められた。

「中条さん、ちょっと気になることがあります」


座り直した中条に幹子は言った。

「健一さんのお相手はひょっとしたら九州出身で電車の沿線にお住まいではありませんか?」

「そうです。戸田亜紀という社員ですけどご存じなんですか?」

幹子は離婚話のひと月ほど前にかかってきた電話のことを話した。

「その電話で、健一さんの様子を気がけておいたほうがいいと言われたんです。うちの親戚に九州の人がいて、その人も『気がける』という言葉をよく遣うんです。そして電話の最中に電車の通る音がしました」

「それならおそらく本人でしょうね。でもなぜ他人のふりをして電話なんか……」

「本人ならなおさら気になるんですけど、向こうが電話を切る直前、男の人の含み笑いが聞こえたんです」


◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


1週間後、中条は健一の自宅へ出向いて幹子の慰謝料放棄の報告をした。

「私も離婚の訴訟は数多く扱いましたが、あんなに欲のない方は初めてです」

「あっけらかん子で助かったよ」

「いえ、惜しい奥様を手放されました」

「いやに幹子の肩を持つじゃないか。それはともかく、亜紀を籍に入れようと思うが」

「おやめになったほうがよろしいです」

「いったいどうしたんだい? さっきから」


「差し出がましいとは思いましたが興信所をつかって戸田亜紀さんを調べました。彼女には男がいます。そして社長に見せる態度と違ってけっこう派手に遊び回っています。これがその報告書です」

そして中条は幹子から聞いた電話の話をした。

「男と共謀して社長をだましているんです。奥様に密告してご夫婦を揉めさせ、自分と手を切る慰謝料をせしめる魂胆だったと思われます。でも奥様が身を引いたのでそれ以上にほくそえんでいるでしょう。彼女と再婚したらそのうち別れ話を切り出されて財産分与まで迫られる可能性があります」


興信所の報告書を読み終えた健一はがっくりと肩を落とした。

「俺が馬鹿だった……」

健一は暫く頭を抱えこんでいたが、ぱっと顔を上げて中条を見た。

「幹子に謝ろう。そしたらあっけらかんと戻って来てくれるだろう」


中条は呆れ顔で言った。

「愛人の存在を知って嫉妬もせず離婚を持ち出された上に子供の親権まで取られてあっけらかんとしている、そんな女なんていませんよ」

「そう言うけど幹子は特別だよ」

「社長はITにはくわしくても女のことは何も分かってらっしゃいませんね。先日、奥様がブラシで髪をとかしていた時の手の震えにお気づきになりませんでしたか? 必死にご自分の心を抑えておられたんでしょう。信頼を裏切られた以上、奥様はお戻りにはなられません。密告の電話を受けて一か月、どんなお気持ちでおられたのか、他人の私でさえ胸が締め付けられます」


◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


健一と中条が沈鬱な表情で黙り込んでいるところへ啓太がやって来た。

啓太は父親の側に座るとテーブルにノートを広げた。

「啓太、漢字のドリルをやってるのか。偉いな」

力なく頭をなでながら健一は言った。


すると褒められた啓太は元気よく言った。

「ママも毎日漢字のドリルをやってたよ!」

健一と中条が不審な顔を向けると、啓太は走って奥の部屋へ行き、1冊のノートを持って来た。

観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時 照見五蘊皆空 度一切苦厄 舍利子 色不異空 空不異色 色即是空 空即是色 ……

300字近い『般若心経』が幹子の字で綴られている。

ノートには日付が記されており、密告の電話を受けたと思われる日からこの般若心経が毎日一度ずつ書き写されていた。


健一は不思議そうに言った。

「幹子は何でこんなことを?」

中条は潤んだ目を閉じて呟いた。

「奥様、嫉妬や怒りに狂いそうになる夜叉やしゃの心を写経でしずめようとなさっていたんですね……」

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