16-② 戯曲

やはりご立派な御仁である。そんな彼女を小馬鹿にするように見下ろして、くすくすと愉しそうに黒妃様は続ける。


「そう、戯曲。ふふふふ、いいわ、そうしましょう。これはね、わたくしと陛下のための戯曲なの」


ひらりと黒妃様の黒衣の袖がひらめいた。彼女の手、その人差し指がひたりと私へと向けられて、そうして彼女は笑みを深める。

憎悪とは熱く煮えたぎるものだと思っていたけれど、同時に冷たく凍える氷点下のそれでもあるらしいことを、彼女のまなざしが初めて私に教えてくれた。まったくありがたくはない。


「この戯曲はね、そこの醜女が、身の程もわきまえずに陛下に近付くところから始まるの。陛下はお優しくご寛容で、だから醜女をあわれんで、情けをかけてやってしまわれるのよ。ああ、なんておいたわしいこと。陛下にはわたくしという本当に愛する女がいるというのに!」


ばさり、と、大きな黒い両袖を広げ、黒妃様は歌うように朗々と続ける。それこそ本当に、彼女こそがとある戯曲の主人公であるかのように。

陶然とした響きが、お世辞にも綺麗とは言えない狭い納屋には、なんとも不釣り合いだった。


「醜女は卑怯な手を使って、香煙牌で勝利を収めるけれど……そう、醜女はしょせん、どこまでも醜女なの。性根が腐り切った愚かな女は、それで満足せずに、わたくし達……つまり、陛下の妃達すべてを弑殺しようとするの。陛下のおそばにはべるにはもともとふさわしくなかった、燦麗さんれい様と夕蓉ゆうよう様は、醜女風情に、いよいよ殺されてしまうのよ。ここまではおわかりかしら?」


くすくすと笑い交じりに確認されても、「はい解りました」とここで同意できるほど私も朱妃様も白妃様も、大人しく黒妃様が望む通りの“観客”にはなれはしない。とはいえあまりにも荒唐無稽な内容に言葉を挟むこともできず、ただただ唖然とするしかない。

そんなこちらの反応には構わずに、黒妃様はうっとりと瞳を細めて、白い頬を薔薇色に紅潮させた。


燦麗さんれい様と夕蓉ゆうよう様を手にかけた醜女は、いよいよわたくしにもその魔手を伸ばすのだけれど……わたくしは醜女に屈しなどしないわ。だってわたくしは陛下の妃。覇王の妻なのですもの。わたくしは、燦麗さんれい様と夕蓉ゆうよう様の仇を取るため、何よりも陛下のために、陛下への愛に懸けて、醜女を見事討伐するのよ。そして陛下は、愛ゆえに自らの手を汚してしまったわたくしこそを、改めてご自身の真実の愛であると気付かれて、わたくしを抱き締めてくださるの!」


左右に大きく広げていた腕で、ぎゅう、と、自らの華奢な身体を抱き締めて、甘く香り立つ貴腐酒に酔ったかのように黒妃様は目を閉じた。彼女のそのまぶたの裏には、きっと、ではなく確実に、夜昊やこう様に抱き締められている自らの姿がありありと浮かんでいるに違いない。


――なんてすさまじい思い込み……とは、言えないのでしょうね。


思い込みだけでできる真似ではない。黒妃様にとっては、今語ったその『戯曲』の内容こそが事実であり真実なのだ。

私の背後の朱妃様は、完全に唖然として硬直している。まさか黒妃様の本来のご気性がここまでのものであったとは思ってもみなかったらしいことが、その姿から窺い知れる。「こわ……」という朱妃様の小さなつぶやきが耳朶を打った。解る。怖いですよね。

白妃様は白妃様で、先ほどまであれほど怒りをあらわにしていたというのに、もはやそのかんばせににじむのは、明らかな呆れだった。彼女は彼女で「雪凛せつりん殿は思っていたよりヤバい」と感じているのが伝わってくる。解る。ヤバいですよね。

とはいえ、だからと言ってこのまま大人しく彼女の『戯曲』に乗っかってさしあげる義理はこれっぽっちもない。私も、朱妃様も、白妃様も。


雪凛せつりん姉様、そんなことをおっしゃらないでくださいませ! 雪凛せつりん姉様の陛下への想いは存じ上げておりますわ、でも、でも、だからってこんな真似……っ!」

「ああ、燦麗さんれい殿のおっしゃる通りだ。雪凛せつりん殿、その恋する乙女の姿は確かにお美しいものであるが、それにしても少々お痛がすぎるのでは?」


黒妃様のあまりの様子に若干どころでなくドン引きしつつも、朱妃様と白妃様が説得にかかる。だがしかし。


「ふふ、なんとでもおっしゃって? 今まで妃の座に居座って、陛下の御手をわずらわせていたその罪は、死以外では贖えないのですもの」


案の定無駄に終わった。黒妃様は最初から聞く耳などもっていないのだ。白妃様が小さく「チッ」と舌打ちし、朱妃様の恐怖に青ざめていたかんばせが、怒りゆえの赤に染まる。そして朱妃様は、私を押しのけるように前のめりになった。


「あ、あたくしがこんなところで死ぬはずがないわ! あたくしには煉鵬れんほうがいるもの、煉鵬れんほうがすぐに来てくれる!」


それは負け惜しみや時間稼ぎの言葉には聞こえなかった。朱妃様は心から、自身の護牌官である煉鵬れんほう様が助けに来てくれると信じているのだ。その可能性は、確かに皆無ではない。『女子会』という名目のお茶会から、朱妃様の姿が消えたことを、いい加減煉鵬れんほう様も気付いているはずだ。ならば彼が動かないはずがないし、白妃様とて、護牌官がいないにしても、彼女に仕える女官達が騒ぎ始めてもおかしくない。

けれど、そんな淡い期待を、黒妃様は、くす、と笑みを深めることでたやすく踏みにじる。その残酷な笑顔に、サッと朱妃様のかんばせがまた青ざめる。彼女もまた、察してしまったのだ。


「……っ煉鵬れんほうに、何をなさったの!?」


そう、『女子会』は、黒妃様発案のものであったはずだ。だからこそ朱妃様の護牌官である煉鵬れんほう様と、黒妃様の護牌官である氷雅ひょうが様は不在だった。そうだとも。今ここに、黒妃様のそばに、氷雅ひょうが様もまた同席していない、その理由は?


「答えてくださいませ、雪凛せつりん姉様! 煉鵬れんほう煉鵬れんほうはっ!?」


震える声を荒げる朱妃様を、さもうるさげに見下ろして、黒妃様はことりと首を傾げた。人形めいた仕草があまりにも美しく、そしてそれ以上に恐ろしい。


「さあ? わたくしは知らないわ。わたくしは燦麗さんれい様とは違ってあんな小僧には興味はないから、どうでもいいもの。けれど……まあ、無事ではないでしょうね」

「――――――――――っ!!」


ぼろりと、いよいよ朱妃様の瞳から大粒の涙がこぼれ落ちる。そのまま崩れ落ちるように額を地面に押し付けて、言葉もなくただ泣き出した彼女の姿を見てもなお、黒妃様の笑顔は崩れない。あえて言うならば、さもうっとうしい、とでも言いたげな笑顔、という、どこまでも好意からは程遠いそれである、ということくらいか。

朱妃様が声なく慟哭する姿に、白妃様の瞳にいよいよ、金属のような鋭い怒りの刃が宿る。


雪凛せつりん殿。こんな真似をして、本気でご自身が陛下に愛されると思っているのか?」

「あら、夕蓉ゆうよう様。それは違いますわ。わたくしはもともと陛下に愛されていますもの。その愛がより深く、熱く、強くなるだけ。その姿をお見せできないのが残念……いいえ、残念でもないわ。わたくしを愛する陛下は、わたくしだけが知っていればいいのですもの」


そうでしょう? とうっとりとまなじりを緩める黒妃様に、白妃様は「は」と短く笑った。吐き捨てるようなその笑い声に、不快げに黒妃様の柳眉がひそめられる。けれど構うことなく、自らの現状を理解していながらもその上で、白妃様は不敵に笑った。


「俺はてっきり雪凛せつりん殿はもう少し冷静で賢く、冴えたお方だと思っていたのだが、とんだ見込み違いだったようだ。陛下の御心が誰のもとにあるのかも気付いていないとはな」

「……なんですって?」

「どちらが本当の佳人であり、どちらが本当の醜女であるか……。なあ宝珠ほうじゅ殿、そのかんばせを黒妃様に見せてさしあげたらどうだ?」

「えっ」


そ、それはどういう意味ですか!? と突然話を振られて戸惑いつつ、ひええええええ、とおののくしかない。いまいち自信はないけれど、間違いなく白妃様は、黒妃様を挑発していらっしゃる。

もしかして現状打破のための策をお持ちに……? と彼女を見遣って、私はスンッと後悔した。猛る虎のごとき獰猛な白妃様の笑顔に、もはや理性はない。このお方、完全にブチ切れていらっしゃる。となると先ほどの発言は策があるからこそのものではなく、ただ本当に怒りのあまりに無謀な喧嘩を売っただけ、ということだ。

まさかこんな挑発に黒妃様が乗るとは思えないけれど、それにしてもここでそれはないのでは、と顔を引きつらせると、何やら視線を感じた。

嫌な予感しかしないけれど放置するにはすさまじすぎる冷気をともなった視線だったので、恐る恐るそちらを見上げる。秒で後悔した。黒妃様が、なぜか、先ほどまで薔薇色に紅潮させていた花のかんばせを、憤怒と……それから、なんだろう、なぜか敗北感を感じさせる表情に変えて、真っ赤にそれを染め上げていた。

ひえ、とおののく私を前にして、黒妃様は自らを落ち着かせようと二度ほど深呼吸をして、それから懐から、二枚の神牌しんはいを取り出した。


「……なんであるにしろ、陛下に愛されるのはわたくしだけであるという事実には変わりはなくてよ。まずは燦麗さんれい様と夕蓉ゆうよう様をこのために作らせた神牌しんはいで片付けて、それからわたくしが手ずから作った神牌しんはいで、醜女を仕留めてさしあげる。醜女ごときがわたくしの神牌しんはいに触れらるなんて、光栄に思ってくださいましね」


自らの絶対的な優位を確信し、改めて微笑みを取り繕う黒妃様の姿に、今度こそまずい、と私もまた改めて局面に直結している自分を思い知らされる。

わざわざ神牌しんはいを二枚用意したのは、のちのち調査が入ったときに、私が朱妃様と白妃様を弑殺したあとに、黒妃様が自らの神牌しんはいで私を討伐した、という事実を確固たるものにするためだろう。

今にも「来来ライライ」と口にしそうな黒妃様。まずい、まずい、まずすぎる。こんなところで死ぬわけにはいかない。だってこんなところで私が死んだら。


――夜昊やこう様。


あのどうしようもなく優しい方は、きっと、悲しんでくれるから。それを嬉しいと思う以上に、辛いと、そう思えるから。だから私は、ここで諦めるわけにはいかないのだ。

何か、何か、少しでも時間稼ぎを――――と、そこまで思って、ハッと気付く。その気付きは、そのまま勢いよく口から疑問となって飛び出した。


「せ、青妃様は!?」

「え?」


私の問いかけは、どうやら黒妃様にとっては不意打ちだったらしい。ぱちりと大きく瞬く黒い瞳を見上げながら、必死に言葉を紡ぐ。まだ、まだだ。諦められない。諦めて、たまるものか。


「青妃様は、どうなされたのですか? あの方もまたお妃様のお一人。黒妃様にとっては許しがたき存在のお一人なのではないのですか?」


そうだとも。自分でも驚くほど意識していなかったけれど、ここに不在のお妃様がいる。そう、青妃たるしゅん淑蕾しゅくらい様だ。黒妃様が朱妃様と白妃様を殺すと言うならば、青妃様もまた同様に殺すという選択肢を取らなくては説明がつかないし納得ができない。

どうして、と唇をわななかせると、ぱち、ぱち、とゆっくり瞬きを繰り返した黒妃様もまた、「今更ですこと」と小さく笑った。


「何を言うかと思えば、そんなことを。時間稼ぎにしては随分とつたない……でも、そうですわね、教えてさしあげる」


にこりと笑みを深めて、黒妃様は、とびっきりでとっておきの秘密を打ち明けるように、わざとらしく声を潜めた。


淑蕾しゅくらい様は特別でしてよ」

「とく、べつ?」

「ええ。だってそもそもこの『戯曲』を書き上げてくださったのは、淑蕾しゅくらい様ですもの」


だからとくべつ、と続ける彼女の姿に、言葉に、理解が追いつかなかった。

青妃様が、この『戯曲』を……この殺人計画を、企てた? 黒妃様は、そうおっしゃっているのか。


「なんだと!?」

「しゅく、らい、ねえさままで……?」


白妃様にとっても朱妃様にとっても、それは本当に予想外であり想定外であったらしい。驚愕をあらわにして黒妃様を見上げる二人と、呆然と固まっている私を見下ろして、黒妃様はふふと笑った。


淑蕾しゅくらい様はね、わたくしがお前達を片付けて、陛下といよいよ添い遂げたら、自ら身を引いてくださるそうよ。だからあの方だけは、特別に見逃してさしあげることにしましたの」

「身を引くって、どうして……」


そういえば、夜昊やこう様もおっしゃっていた。青妃様は夜昊やこう様にとっては、姉君のようなお方であると。だから、ということなのか。でも、その夜昊やこう様にとって姉君のような方が、こんな計画を思いつく、その理由が思いつかない。

私がまぬけにぽかんと口を開けている姿がよほど面白かったらしい黒妃様はくすくすと続けて笑い、どこか自慢げに続ける。


「どうしても何も、だって淑蕾しゅくらい様には、もともと陛下ではなくて、別のところに、心から想うお方がいらっしゃ……」


る、と。そう、続けられるはずだったのかもしれない。けれどそれを確かめることはできなかった。

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