16-① 納屋

……身体が、重い。

ゆるゆると緩慢に浮上する意識の中で、最初に感じたのはその感覚だった。耐えがたいほどの倦怠感が全身にまとわりついて、自分の身体が本当に自分の身体であるのか疑わしくなるほどである。

それでもなんとか全力をかけて身動ぎしようとして、自分の意思とはまるで反する拘束を強いられていることに遅れて気付く。

これはいったいどういうことだろう。私はいったいどうなってしまっているのか。何もかもが遠くて、重苦しくて、どろりとした汚泥に呑み込まれるようにまた意識が沈んでいきそうになる。それはきっととてもよくないことで、そんなことは誰に指摘されずとも私自身が一番よく解っているつもりで、けれど抗うことができないままに意識がほどけて、またそのまま私は――――……。


かい宝珠ほうじゅ! 起きなさいったら!!」

宝珠ほうじゅ殿! しっかりしろ!!」

「……っ!?」


私のすべてに重たくまとわりつく闇を切り裂く、愛らしい声と凛々しい声。何度も繰り返し名前を呼ばれ、そうしてようやく私は、その必死な響きを宿した二つの声に導かれ、重くて仕方がないまぶたを、もう根性だけでかろうじて持ち上げた。

そうして最初に目に入ったのは、私の顔を覗き込む、大きく愛らしい赤い瞳と、切れ長で凛々しい白銀の瞳。顔を合わせるたびにそれらの美しさにひそかに感動していたものだけれど、こうして間近で見るとなおさら感激してしまう。なんて綺麗なのだろうか。

そのままほけっと二対の瞳に魅入られている私を、赤い瞳の持ち主である朱妃様はじれったそうに見つめ返しながら「ぼさっとしてるんじゃないの!」と叱咤し、白銀の瞳の持ち主である白妃様は「目が覚めたようで何よりだ」と安堵したようにそのまなじりを柔らかくした。

そんな二人をやはりぼうっとしたまま見上げて、私はことりと首を傾げる。その拍子に、やっと自分が、手足を縛られた状態で、地面に転がされていることに気が付いた。我ながら鈍すぎる。

よくよく見てみなくても、私を左右から挟み込むようにしてひざまずき、こちらを見下ろしている朱妃様と白妃様も、同様に手足を縛られている。おそらくは彼女達ももともとは私と同じように地面の上に転がされていたのだろう。その上で、自身の力でかろうじて身を起こし、私の意識を引きずり上げてくれた、といったところか。

となれば私とていつまでもこのままではいられない。相変わらず全身が重くて仕方がないけれど、構ってなどいられるものか。身をよじり、腹筋の力を全力で振り絞って、やっとの思いで上半身を起こすことに成功する。


「朱妃、様。白妃様。これは、いったい……?」


なんとか声を絞り出しつつ、周囲を見回す。薄暗く狭い建物だ。古びた掃除道具や洗濯用の桶など、下町においてはなじみ深い、後宮に放り込まれてからはとんと目にしていなかった日用雑貨が乱雑に積み上げられている。

ほこりっぽい空気に、思わず、けほ、とむせてしまう。それこそが、この建物には長らく人の気配がなかったであろうことが容易に窺い知れる、更なる証拠の一つとなる。

駄目だ、まだ頭にもやがかかっている。けれどのんびりその感覚に浸っているわけにはいかないことはあまりにも明らかだった。

朱妃様の、常ならばくるくると万華鏡のように変化する豊かな表情は、今は硬く強張っている。白妃様だって、私の知る限りではどんなときも快活で朗らかな、余裕を湛えたかんばせのはずであるなのに、その唇に描かれた弧がどこかいびつだ。


「おそらくここは、後宮の片隅の、もう使われていない納屋だ。俺達が意識を失ったあと、ご丁寧にもこうして縛り上げて運び込んでくれた者がいるらしいな」


困ったものだ、と軽口を叩くその声音にもまた、どことなく白妃様らしからぬ焦りがにじみ出ている。

『意識を失ったあと』という言葉に、やっと「あ」と思い出した。私は……いいや、私ばかりではなく、私達は。


「黒妃様から頂戴した月餅を食べたら、急に意識が遠くなって……」


遠のく意識の中で聞いた、凍えるように冷たい声が耳朶にまざまざとよみがえる。


――陛下に近付く女は嫌い、みんなみんな大嫌い!

――だからお前達は、みぃんないらないの。


倒れ伏す私達を見下ろしてそう嗤った彼女の姿を、どうして今の今まで忘れていられたのか、いっそ不思議に思えてしまう。我ながら平和ボケしすぎだ。となるとこの現状、つまるところの、手足を縛られた状態で助けを求めるのが困難極まりないであろう納屋に閉じ込められている、という状況を作り出したのは、黒妃様ということになる。

私が「まさか」と、思わず呟くと、白妃様が「そのまさからしいな」と、手足を縛られた状態のまま器用に肩を竦めた。正確に私の意図をくみ取ってくれた白妃様の姿に、「ああ……」と溜息とも同意ともつかない、吐息なのか相槌なのか解らない声がこぼれる。

黒妃様にとっては不名誉極まりない感想だろうけれど、申し訳ないことに驚愕よりも納得が先に立ってしまった。あのご気性、陛下へのご執着を鑑みるに、彼女が大人しく私と和解しようとするはずがなかったのだ。まあそりゃそうだ、ごもっともである。

それに気付かず、彼女が差し出してきた、間違いなく眠り薬のたぐいが仕込まれていたであろう月餅をおいしくいただいてしまったのは、間違いなく私の手抜かりだ。


――だって、まさか朱妃様と白妃様まで一緒にだなんて思わなかったんだもの……!


言い訳だとは解っているけれど、それでもそう反論せずにはいられない。まさか私ばかりか、他のお妃様方までまとめてだなんて、誰が想像できたというのか。私が見ている限り、お妃様方の仲は普通に良好であったように思う。互いに認め合い、尊重し合い、それぞれが夜昊やこう様の妻としての役割を果たそうとしていたはず、だ。

それがどうして、と内心でつぶやくと、まるでその私の言葉にしなかったつぶやきを聞き拾ったかのように、「違うわ!」と朱妃様が声を荒げる。


「ありえない、雪凛せつりん姉様がこんな真似をするはずがないわ! きっと、そう、きっと何かの間違いよ!」

燦麗さんれい殿、だが……」

「だが、も、何もないの! 夕蓉ゆうよう姉様は雪凛せつりん姉様を疑われるの!?」

「……疑うも何も、ほぼほぼ確定した事実だ」

「ち、違うわ、違うもん、そんなことな……っ!」


朱妃様は駄々をこねるように、涙目になってなんとか黒妃様を庇おうとする。けれど彼女もまた解っているのだろう。今のこの状況を作り上げたのが、黒妃様であるという、白妃様の言葉を借りれば『ほぼほぼ確定した事実』を。

理解しているからこそ、納得したくなくて、朱妃様は幼子のように「違う、違う」と繰り返している。そんなあまりにも悲痛な様子に、私と白妃様がせめてものなぐさめの言葉をかけようと口を開こうとした、そのときだ。

がちゃん、と。扉の向こうで、鍵が開けられる音がした。私達がはっと揃って息を呑み、その扉の方向へと視線を向けると、じれったいほどゆっくりと、その扉が開いていく。


「――――あら。もう全員、目が覚めていらっしゃるのね」


薄暗かった納屋に、光が差す。逆光を背負って立ちながら、そうつまらなそうにつぶやいたのは、やはり、言うまでもなく黒妃様そのひとだった。

身構える私と、まなざしを鋭くする白妃様とは裏腹に、朱妃様が「ああ!」と嬉しげな歓声を上げる。


雪凛せつりん姉様! 助けに来てくださったのね!」


雪凛せつりん姉様がご無事でよかった、と涙ぐみながら続ける朱妃様の姿はやはり愛らしく、けれどだからこそ、この場においては悲しいほどに滑稽だった。

黒妃様がす、と足を踏み出して、納屋の中に入ってくる。喜びに目を輝かせている朱妃様を見下ろして、彼女はあわれむように黒瞳をすがめた。


「まあ、燦麗さんれい様。この期に及んでまだそんな甘いことをおっしゃるなんて、あなたの護牌官のあの小僧は、本当にあなたを甘やかしていらっしゃるのね」


感心したように黒妃様は二度ほど頷き、くす、とその紅のさされた唇に、綺麗すぎる三日月を描く。雪のように白い肌に生える、血のように赤い三日月だ。

その冷え冷えとした残酷な微笑みに、朱妃様の笑顔が凍り付く。


「せ、つ、凛姉様……?」

「ああもう、こんな甘ったるい小娘が今までわたくしの陛下のおそばに侍っていたなんて! そこの醜女よりはましだけれど……ええ、そうですとも、やっぱりわたくしは嫌。耐えられない。まとめて片付けることにして正解でしたわ」


呆然と座り込む朱妃様をやはり冷たく一瞥して、黒妃様はほう、と物憂げな溜息を吐き出す。はかなく可憐な粉雪のような風情でありながら、すべてを飲み込む吹雪のごとき激情を孕んだその声に、ごくりと息を呑む。

聞き逃がせるはずがない彼女の台詞に、「やはり」と白妃様が低く口火を切る。


「これはあなたの企てか、雪凛せつりん殿」

「まあ、夕蓉ゆうよう様。企て、だなんて。まるでわたくしが悪いことをしているような言いぶりはよしてくださいまし」


酷いわ、と赤い唇をツンと尖らせる黒妃様を、白妃様はますます厳しくにらみ据え、くくっと喉を鳴らした。ぞっとするほどに低い声で彼女は続ける。


「ならば戯曲とでも呼ぶべきだろうか。題名は、『我らが覇王陛下への恋』とでも名付けようか?」


白妃様の、笑み交じりの声に宿る怒りをすべてぶつけられながらも、黒妃様は泰然とそこにたたずみ可憐に微笑み続ける、その姿はいっそ異様だった。


「まあ、戯曲だなんて! 夕蓉ゆうよう様にしては素敵なことをおっしゃってくださるのね。武門ばかりで芸事はまったく不得手の猿女だとばかり思っていたのに、意外ですわ」


さも驚いたと言わんばかりに両手を口元に寄せ、黒い瞳をきらめかせた黒妃様は、嬉しそうに微笑みを深めた。その所作のすべてが可憐極まりないのに、紅い唇から吐き出される猛毒にぞっとする。

朱妃様が呆然と「雪凛せつりん姉様……?」と呟き、もとから涙目になっていたかんばせをさらに今にも泣き出しそうにゆがめるものだから、私は僭越ながら膝立ちで彼女を背に庇う。

毒を真正面から浴びせられた白妃様は平然としており、だからこそ余計につまらなくなったのか、黒妃様はすぐに「でも」とその柳眉を寄せた。


「やはり猿の浅知恵だわ。『我らが覇王陛下への恋』だなんて、飾り気も捻りもないつまらなさすぎる題名だもの。『金と黒の比翼連理』くらいの題名は出していただかないと、観客の心は掴めなくてよ」

「はは、これは手厳しい」


とんでもない侮辱を受けているというのに、白妃様は笑っている。彼女が怒りを覚えているのは確かだけれど、自身への侮辱に対する怒りではなく、黒妃様の今回の『企て』に対する怒りこそが、今の彼女を突き動かしているらしい。

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