14-① 覚醒
闇の中を歩いている。右も左も上も下も、いっそ前も後ろも解らなくなってしまいそうな、どこまでも暗く、昏く、深く、遠い、無音の闇だ。
ここはどこだろう、と思いつつ、ただのんびりと歩み続ける。なぜだか足を止める気にはなれなかった。立ち止まってしまったら、今度こそ私という存在はこの深淵のような真っ暗闇の中に吞み込まれてしまいそうだったから。
それなのに不思議なことに、怖くはない。むしろ居心地がいいとすら思えるのだから、ううん、繰り返すが不思議なものである。
足場があるようには見えないのに、てくてくてくてく、この足は闇の中を進む。たぶん、進んでいる、はずだ。確証はまったくないけれども。どうして私はこんなにも余裕たっぷりで自信満々なのだろうか。そう首を傾げて、ようやく気付く。この闇の中、私の一歩前を行きながら、私の手を引いてくれている、その存在に。あ、と思わず声にならないまま吐息をもらすと、彼は肩越しにようやくこちらを振り返ってくれた。
「
相変わらず中性的に整った美貌に、記憶そのままの快活な笑みをにっと浮かべて、彼は頷いた。そう、頷いてくれたから、私は込み上げてくる涙も嗚咽もごくりと飲み込んで、かろうじて笑い返してみせた。だって彼はいつだって「お前は笑顔が似合う」と、彼の教え通りに顔に大きな傷を描く私に、言い聞かせてくれたから。
「私、頑張ったんですよ。
養父はまた無言のまま頷いた。ちゃんと口に出して褒めてほしいのに、この人はそういうところは朴念仁だから、笑顔で頷くだけで伝わると思い込んでいる。
だから一緒に暮らしていたときだって、勘違いする女性どころか男性までいて、それはもうとんでもない刃傷沙汰に発展したことだってあったというのに、まだ凝りていないのかこの人は。
仕方のない人だなぁ、と呆れつつ、同時に喜んでしまっている自分がいることにはすぐに気付いた。変わっていない。私の手を引くこの人は、私が知る通りの養父であり、間違いなく彼であるのだということを確信する。
「ねえ
我ながら随分と情けない、甘えたな声が出てしまった。でも、これが本心だった。
ずっとずっと会いたくて仕方がなかった、いつだって私を助けてくれる人。養父こそが、私にとっての英雄であり、いつまでもその腕の中で甘えていられるのだと信じていた。だからこそ今もこうやって、私のことを迎えにきてくれたに違いない。彼が導く先がどこかだなんて知らないけれど、どこだっていい。これからずっと一緒にいられるのならば、それだけでいい。
それなのに。
――お前を助けるのは、これが最後だ。
それなのに、困ったように養父は眉尻を下げて、そう言った。
どうしてそんな酷いことを言うのだろう。十年前に私を助けてくれたのはこの養父であり、これからもそうあってくれるのだと信じ続けていた。その私の心からの信頼を……いいや、願望を、裏切って、この人は私の手の届かないところへ逝ってしまった。
……ああそうだ、そうだった。私のこの手を繋いでくれているこの人は、もう、どこにもいないのだ。
そんなことはもうずっと前から解っていた。そう、解っていたからこそ、今この人がここに、私の目の前にいてくれるのだという現実を手放したくない。現実なんかじゃなくて、夢かもしれない。幻かもしれない。そんなことは知ったことか。私は、この手を、放したくない。
それなのに養父は、困ったように笑って、これ以上なく優しく、そして残酷に、繋いでいた私の手の指を一本ずつ、丁寧に引き剥がしていく。
そうして彼はすっと長い人差し指で、とある一点を指差した。何もない、闇だけが広がるこの場所では、いくら指差されたってどうしようもないというのに、それなのに、私は気付いてしまった。
――――――――――
私を呼んでくれる、その声に。気付きたくなかった。気付かなければよかった。
それでも私が気付いてしまったから、養父は私をいよいよ手放してしまう。
――
――
幾度となく私を呼ぶその声に宿る、あまりにも必死で懸命で、切実な響き。
それでもなお耳に心地よい、朗々と響き渡る祈りの声に導かれ、この闇に一条の光が差す。きらきらと輝く、まばゆいばかりの金色の光が、私の前に一筋の道を形作る。
――私はお役御免だ。
――お前を助ける役目は、どうやらもうこの手から搔っ攫われてしまったらしいからなぁ。
悔しげに、さびしげに、そして何よりも嬉しげに、そう言って養父は笑った。
何ですかそれ。意味が解りません。そう言いたいのに、声が出ない。いかないで、
――いきなさい、
――あのお方が、お前をお待ちだ。
解っているだろう、と続けられて、私は自分の敗北を知った。
いまだに私のことを呼び続ける声。
「……
私が負け惜しみのようにそう言うと、養父はその切れ長の瞳をぱちくりと瞬かせたあと、大きく破顏して、深く頷きを返してきた。
いや笑いごとじゃないんですけども、とその笑顔をにらんでから、結局私もまた笑った。養父が望んでくれた通りに、私は笑えるようになった。それがあのお方のおかげなのかもしれないと思うと、なんともまあ悔しいものだけれど、まあ仕方ない。あの方は、どうしようもなく仕方のないお方だから。
「さようなら、
そう笑いかける私の背を、養父はそっと押してくれた。確かなぬくもりに後押しされ、そのまま私は、目の前に続く金色の道を駆け出した。本当は声を上げて泣いてしまいたかったけれど、それでも笑顔で前へ前へと走る。
――――――――――
「はい、
だから、もう少しだけお待ちくださいませ。そう内心で呟いて、私はそのまま、気付けば闇を払拭し、何もかもを染め抜く金色の光の中に飛び込んだ。
「…………あれ?」
ぱちり、と自分のまぶたが持ち上がるのを、他人事のように感じた。ここはどこ、私は誰……などと使い古された冗談のようなことを考えてから、視界に映る天井が、普段から私が使わせていただいている黄妃宮の私室の天蓋であり、私の名前は
ええと、私はどうしたのだったか。とりあえず夢を見ていた気がするのだけれども、どんな夢だったかはさっぱり覚えていない。とても嬉しくて、同じくらいにとてもさびしくなる夢だった気がするのだけれども、どうあってももうそれを確かめるすべはない。
うーん、と声なく唸りつつ、現状把握に努めることにする。なんだっけ、ああそうだ、
とりあえず全身が鉛のように重く、節々はミシミシギシギシどこもかしこも悲鳴を上げている。それでもなんとか悲鳴をこらえつつ首と腕を動かして身体を見て、おやまあ、とまたまばたきをした。
私の衣装が清潔な夜着へと交換されていて、おそらくは
「……
聞き覚えがありすぎる声に、はい、と答えたつもりだった。けれど喉からこぼれたのはひゅうひゅうという情けない呼吸音で、これは気付かれなかっただろうな、と思った。そう、思ったのに。
「っ
それなのに
「
いや明らかに目を開けているでしょうが。そう突っ込みたくてもやはり唇からは吐息しかこぼれず、びっくりするくらいの至近距離でこちらの顔を覗き込む彼に、まばたきだけでなんとか「是」の意を伝える。わあ、こんなに間近でもなおお美しいお顔でいらっしゃる……と感心する間もなく、彼はそのまま、私が横たわっている寝台に突っ伏した。
「よか、った……もう三日も眠り続けていたから……」
え、三日? あの
あらまあ、とぱちぱちとまばたきを繰り返す私に、ようやく顔を再び持ち上げた
「侍医はいつ目覚めるかも解らないとね。龍氣を使い果たして、君のここ……この額の龍穴もかなり損傷していて、できる限りの処置はほどこしたけれど……そう、できる限りのことをしても、君は目覚めなかった。あとは
……それはもしかしてもしかしなくても、私はかなりまずい状態であったのではなかろうか。これはあれか、身体のあちこちの傷を物理的に治療してあるのは、その必要がなかったからではなく、そこまで手を回す余裕がなかったから、ということか?
まさかそこまで、と驚きつつ、
「っ!」
「
案の定ぐらりとめまいに襲われ、そのまま寝台から転げ落ちそうになった。そんな私を軽々と受け止めてくださった
「無理はやめなさい。ああでも、起き上がってくれたならちょうどいいか。はい、薬湯」
私を抱きかかえるように支えたまま、寝台の横の小さな卓の上に置かれていた青磁の瓶から、
「
「!!」
冗談なのか本気なのかまったく解らない発言を真顔でされてしまっては、飲まないという選択肢はない。片手では心もとなかったので、重くて仕方のない両腕をなんとか持ち上げて、震える両手で包み込むように杯を受け取り、えいやっと中身をあおる。
「なんだ、残念」
「……な、にが、残念、ですか」
思ったよりも苦くない、むしろ甘味すら感じた薬湯のおかげか、まだかすれてはいるけれども、声を発することができた。
私の渾身のツッコミに対し、
なんとも反応に困る
「改めまして、おはよう、
「え、あ、おは、よう、ございます、
そして続けられた言葉は、どうにもこうにも気が抜けてしまうもので、だから私は彼の腕から逃れることもできないまま、大人しく同じ言葉を繰り返すだけになってしまう。
おかしい、私はまだ限界のところから目覚めたばかりの身の上である。いくら皇帝陛下がお相手であるとはいえ、ここはまたすぐに寝台に寝かせてくれてもいいのではなかろうか。それくらいの慈悲をたまわっても許されてしかるべきだと思うのに、この覇王サマときたら、そんな私の無言の訴えを見事な笑顔で圧殺して、さらに自らの身体に、私の身を引き寄せてくださいやがった。
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