14-② 接吻
これで
「……お疲れ様」
「…………はい」
「誰も彼もが驚いていたよ。もちろん僕もね」
「さよう、ですか」
「ああ、それはそうでしょう? まさか本当に君が、妃達全員を敗北に追い込むなんて、誰も想像していなかったのだから」
それなのに、と
「
私が勝利することを、この方もまた、信じていなかったというのか。そんな馬鹿なことがあってたまるかという気持ちで彼を見上げると、彼は困ったように微笑んだ。その笑顔が、何よりの答えだ。否定をされたわけではない。けれど何よりの肯定が、目の前にある。
そうと理解した瞬間、ぶわり、と。自分の中でくすぶっていた何かが、大きく牙をむいて私を飲み込んだ。
「……私、申し上げましたよね」
声が震えてしまったのは、身体に蓄積している疲労のせいではない。怒りだ。圧倒的な怒りが、私を突き動かして、もう止まれなくなってしまう。
私を抱きかかえるように支えたままの彼の胸を無理矢理押し返し、「
小さく息を呑む彼に構うことなく、さらに唇を震わせる。
「私、ちゃんと、申し上げたじゃないですか。ちゃんと、ちゃんと、私、四つの勝利を
ああ、そうだとも。誰が信じていなかったとしても、この方だけは、私の勝利を信じていなくてはならなかった。信じていて、ほしかった。解っている。これは私のわがままだ。
けれど理解はしていても納得できるはずがないのだ。こんなにも許しがたいことがあるだろうか。だって、だって、私は。
「こ、わ、かった」
絶対に言うつもりがなかったその一言、その感情。それが唇からこぼれ落ちてしまって、もう後には引けなくなってしまう。
「……うん」
穏やかな声だ。優しい声だ。甘い、声だ。改めてそっと抱き寄せられて、無性に腹が立って、それでも抗うことはできなくて。
「こわかった、んです。本当に、本当に、何度も、今度こそ死ぬかもって、そう思って」
「うん」
朱妃様の朱雀。白妃様の白虎。黒妃様の玄武。青妃様の青龍。どれもこれも本来であれば適うはずもない相手だった。それでも勝てたのは、彼女達であれば、
でも、それでも万全ではない。勝てる可能性は低かった。勝てなければ、死ぬことは解っていた。死なないにしても、今後生きていくにあたって満足な状態でいられる保証は限りなく低かった。それでも。それでも私は、
「でも、でも、絶対に負けるつもりは、なかったんです。絶対に、絶対に勝つって、決めていたんです」
「うん」
「それ、それなのにっ!」
それなのに、なんて裏切りだろう。ひどい、と唇をわなかせると、
「……ごめん」
「なんで謝るんですか!」
そう声を大きく荒げて、ずきん、と痛んだのは、身体ではなかった。私よりもよっぽど痛そうな顔をしてこちらを見つめてくる
「ちが、違うんです、ごめんなさい、違うんです、私、私、あやま、謝ってほしいわけじゃない……!」
なんて身勝手で理不尽なことを言っているのか。困らせている自覚はある。無礼討ちされたって文句は言えない。
「……うん」
そっと、そっと、背を撫でてくれるぬくもりに、ぐうっと喉が鳴った。けれどここで泣くのはあまりにも情けなくて、悔しくて、だから唇を噛み締めてこらえる。そんな私を、信じられないくらいに優しく見つめながら、
「そうだね。僕は謝るべきじゃなかった。謝ってはいけなかった。謝罪は、すべてを懸けて戦ってくれた君への侮辱だ。この件については、もう一度謝る」
そうですよ、やっとご理解いただけましたか? そう問いかけようにも、嗚咽をこらえる私は、唇を痛いくらいに噛み締めたまま黙りこくることしかできない。
天下の覇王サマに謝罪させるだなんて、どんな不遜な“寵姫”だろう。少なくとも私のことではない。絶対に違う。だったら私は、覇王サマ――――
「改めて、正しい答えを言おう」
赤くなっているであろう唇をなぞって、それから、
「ありがとう、
そう言って、優しく甘く、私の知らない熱を宿した瞳で、笑みをさらに深めた。
あまりにも美しすぎるその微笑みに魅入られて、完全に動けなくなる私の背に、いよいよ彼の両腕が回される。ああ、まただ。また、抗うことができない。耳元で紡がれる言葉に、何もかもがさらわれていく。
「ありがとう。心から礼を、きみに捧げさせてほしい。
何よりも、ともう一度繰り返して、
「生きていてくれて、ありがとう」
「っあ……っ」
もう、限界だった。こらえていた涙が、嗚咽が、堰を切ったようにあふれ出す。止めようとしても止まらなくて、まるで子供みたいに泣きじゃくり始めた私の背を、
――――そうして、どれほどの時が経っただろう。
「……落ち着いた?」
「は、い。大変、失礼いたしました……」
ひくっ、ひくっと喉が鳴って、やっと涙が収まって、ぐずぐずと鼻を鳴らす私の、もうべっちゃべちゃの情けない顔を、涼しい顏をなさっている
そのくせ、私がぐしぐしと夜着の袖で顔をぬぐい始めると、「赤くなってしまうよ」と、自らの上等な衣の袖でそれはそれは優しく顔をぬぐってくださるのだから、本当にもうこのお方、いったいどうしてくれようか。
――……どうしようもないわね。
養父以上にどうしようもない男性に出会うことはないだろうと思っていたけれど、まさかここに来て……といっそ感動も感激ともつかない、どちらにしろあまりいい意味ではない感情をどうしたものかと考えていると、不意に
「だから、君の望みだよ」
「はい?」
いきなりである。何の話だ。そんな私の疑問はそのまま顔に出ていたらしく、
「皇帝たる僕を困らせてしまうくらいの望みを用意してくれるのでしょう? さあ
なんでも叶えてあげる、と、あまりにも傲慢なことを、とんでもなく甘い声音で
ああ、異国において古くから語られる、悪魔と呼ばれる魔性の存在は、きっとこんな風に迷える子羊なる人間を惑わすに違いない。
「私の、望みは」
まっすぐに。決して逸らすことなく、彼の金色の瞳を見つめ、口を開く。
「私の望みはただ一つにございます」
「ふぅん?」
何だろう、と面白そうに笑う
私が、このお方に望むこと。そんなこと、たった一つに決まっている。
「この国の民が……いいえ、民ばかりではございません。誰よりも、何よりも、
あなたこそが、を強調した私の目の前で、金色の瞳が大きく、ゆっくりと見開かれていく。信じられないものを見るようなその瞳に映り込む私の顔は、やはり笑顔だった。心からの、祈りと願いを込めた笑顔だ。
「どうかそんな未来を、私めにくださいませ」
どうか、どうか叶えてください。この私、
そうして深々と頭を下げる。ここでひとつ、見事な一礼でも決めてみせられたならば恰好がついたのだろうけれど、生憎この状態ではどうすることもできやしない。
「……酷いな」
だからこそ彼は、そのまなじりに涙をにじませて、その声をなおも震わせる。
「とんだ絵空事だ。なるほど、確かに、皇后の座が安いと思えるくらいに、僕が困ってしまうくらいに、途方もない望みだね」
困ったなぁ、と、彼は、やはり泣き出しそうに笑う。その拍子にこぼれかけた涙に、思わず手を伸ばした。その手が彼の頬に触れる前に、
――え?
唇が、奪われたのだと。そう気付けたのは、随分遅れてからだった。長い、長い口付けだ。呼吸すら奪われて、硬直するしかなくなり、それからやっと酸素を得ること許されたときには、
「…………え?」
天井を見上げてこぼした声は、誰に聞き拾われることもない。
ただこちらに背を向けて去っていった
そのまま私は、ただただ呆然と、自然と睡魔が訪れるまで、時が過ぎていくのを待つばかりだった。
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