14-② 接吻

これで夜昊やこう様の私の扱いがとんでもなく雑で、私が痛みに悲鳴を上げてしまうようなものであったならば、さすがに文句の一つでも言えたのに。それなのに彼の私の扱いは、これ以上なく、いっそ信じられないほどに丁寧で優しいものだから、私は何も言えなくなってしまい、大人しく彼にされるがままになるしかない。


「……お疲れ様」

「…………はい」

「誰も彼もが驚いていたよ。もちろん僕もね」

「さよう、ですか」

「ああ、それはそうでしょう? まさか本当に君が、妃達全員を敗北に追い込むなんて、誰も想像していなかったのだから」


それなのに、と夜昊やこう様は苦笑する。苦笑でもなおやはり麗しい笑みではあるけれど、それでごまかされたくない台詞が、今の彼の台詞には含まれていた。それだけは聞き捨てならない、許せない発言を、どうして聞かなかったことにできようか。


夜昊やこう様、も、ですか?」


私が勝利することを、この方もまた、信じていなかったというのか。そんな馬鹿なことがあってたまるかという気持ちで彼を見上げると、彼は困ったように微笑んだ。その笑顔が、何よりの答えだ。否定をされたわけではない。けれど何よりの肯定が、目の前にある。

そうと理解した瞬間、ぶわり、と。自分の中でくすぶっていた何かが、大きく牙をむいて私を飲み込んだ。


「……私、申し上げましたよね」


声が震えてしまったのは、身体に蓄積している疲労のせいではない。怒りだ。圧倒的な怒りが、私を突き動かして、もう止まれなくなってしまう。

私を抱きかかえるように支えたままの彼の胸を無理矢理押し返し、「宝珠ほうじゅ、身体に障るから」と笑顔ながらも慌てる夜昊やこう様を、まっこうからにらみ上げる。

小さく息を呑む彼に構うことなく、さらに唇を震わせる。


「私、ちゃんと、申し上げたじゃないですか。ちゃんと、ちゃんと、私、四つの勝利を夜昊やこう様に捧げてみせるって」


ああ、そうだとも。誰が信じていなかったとしても、この方だけは、私の勝利を信じていなくてはならなかった。信じていて、ほしかった。解っている。これは私のわがままだ。夜昊やこう様が私の勝利を確信できなかったなんて当たり前の話で、私に怒る権利はない。それだけの実力を彼に示してこなかった私に非がある、そんなことは解っている。

けれど理解はしていても納得できるはずがないのだ。こんなにも許しがたいことがあるだろうか。だって、だって、私は。


「こ、わ、かった」


絶対に言うつもりがなかったその一言、その感情。それが唇からこぼれ落ちてしまって、もう後には引けなくなってしまう。

夜昊やこう様がわずかに目を瞠り、そうして、彼は静かに、穏やかに首肯する。


「……うん」


穏やかな声だ。優しい声だ。甘い、声だ。改めてそっと抱き寄せられて、無性に腹が立って、それでも抗うことはできなくて。


「こわかった、んです。本当に、本当に、何度も、今度こそ死ぬかもって、そう思って」

「うん」


朱妃様の朱雀。白妃様の白虎。黒妃様の玄武。青妃様の青龍。どれもこれも本来であれば適うはずもない相手だった。それでも勝てたのは、彼女達であれば、香煙牌こうえんはいにおいて四神を呼び出すに違いないという確信があり、もともと対策を立てておけたから、というのはある。

でも、それでも万全ではない。勝てる可能性は低かった。勝てなければ、死ぬことは解っていた。死なないにしても、今後生きていくにあたって満足な状態でいられる保証は限りなく低かった。それでも。それでも私は、香煙牌こうえんはいに臨んだ。どれだけ怖くても、私は、それでも。


「でも、でも、絶対に負けるつもりは、なかったんです。絶対に、絶対に勝つって、決めていたんです」

「うん」

「それ、それなのにっ!」


それなのに、なんて裏切りだろう。ひどい、と唇をわなかせると、夜昊やこう様は途方に暮れたような表情になった。


「……ごめん」

「なんで謝るんですか!」


そう声を大きく荒げて、ずきん、と痛んだのは、身体ではなかった。私よりもよっぽど痛そうな顔をしてこちらを見つめてくる夜昊やこう様の顔に、身体よりももっとずっとよっぽど心のほうが痛くて、痛くて仕方なくて、「あ、ああ」と私は顔を両手で覆う。


「ちが、違うんです、ごめんなさい、違うんです、私、私、あやま、謝ってほしいわけじゃない……!」


なんて身勝手で理不尽なことを言っているのか。困らせている自覚はある。無礼討ちされたって文句は言えない。香煙牌こうえんはいを生き延びたのに、ここでまさか覇王サマご自身に斬り捨てられたら、それはもう笑い話だな、なんて、冗談のように思って、やはりそんな冗談、何一つ笑えなくて。


「……うん」


そっと、そっと、背を撫でてくれるぬくもりに、ぐうっと喉が鳴った。けれどここで泣くのはあまりにも情けなくて、悔しくて、だから唇を噛み締めてこらえる。そんな私を、信じられないくらいに優しく見つめながら、夜昊やこう様は続けた。


「そうだね。僕は謝るべきじゃなかった。謝ってはいけなかった。謝罪は、すべてを懸けて戦ってくれた君への侮辱だ。この件については、もう一度謝る」


そうですよ、やっとご理解いただけましたか? そう問いかけようにも、嗚咽をこらえる私は、唇を痛いくらいに噛み締めたまま黙りこくることしかできない。

天下の覇王サマに謝罪させるだなんて、どんな不遜な“寵姫”だろう。少なくとも私のことではない。絶対に違う。だったら私は、覇王サマ――――夜昊やこう様にとっての、“何”なのか。言葉にできない問いかけを飲み込む私の唇に、夜昊やこう様の指先が触れる。思わず、噛み締めていた力が緩んで、あ、と声を漏らすと、彼はふわりと微笑んだ。


「改めて、正しい答えを言おう」


赤くなっているであろう唇をなぞって、それから、夜昊やこう様は。


「ありがとう、宝珠ほうじゅ


そう言って、優しく甘く、私の知らない熱を宿した瞳で、笑みをさらに深めた。

あまりにも美しすぎるその微笑みに魅入られて、完全に動けなくなる私の背に、いよいよ彼の両腕が回される。ああ、まただ。また、抗うことができない。耳元で紡がれる言葉に、何もかもがさらわれていく。


「ありがとう。心から礼を、きみに捧げさせてほしい。香煙牌こうえんはいに臨んでくれたこと。四人もの妃を、見事降してくれたこと。それから、何よりも」


何よりも、ともう一度繰り返して、夜昊やこう様はその、私を描き抱く両腕に、さらに力を込めた。


「生きていてくれて、ありがとう」

「っあ……っ」


もう、限界だった。こらえていた涙が、嗚咽が、堰を切ったようにあふれ出す。止めようとしても止まらなくて、まるで子供みたいに泣きじゃくり始めた私の背を、夜昊やこう様はやはり優しく、ゆっくりと、なぐさめるように、甘やかすように、無言で撫で続けてくれた。ずっと、ずぅっと、彼は飽きることも飽きれることもなく、ただ私に寄り添い続けてくれる。

――――そうして、どれほどの時が経っただろう。


「……落ち着いた?」

「は、い。大変、失礼いたしました……」


ひくっ、ひくっと喉が鳴って、やっと涙が収まって、ぐずぐずと鼻を鳴らす私の、もうべっちゃべちゃの情けない顔を、涼しい顏をなさっている夜昊やこう様が覗き込んでくる。前から思っていたけれど、ちょっとずつこのお方、女心が解っていないところをお持ちである。

そのくせ、私がぐしぐしと夜着の袖で顔をぬぐい始めると、「赤くなってしまうよ」と、自らの上等な衣の袖でそれはそれは優しく顔をぬぐってくださるのだから、本当にもうこのお方、いったいどうしてくれようか。


――……どうしようもないわね。


養父以上にどうしようもない男性に出会うことはないだろうと思っていたけれど、まさかここに来て……といっそ感動も感激ともつかない、どちらにしろあまりいい意味ではない感情をどうしたものかと考えていると、不意に夜昊やこう様が「それで?」と首を傾げた。え? と首を傾げ返すと、どこかじれったそうに夜昊やこう様は整った眉をひそめた。いやそんな顔をされましても。んんん? とさらに深く首を傾けると、「だから」とやはりじれったそうに彼は続ける。


「だから、君の望みだよ」

「はい?」


いきなりである。何の話だ。そんな私の疑問はそのまま顔に出ていたらしく、夜昊やこう様の顔に、またしても苦笑が広がり、そしてそれは、今度はいたずらげなそれへと変わった。


「皇帝たる僕を困らせてしまうくらいの望みを用意してくれるのでしょう? さあ宝珠ほうじゅ、君は何を望む?」


なんでも叶えてあげる、と、あまりにも傲慢なことを、とんでもなく甘い声音で夜昊やこう様はささやく。

ああ、異国において古くから語られる、悪魔と呼ばれる魔性の存在は、きっとこんな風に迷える子羊なる人間を惑わすに違いない。


「私の、望みは」


まっすぐに。決して逸らすことなく、彼の金色の瞳を見つめ、口を開く。


「私の望みはただ一つにございます」

「ふぅん?」


何だろう、と面白そうに笑う夜昊やこう様に、私も笑い返す。その途端、なぜか驚いたように笑みを消してぽかんとする彼からやはり目を逸らさないまま、続ける。

私が、このお方に望むこと。そんなこと、たった一つに決まっている。


「この国の民が……いいえ、民ばかりではございません。誰よりも、何よりも、夜昊やこう様。あなたこそが、当たり前に笑って暮らせる未来を」


あなたこそが、を強調した私の目の前で、金色の瞳が大きく、ゆっくりと見開かれていく。信じられないものを見るようなその瞳に映り込む私の顔は、やはり笑顔だった。心からの、祈りと願いを込めた笑顔だ。


「どうかそんな未来を、私めにくださいませ」


どうか、どうか叶えてください。この私、かい宝珠ほうじゅの、たった一つの望みを。

そうして深々と頭を下げる。ここでひとつ、見事な一礼でも決めてみせられたならば恰好がついたのだろうけれど、生憎この状態ではどうすることもできやしない。

夜昊やこう様は何もおっしゃらない。長い長い無言が続く。そろそろ不安になってきて、そっと顔を上げた私は、大きく息を呑んだ。そこにあったのは、今にも泣き出しそうな、そのくせどうしようもなくやはり美しくて仕方のない、くしゃくしゃに歪んだ笑みだった。


「……酷いな」


夜昊やこう様は、自分がどんなお顔をなさっているのか、自覚しているのだろうか。きっと、していないのだろう。だってこんな顔を見せたら、相手がどうなってしまうのかなんて、たやすく想像できるに違いないのだから。

だからこそ彼は、そのまなじりに涙をにじませて、その声をなおも震わせる。


「とんだ絵空事だ。なるほど、確かに、皇后の座が安いと思えるくらいに、僕が困ってしまうくらいに、途方もない望みだね」


困ったなぁ、と、彼は、やはり泣き出しそうに笑う。その拍子にこぼれかけた涙に、思わず手を伸ばした。その手が彼の頬に触れる前に、夜昊やこう様自身にぎゅっと握り込まれてしまって、そしてそれから、彼の顔が近付いてきて、そうして。


――え?


唇が、奪われたのだと。そう気付けたのは、随分遅れてからだった。長い、長い口付けだ。呼吸すら奪われて、硬直するしかなくなり、それからやっと酸素を得ること許されたときには、夜昊やこう様のかんばせからは笑みはすっかり消えていた。遠のいていくその美貌を名残惜しく思う間もなく、彼はてきぱきと私を再び寝台に横たえさせてしまい、私は逆らうこともできず、彼が無言のまま踵を返して去っていくのを、見送ることしかできなかった。


「…………え?」


天井を見上げてこぼした声は、誰に聞き拾われることもない。

ただこちらに背を向けて去っていった夜昊やこう様の、いつもならば白い耳が、これ以上なく赤く染まっていたことだけが、やけに鮮明に脳裏に焼き付いている。

そのまま私は、ただただ呆然と、自然と睡魔が訪れるまで、時が過ぎていくのを待つばかりだった。

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