8-① 油断

今宵も私が貸し与えられている私室に、胡弓の優美な調べが広がっていく。

夜のしじまをときにくすぐり、ときにもてあそび、なんとも意地悪な風情でありながら、そのくせときにただ穏やかに寄り添いそっと優しく肌を撫でてくれるかのような、弾き手の性格の複雑怪奇さをそのまま表す、毒と蜜を併せ持つ、どうしようもなく魅惑的な響き。


――慣れたらまずいって解っていたはずなのに、慣れてしまったわ……。


今夜もまた往生際悪く、できる限り寝台の片隅に身を寄せて、天蓋の向こうで胡弓を奏でていらっしゃる陛下、もとい夜昊やこう様に気付かれないように小さく溜息を吐き出した。

先日の夜昊やこう様による「今夜から一緒に寝る」という爆弾発言は、撤回されることなく、そのまま私が押し切られる形で実行に移されている。

夜昊やこう様との城下へのお出かけ、彼曰くの『逢引』以来、若干……本当に若干、幸か不幸か喜ぶべきか悔やむべきか、彼との距離がうっかり縮まってしまった気がするけれど、それはそれ。彼と同衾を続けるか否かはまったくの別問題である。

だからこそ、私だってそれ以降も、大人しくその同衾を受け入れたわけではない。考えうる限りの抵抗はしたし、最終的に、寝台の片隅で寝るだけでは無駄であるのならば、こっそり夜昊やこう様が寝入ったあとに床に降りて、そこでそのまま寝る、なんて真似もした。

だがしかし、朝になって起きてみたら、また寝台の上で夜昊やこう様に抱き締められていたとき、私は敗北を悟らざるを得なかった。

無理だ。勝てない。もとより、毎日積み重なる神牌しんはいの修繕と制作で疲れ果てている自覚があるこの私。睡眠は貴重な休息だ。覇王サマのきまぐれによってその大切な時間を奪われるのは不本意極まりなく、結局私は、大人しく彼の抱き枕となることになった。

案の定人の口に戸は立てられずに、既に宮中では、『陛下はすっかりキズモノ女にご執心。夜ごと通っていらっしゃるのだから、さぞかし具合がいいのだろう……』なんていう、下世話なうわさがしっかりばっちり流れているのだとかなんとか。陛下は「狙い通りだね」と笑ったが、私はまたしても頭と胃が痛くなった、とは余談である。

そして、今夜も陛下は、私を寝かしつけるために、胡弓をつま弾いていらっしゃる。今宵彼が奏でているのは、昨今城下で流行しているのだと言う恋歌らしい。らしい、というのは、夜昊やこう様がそう言っていたのを聞いただけで、私が直接その流行に触れたわけではないからだ。というか。


夜昊やこう様」

「何かな。眠らないのかい?」

「いえ、眠る気は満々なのですが、夜昊やこう様が恋歌を奏でられるなんて珍しいと思いまして」

「そう?」

「はい」


一番最初の同衾の夜に私が彼に願ったのは古い郷愁歌で、その後の夜も彼は私が眠るまで胡弓を奏でてくださっているけれど、その曲はどれも、郷愁歌と同じく古くから伝わる曲……童謡であったり民謡であったりと、流行から程遠いものばかりだった。それなのに今日に限って、流行の恋歌だなんて、なんだか随分と珍しいものを聞かせていただいている気がする。

いったいまたどんなご心境の変化なのかさっぱり解らない。横たわっていた寝台から上半身を起こして、そのまま寝台に腰かける形になって天蓋を持ち上げると、胡弓を手を休めないままこちらを見つめている夜昊やこう様の金色の瞳と目が合った。ああやっぱり綺麗だな、と感嘆する私に気付いているのかいないのか、彼はその瞳にいたずらげな光を宿す。


「僕とてたまにはこういう曲を選ぶこともあるさ。特に宝珠ほうじゅ、君相手ならばなおさらね」

「はあ……それは、ええと、誠に光栄にございますね……?」

「ふふ、そうでしょう」


明らかにからわれていることが伝わってくるので、こちらもこちらであいまいに笑い返すと、くつくつと夜昊やこう様は喉を鳴らした。そしてそのまなざしを、彼は再び私の顔へと向ける。彼の視線が辿っていくのは、今夜もばっちり気合いを入れて描いた私の顔の傷痕だ。


宝珠ほうじゅは、その傷痕を、ずっとそのままにしておくつもり?」

「え? ええ、もちろんそのつもりでございます。亡き養父が残してくれた大切な教えですもの」

「ふぅん。もったいないね。まあ確かに、君の素顔がアレでは、君の養父殿の心配もごもっともなものなのだろうけれど」


いやでもそれにしても、と、夜昊やこう様はまじまじと私の顔を見つめてくる。嘲笑するわけでも同情するわけでもない、ただ純粋な納得だけがにじむそのまなざしの意図するところは、残念ながら私にはいまいち理解できなくて、「はあ」とやはりこれまたあいまいに頷くだけに留める。


「まあいいか。それよりも宝珠ほうじゅ、君はそろそろ眠りなさい。最近、ますます無理を重ねているようじゃないか」

「無理だなんて、そのようなことは。私は普通に創牌師そうはいしとしての仕事をこなしているだけで……」

「修繕される神牌しんはいと、制作される神牌しんはい。どちらも明らかに量が増えているよ。それだけ君自身も疲弊しているはずだ。だからほら、さっさと寝なさい。恋歌では落ち着かないのならば、また……そうだな、郷愁歌を奏でようか?」


からかうように告げられて、思わずむっとする。これでも自分の限界は理解しているつもりだし、創牌師そうはいしとして無理をしているつもりはない。けれどそれでも夜昊やこう様には、そんな私の姿は“無理をしている”ように見えるらしい。

見くびられている、わけでは、ない。それくらいは解る。とてもとてもとっっっっっても解りにくいけれど、どうやらこの覇王サマ、一応私の心配をしてくれているらしいのだ。繰り返すが、とっっっっっても解りにくいけれど。

でも、その『心配』は、私だけに向けられるべきものではないはずだ。


夜昊やこう様こそ、毎夜、私よりも遅くまで起きていらっしゃるではありませんか。夜昊やこう様の政務は激務であるとは私とて聞き及んでおります。夜昊やこう様の胡弓を拝聴する名誉はありがたく存じますが、それよりも、夜昊やこう様こそお早くお休みになられるべきかと」

「おや、それはいよいよ、僕との共寝のお誘いかな?」

「同衾を望むつもりは決してございませんが、結果としてそうなってしまう件については私ももう諦めております」

「そこは嘘でも『ぜひ一緒に』くらい言ってほしいところなのに」

「申し訳ございません、正直なところだけが取り柄でして」

「君の取り柄が正直な気性だけだったら、この五星国の創牌師そうはいし達は皆、廃業を余儀なくされるね」


それはまた随分と買いかぶってくださるものだ。私くらいの創牌師そうはいしなんて、市井ではともかく、宮中にはごろごろしているだろうし、何よりも誰よりも、お妃様方こそが素晴らしく優秀な創牌師そうはいしとして、ご自分のおそばにいらっしゃると言うのに。

夜昊やこう様のこの発言がここだけの話であってくれて助かった。覇王、と呼ばれながらも、確かに人心を掌握し、民草に慕われている夜昊やこう様に手放しで褒められたことが知られたら、「あんなキズモノごときが!」とさぞかし反感を買うことになるに違いない。

考えるだけでおっそろしいなぁ……なんて遠い目になる私を見つめたままくつくつと喉を鳴らした夜昊やこう様は、そうしてようやく、その手を休め、胡弓を手放して椅子から立ち上がった。


「じゃあお言葉に甘えて、僕も寝ようかな。ほら宝珠ほうじゅも横になりなさい」

「……かしこまりました」


当たり前のように寝台に入ってくる夜昊やこう様に促され、再び身体を横たえる。その真横に夜昊やこう様もまた横になった。そしてこれまた当たり前のように彼の腕が、私の腰に回されて、かろうじて保っていた距離を一気に詰めるように引き寄せられる。

驚きはしない。なぜならば、悲しいことに慣れてしまったからだ。この覇王サマ、私のことを完全に抱き枕だと認識していらっしゃる。

これ以上なく間近で見る彼の麗しのご尊顔に緊張を強いられ、なかなか寝付けなかったのは最初の数日だけだった。人間とは慣れる生き物で、確かに毎回「今夜もお美しくいらっしゃいますこと」と感心すれども、「胸の高鳴りがうるさくて眠れない!」なんてことにはならないのだから本当に人間とはよくできている。

わざわざ向かい合わせになって眠らなくてはならない件については、それはもう物申したいことは山とあるけれど、どうせそれらの一つとしてまともに受け取ってはもらえないに違いない。よって私が選ぶのは沈黙だ。さっさと目を閉じようとすると、不意に、私の腰に回されていた陛下の手が、私の顔に触れた。正確には、化粧で描いた傷痕に、だ。


「本当に、もったいないね。いつかこの化粧を落として、本当の君の姿で、僕のために着飾ってほしいな」


その声に、冗談も嘘もなく、ましてやからかいの感情なんてかけらもにじんでいなかったものだから、反射的に息を呑んでしまった。

この傷痕がある限り、私は誰にとってもキズモノの醜女として扱われ続けるのだろう。そんなことは最初から解っていた。十年前に、養父からもそう言われている。

私に傷痕の化粧を伝授する養父は、「すまない」と、私よりもよっぽど辛そうな顔をしていた。この傷痕は、私の女としての幸せを奪うことになると、養父は誰よりもよく理解していたに違いない。それでもなお、彼は、私の身の安全を優先してくれた。その選択をどうして恨めるだろう。むしろ今もなおずっと感謝し続けている。


――――――――――でも。


「そう、ですね」

「ん?」

「いつか、そんな日が、来るのかもしれませんね」


いいや、本当は解っている。そんな日なんて、きっと永遠に私達のもとには訪れない。

この傷痕は、私が私であるために必要な、文字通りの私の身体の一部だ。今更素顔をさらしたって、どれで私にどんな利があるというのだろう。今となっては数えるほどにもなくなってしまった、今は亡き養父との繋がりを、また一つ自ら断ち切るような真似なんてしたくない。

けれどそれでも夜昊やこう様が、まるで私を普通の乙女のように扱ってくださるから。だから、少しだけ、本当にほんの少しだけ、期待してしまう。私自身がありえないと定めた『いつか』。その『いつか』に、もしも本当にたどり着ける日が来るのならば、きっとそのとき、私と夜昊やこう様の関係は、今とは異なるものになっているに違いない。だからこそ余計に、その『いつか』はやってくるはずがないと解るのだ。

そんなつもりもないのにまるで言い訳のようになってしまった私の答えに、夜昊やこう様はいつもの穏やかな笑みに、わずかな苛立ちをにじませた。いつも同じ美しいばかりの笑顔を浮かべていらっしゃる方だけれど、その笑顔にも様々な意味や意図や感情が、意外と豊かににじむことに気付いたのはいつだったか。明らかにご機嫌が斜めになった夜昊やこう様に、ごまかすように私は「あの」と口火を切る。


「ええと、その、とはいえ夜昊やこう様」

「何?」

「まだ言うか、と思われるかとは思いますが、そろそろ同衾の必要性はなくなったのでは? お妃様方が動かれる様子もございませんし、夜昊やこう様も私と二人で寝てばかりいては、ご心身をなかなか休められないでしょう。今夜はともかく、明日からでも……」


そう、自分でも「まだ言うか」という話だが、そろそろこの同衾を重ねる日々に終止符を打ってもいいころ合いではないかと思うのだ。

私と夜昊やこう様が、ここ連日同じ夜を過ごしている、とは既に後宮中に知られるところにある。当然、お妃様方の耳にも届いているはずだ。たとえ本当に添い寝だけで、男女の関係になったわけではない、としても、そんなことは関係がない。重要なのは、皇帝陛下たる夜昊やこう様が、後宮において、妃でもない女官風情のもとだけにお渡りになり続けている、という点である。

この事実、特に黒妃様にとっては許しがたいことこの上ない案件だろう。一度しかお会いしたことはないけれど、夜昊やこう様へのあのご執心ぶりを鑑みるに、本来であればもう毎夜刺客が送り込まれてきても過言ではないのではないか、とすら思われる。

けれどそんな気配は今のところまったくなくて、私はのびのびと……とまではいかないまでも、快適にバリバリ創牌師そうはいしとして神牌しんはいと向き合っている日々だ。これはもしかしてもしかしなくても、黒妃様をはじめとしたお妃様方は、私のことを捨て置くことに決めたのでは……? なんて思えてくる。

だが、しかし、そんな希望的観測を口にした私を前にして、陛下はそのまばゆい金色の瞳を、いかにも呆れたとばかりにすぅっとすがめた。


「……宝珠ほうじゅは、本当に諦めが悪いし、ついでに危機感が薄いね」

「え」

「薄いっていうか、皆無なのかな。本当にそれでよく下町で無事に創牌師そうはいしとして生きてこられたものだ。いっそ感心に値する」


あまりにもしみじみと呟かれてしまったものだから、反論の糸口を完全に見失ってしまった。そこまで言わなくても、と、間近にある彼の美貌を見つめていると、夜昊やこう様は音もなく、私の隣で横たわらせていた上半身を起こした。艶めく金の髪がさらりと流れ、思わずその様に見惚れると、彼は笑みを深めた。え、と思う間もなく、そのまま夜昊やこう様が、私にのしかかるようにその両腕を私の顔の左右に落とす。

え、え、えええええ? いくら添い寝に慣れたとはいえ、流石に、そう、ここまでは流石に慣れているはずがなくて、一気に顔が赤くなる。そんな私を見下ろして、夜昊やこう様はふふと笑った。


「刺客っていうのはね、そうやって対象が油断したときにやってくるものだよ」

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