8-① 油断
今宵も私が貸し与えられている私室に、胡弓の優美な調べが広がっていく。
夜のしじまをときにくすぐり、ときにもてあそび、なんとも意地悪な風情でありながら、そのくせときにただ穏やかに寄り添いそっと優しく肌を撫でてくれるかのような、弾き手の性格の複雑怪奇さをそのまま表す、毒と蜜を併せ持つ、どうしようもなく魅惑的な響き。
――慣れたらまずいって解っていたはずなのに、慣れてしまったわ……。
今夜もまた往生際悪く、できる限り寝台の片隅に身を寄せて、天蓋の向こうで胡弓を奏でていらっしゃる陛下、もとい
先日の
だからこそ、私だってそれ以降も、大人しくその同衾を受け入れたわけではない。考えうる限りの抵抗はしたし、最終的に、寝台の片隅で寝るだけでは無駄であるのならば、こっそり
だがしかし、朝になって起きてみたら、また寝台の上で
無理だ。勝てない。もとより、毎日積み重なる
案の定人の口に戸は立てられずに、既に宮中では、『陛下はすっかりキズモノ女にご執心。夜ごと通っていらっしゃるのだから、さぞかし具合がいいのだろう……』なんていう、下世話なうわさがしっかりばっちり流れているのだとかなんとか。陛下は「狙い通りだね」と笑ったが、私はまたしても頭と胃が痛くなった、とは余談である。
そして、今夜も陛下は、私を寝かしつけるために、胡弓をつま弾いていらっしゃる。今宵彼が奏でているのは、昨今城下で流行しているのだと言う恋歌らしい。らしい、というのは、
「
「何かな。眠らないのかい?」
「いえ、眠る気は満々なのですが、
「そう?」
「はい」
一番最初の同衾の夜に私が彼に願ったのは古い郷愁歌で、その後の夜も彼は私が眠るまで胡弓を奏でてくださっているけれど、その曲はどれも、郷愁歌と同じく古くから伝わる曲……童謡であったり民謡であったりと、流行から程遠いものばかりだった。それなのに今日に限って、流行の恋歌だなんて、なんだか随分と珍しいものを聞かせていただいている気がする。
いったいまたどんなご心境の変化なのかさっぱり解らない。横たわっていた寝台から上半身を起こして、そのまま寝台に腰かける形になって天蓋を持ち上げると、胡弓を手を休めないままこちらを見つめている
「僕とてたまにはこういう曲を選ぶこともあるさ。特に
「はあ……それは、ええと、誠に光栄にございますね……?」
「ふふ、そうでしょう」
明らかにからわれていることが伝わってくるので、こちらもこちらであいまいに笑い返すと、くつくつと
「
「え? ええ、もちろんそのつもりでございます。亡き養父が残してくれた大切な教えですもの」
「ふぅん。もったいないね。まあ確かに、君の素顔がアレでは、君の養父殿の心配もごもっともなものなのだろうけれど」
いやでもそれにしても、と、
「まあいいか。それよりも
「無理だなんて、そのようなことは。私は普通に
「修繕される
からかうように告げられて、思わずむっとする。これでも自分の限界は理解しているつもりだし、
見くびられている、わけでは、ない。それくらいは解る。とてもとてもとっっっっっても解りにくいけれど、どうやらこの覇王サマ、一応私の心配をしてくれているらしいのだ。繰り返すが、とっっっっっても解りにくいけれど。
でも、その『心配』は、私だけに向けられるべきものではないはずだ。
「
「おや、それはいよいよ、僕との共寝のお誘いかな?」
「同衾を望むつもりは決してございませんが、結果としてそうなってしまう件については私ももう諦めております」
「そこは嘘でも『ぜひ一緒に』くらい言ってほしいところなのに」
「申し訳ございません、正直なところだけが取り柄でして」
「君の取り柄が正直な気性だけだったら、この五星国の
それはまた随分と買いかぶってくださるものだ。私くらいの
考えるだけでおっそろしいなぁ……なんて遠い目になる私を見つめたままくつくつと喉を鳴らした
「じゃあお言葉に甘えて、僕も寝ようかな。ほら
「……かしこまりました」
当たり前のように寝台に入ってくる
驚きはしない。なぜならば、悲しいことに慣れてしまったからだ。この覇王サマ、私のことを完全に抱き枕だと認識していらっしゃる。
これ以上なく間近で見る彼の麗しのご尊顔に緊張を強いられ、なかなか寝付けなかったのは最初の数日だけだった。人間とは慣れる生き物で、確かに毎回「今夜もお美しくいらっしゃいますこと」と感心すれども、「胸の高鳴りがうるさくて眠れない!」なんてことにはならないのだから本当に人間とはよくできている。
わざわざ向かい合わせになって眠らなくてはならない件については、それはもう物申したいことは山とあるけれど、どうせそれらの一つとしてまともに受け取ってはもらえないに違いない。よって私が選ぶのは沈黙だ。さっさと目を閉じようとすると、不意に、私の腰に回されていた陛下の手が、私の顔に触れた。正確には、化粧で描いた傷痕に、だ。
「本当に、もったいないね。いつかこの化粧を落として、本当の君の姿で、僕のために着飾ってほしいな」
その声に、冗談も嘘もなく、ましてやからかいの感情なんてかけらもにじんでいなかったものだから、反射的に息を呑んでしまった。
この傷痕がある限り、私は誰にとってもキズモノの醜女として扱われ続けるのだろう。そんなことは最初から解っていた。十年前に、養父からもそう言われている。
私に傷痕の化粧を伝授する養父は、「すまない」と、私よりもよっぽど辛そうな顔をしていた。この傷痕は、私の女としての幸せを奪うことになると、養父は誰よりもよく理解していたに違いない。それでもなお、彼は、私の身の安全を優先してくれた。その選択をどうして恨めるだろう。むしろ今もなおずっと感謝し続けている。
――――――――――でも。
「そう、ですね」
「ん?」
「いつか、そんな日が、来るのかもしれませんね」
いいや、本当は解っている。そんな日なんて、きっと永遠に私達のもとには訪れない。
この傷痕は、私が私であるために必要な、文字通りの私の身体の一部だ。今更素顔をさらしたって、どれで私にどんな利があるというのだろう。今となっては数えるほどにもなくなってしまった、今は亡き養父との繋がりを、また一つ自ら断ち切るような真似なんてしたくない。
けれどそれでも
そんなつもりもないのにまるで言い訳のようになってしまった私の答えに、
「ええと、その、とはいえ
「何?」
「まだ言うか、と思われるかとは思いますが、そろそろ同衾の必要性はなくなったのでは? お妃様方が動かれる様子もございませんし、
そう、自分でも「まだ言うか」という話だが、そろそろこの同衾を重ねる日々に終止符を打ってもいいころ合いではないかと思うのだ。
私と
この事実、特に黒妃様にとっては許しがたいことこの上ない案件だろう。一度しかお会いしたことはないけれど、
けれどそんな気配は今のところまったくなくて、私はのびのびと……とまではいかないまでも、快適にバリバリ
だが、しかし、そんな希望的観測を口にした私を前にして、陛下はそのまばゆい金色の瞳を、いかにも呆れたとばかりにすぅっとすがめた。
「……
「え」
「薄いっていうか、皆無なのかな。本当にそれでよく下町で無事に
あまりにもしみじみと呟かれてしまったものだから、反論の糸口を完全に見失ってしまった。そこまで言わなくても、と、間近にある彼の美貌を見つめていると、
え、え、えええええ? いくら添い寝に慣れたとはいえ、流石に、そう、ここまでは流石に慣れているはずがなくて、一気に顔が赤くなる。そんな私を見下ろして、
「刺客っていうのはね、そうやって対象が油断したときにやってくるものだよ」
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