7-⑤ 清流
――あの時の
そう、私が後宮に放り込まれる原因の一端となった、私を狙った
――
待っていて、と言い残していった彼には申し訳ないが、ここで大人しく“待って”いたら、私ばかりか何の関係もない周囲の人々にも危害が及ぶであろうことは目に見えていた。となれば、私にできることはただ一つ。三十六計逃げるに如かず。長椅子から飛び降りるように離れると、そのまま私は人混みの中に飛び込んだ。
「このっ! 待て!!」
乱暴に人々を押しのけて私を追いかけてくる男のせいで、あちこちから悲鳴が上がるが、申し訳ないことに構っていられない。とにかく逃げるのが先決だ。
そして走って、走って、走り続けて。無意識に走りやすさを求めて人のいない方向へと向かってしまった私は、ひとけのない裏道の袋小路へと追い詰められてしまった。
「随分とてこずらせてくれましたね」
袋小路の壁を背に、ぜえはあと息を切らせている私から少し離れた場所で、同じく息を切らせつつも、勝利を確信したいやらしい笑みを浮かべている男。間違いなくやはり、あのときの
「あの金髪の男と取引をしましてね。私が所属する
けれど、と、続ける男の目が、ぎらりと憎悪に燃え滾る。反射的に身構える私をぎらぎらとした憎しみを宿した瞳でにらみ据え、男はさらに続けた。
「一派の情報を流し、私は自由の身になりました。ええ、おかげさまでね。だが!」
それまでの薄皮を撫でるような声音から一転して、男は怒鳴る。
「私の龍氣すべてを封じられるとまでは聞いていない! 私が何をした!?
「……っ!」
叩きつけられた怒声に身を竦ませつつ、「そんなことになっていたのか」とやけに冷静に納得する自分がいた。この五星国において生活するうえで欠かせないのが
――流石、覇王サマ、ということかしら。
ある意味では極刑よりも重く辛い罰を、彼は目の前の男に与えたということだ。流石に気の毒に思えてきたけれど、そんな私のわずかな同情を敏くくみ取ったらしい男は、ギンッとますますそのまなざしを鋭くする。
「すべてお前の、お前のせいだ……! お前さえ大人しく我らの手に落ちていれば、私は、私は~~~~っ!」
それ以上は言葉にならないようだった。そのままの勢いで男は、唸るような奇声を上げながら、懐から取り出した小刀を振りかぶってこちらへと駆け寄ってくる。
立ち竦むばかりの私に、男の刃が、悪意が迫り、そして。
「……だから、待っていて、って言ったのだけどな」
何度聞いても新鮮に耳に心地よい声とともに、一陣の鋭い風が吹き、男の手から小刀が宙へと巻き上げられる。驚愕に目を見開いて男は背後を振り返り、私もまたその視線の先を追いかける。
そして、予想通りの姿がそこにあったことに、どうしてだか、私はどうしようもなく、安堵してしまったのだ。
「
「うん、
にこり、と笑みを深めた
「おい、醜女め! 少しは役に立ってもらうぞ!」
「っ!!」
追い詰められた鼠のごとく素早い動きで私の元まで駆け寄ってきた男は、私の首を片腕で抱え込み、悪辣な笑みを
「この女を無事に解放してほしくば、そうだな、そこの小刀で、自らの
「なっ!?」
なんてことを言い出しやがるのかこの男。
「駄目です、
「黙れ、醜女め! お前もすぐ同じ目に遭わせてやりましょう、はは、
私が叫ぼうとした台詞にかぶさって、ぐっと首をさらに締め上げられ、勝利を確信した男が酒に酔ったかのように騒ぎ立てる。けれど駄目だ、従う訳にはいかない。だって、だって、
それなのに、それなのに
「
彼は、私の名前を呼んで。それから、これ以上なく穏やかに、場違いなまでに安堵を誘う、あまりにも美しい笑顔を、その花のようなかんばせに浮かべた。
「気にしないでね」
そうして、それから、それから――――――――――はい、ブチ切れることにしました!!
「っの、頭を冷やしてください、この暴君!
がぶりと男の腕に噛みついてその腕から逃れ、懐から
呼吸すらままならなくなるほどの土砂降りは止まない。私もそろそろ限界だったので、いつも通りに「
地面に倒れ伏した男は白目を剥いており、当分目を覚ますことはないだろう。何せ聖なる慈雨をあれだけ浴びたのだ。穢れが凝ったような根性の男には、さぞかし刺激的だったに違いない。それよりも、そう、こんな男よりも、私が気にかかってならないのは。
「
そう、我らが覇王サマである。すっかり水もしたたたるとびきりイイ男になっていらっしゃる彼の色香はすさまじいものがあるが、その色香に惑わされていられる余裕はない。
「申し訳ございません、私の、私のせいで取り返しのつかないことになるところでございました……! どうして、どうして私などのためにっ!」
私のことなんて捨て置いてくださればよかったのに、目の前の彼は、自らの
本当に何を考えているのかこのお方は。御身は御身だけのものではないことくらい、いくらなんでもご理解なさっていらっしゃるだろうに、それなのに!
ほとんど涙目になってあちこちぺたぺたと無遠慮に
「はは、は、はははははははははははっ! いやはや、すごい、
「っ笑い事ではございません!
「ええ、嫌だよ」
「
「だって、僕が死ぬよりも、
「っそんな、そんな台詞で、ごまかされませんからね……!」
「うん、別に信じてくれなくてもいいよ。僕が自分で、僕自身が本気だったと解っているから、それでいいんだ。それよりも、
「……なんでしょうか?」
こちらがこんなにも必死になっていると言うのに、ちっともそんな気持ちなんて慮りもしないで楽しげにしていらっしゃる覇王サマは、不意に手を伸ばして、私のあごにその手を寄せ、くいっと持ち上げてきた。不意打ちすぎて抗うこともできずに、ばっちりと彼と目を合わせる形になって固まる私に、
「もう化粧はいいの?」
「……え?」
「傷痕。すっかり綺麗になっちゃってるよ?」
「…………………………あっ!?」
今の私の顔に傷痕は存在しない。取り立てて目立つ特徴はなくなり、思わず両手で顔を隠す。しかし、もう何もかもが遅すぎる。
「あ、や、あの、こ、ここここれはそのあの……!」
「ああ、別に、君の顔の傷痕が化粧で描かれたものだってことは最初から解っていたから、今更言い訳とかはいらないよ。これでも色々傷痕を見てきたからね。君が化粧で描いた傷痕は、確かにそれは見事なものだったけれど、ごまかされてあげられなくてごめんね?」
「…………謝っていただくようなことではございません」
「うん、まあそれはそうか」
にこにこと笑う陛下の前で、顔を覆ったままこうべを垂れる。化粧をしていない顔……そう、陛下の言う通り、化粧で傷痕を描いていない顔を、誰かに見られるのなんて、いったい何年ぶりだろう。
そもそものきっかけは養父だった。十年前、彼に拾われたばかりのころ、
もしも養父に何かあったとき、今度こそ私は一人になってしまう。そのときに人買いや人さらいといった賊を遠ざけ、そして周囲からの同情を集めて女一人でも生きていきやすいようにと、養父は私に、顔に傷を描くことをすすめてくれたのだ。
その提案は功を奏し、おかげさまで『キズモノ』と侮られることはあれど、女子供を狙う賊からは見事見逃され続けてきた。
改めまして、養父様、
じっとこちらを見下ろしてくる
「そのようなつもりはございませんでしたが、結果として陛下をだますことになってしまいましたこと、心よりお詫び申し上げます」
「だから別に最初から僕はだまされていなかったってば。君のその顔じゃ、あれくらいの傷痕がなかったら今日まで無事にすまなかっただろうしね。うん、本当に、妃達と比べても負けず劣らず……いやもしかしたら妃達よりも…………」
ぼそぼそぼそ、と続ける
「忘れるところだった。はい、これ」
懐から取り出された、一目で一級品と解るつややかな絹の布に包まれた、長ぼそい何か。え、と瞳を瞬かせる私の手に、
「あげる」
「え、ですが」
「いいから」
開けてみろ、と、暗に促され、首を傾げながらもその包みを開く。先ほどの土砂降りで、絹の布も濡れていたけれど、中身は無事なようだ。いきなりなんだと言うのだろう、と思いつつ、丁寧に布を開いて、そうして私は息を呑んだ。
「
「そう。さっきの店じゃあんまりだったからね。もっと格上の店で調達してきた。
なぜかいつもよりも早口でそう告げる
「う、受け取れません、こんな高価なもの……」
「僕をここまでびしょぬれにしておいてよくそんな台詞が言えるね」
「うっ」
それを言われると胸が痛む。とはいえ受け取る理由がどこにもないのに、「わあいありがとうございますぅ」なんて受け取れるほどお気楽にはなれない。タダより高いものはないということを、私はこの十八年という人生の中でわりと思い知らされているほうなので。
確かに、本当に、とても素敵なかんざしだけれど、でも……という私のためらいをくみ取ったのか。
「これからも僕のことを
「いえ、まったくなってないと思いますが」
「じゃあ命令。そのかんざしを受け取って、今後も僕を
にっこり、とまた駄目押しされた。あ、これ、本当に聞く耳をもっていらっしゃらないなこのお方。
ツッコミどころが多すぎてもうしっちゃかめっちゃかなのだけれど、でも、どうしてだろう。ああ、困ったな。悪いなんてちっともしなくて、むしろ心のどこかで喜んでしまっている自分がいる。
改めて手の中のかんざしを見下ろした。黄色い貴石を切り出して作られた
かんざしを持ち上げて、そっと自らの胡桃色の髪に挿す。どうにもこうにも照れくさいけれど、それでもなんとか笑ってみせた。
「似合いますか?」
「……僕が
「ふふ、はい。ありがとうございます。さようでございますね、
ふいっと顔を背けられてしまったけれど、それでも彼の声は存外に柔らかかったから、その言葉を素直に信じることにした。そして懐から新たな
「助けてくださり、ありがとうございました」
「…………うん。それじゃあ、逢引の続きとしようか。そこの男を、警吏に引き渡してからになるけどね」
そこまで続けてから、
「手」
「え」
「だから、手。繋ごうって言っているんだよ。今度はもうはぐれないようにね」
「……それ、私が逃げないようにってことですよね」
「…………本当に君って、情緒も風情もないよね。ふふ、うん、いいよ、そういうところがいい」
くつくつと笑う
「や、
「何?」
「……なんでもございません」
そして私達は、その後ほとんどろくに会話を交わさないまま、けれどそれでもなお手だけは繋いだままで、
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