7-① 樹仙

さいわいなことに、先達ての夜以来、私の元にこの命を狙う刺客は現れていない。食事に毒物が仕込まれることもなければ、現在進行形で呪術をかけられている様子もない。

この通り私はピンシャンしていていて、ああそうだとも、それはまったく結構なことだ。

あの夜を乗り越えてからも、私は変わらず後宮の一角で神牌しんはいと……こう言っては何だけれど、市井ではついぞお目にかかることなど叶わない精霊の皆様との対話を、実のところ楽しんでしまっていて、うっかり陛下との『賭け』を忘れてしまいそうになるくらいには、それなり以上に現状に慣れ切っていた。

そう、だからこそ、その“現状”の問題は、そこではない。


「……あの、陛下」

「なんだい、宝珠ほうじゅ?」

「もうお時間もお時間でございます。そろそろご寝室に戻られたほうがよろしいのでは?」


既に時刻は宵の頃なんてすっかり通り越している。とっぷりと日は暮れて、天頂では月が浩々と輝いて、人も鳥も獣も草木も何もかもが寝静まった時間だ。

私はたまたま今夜は、久々に気難しい神牌しんはいの修繕に向き合っていたから、こんな時間になるまでこの貸し与えられている私室に戻ってこられなかった。

思い返すだに、頑固な精霊のお方だった。永く生きた古き神木にかつて宿っていらしたのだという樹仙のご老人は、穏やかでありながらも自らのこだわりを譲ってくださることは決してないお方だった。私が使おうとする顔料ひとつひとつにあれやこれやと文句をつけ……もとい、ご助言を下さり、それをこれまたひとつひとつ叶えていたら、あれまあこんな時間になってしまった、というわけだ。

しかしそのおかげで、彼にとっても私にとっても十分すぎるほど納得のいく修繕ができたので、その足で疲れをさっぱり浴室で落とし、意気揚々とこの部屋に戻ってきた、の、だけれど。


――なんで陛下がいらっしゃるの!?


と、内心で絶叫したのが半刻ほど前の話である。何故かいたのだ。誰がって陛下が。我らが覇王サマが。

ほかほかの夜着姿で部屋に入るなり、「おかえり、お疲れ様、宝珠ほうじゅ」なんて声をかけられたそのときの驚きたるや、悲鳴を上げずに済んだことが奇跡と言えるほどのものだった。


――な、ななななななん、なん、いいいいえ、どうなさったのですか陛下!?

――ん? いや、宝珠ほうじゅの顔が見たくなって。


なーんてうすら寒いことこの上ない会話を交わしてからしばらく。

陛下は自ら持ち込まれた胡弓を勝手に窓辺で奏でていらっしゃり、私は不本意ながらも一応のもてなしとして、彼にあたたかなお茶を淹れ、ついでに自分の分も淹れて、椅子に腰かけてちびちびそれを飲むことでなんとかかんとか場を持たせていた。

何かしら話題をくださるわけでもなく、それはそれは見事な腕前で、優美な調べを奏でていらっしゃる陛下。心地よすぎる穏やかな音の連なりは、自然とまぶたを重くさせ、お茶を飲むことでそれはもう必死になって意識を繋ぎとめていた、のだけれど。

正直に言おう。限界が来た。

と、いうわけで、冒頭の「そろそろ出ていけやこの野郎(意訳)」という言葉に、話は戻るわけである。

うつらうつらと既に頭はかすみがかってきているし、ぱちぱちぱちぱちと何度瞬きしても落ちてくるこのまぶた、やはりもう限界だ。不敬であるとは解っているけれども、それ以前にいくらキズモノだとはいえ年頃の乙女の寝室に、こんな時間に断りもなく居座り続ける殿方相手に遠慮なんてしていられない。何様のつもりだろう。あ、そうか皇帝陛下様か。覇王サマか。

……いやとにかくもうその辺はこの際、いったん横に置いておくことにして、やんわりふんわり薄紙に包んだ私の台詞の、その意味するところに、覇王サマともあろうお方が気付いていらっしゃらないわけがない。それなのに彼は、胡弓を弾く手を休めることもなく、こちらへと視線だけ向けて、その淡く色づく唇に弧を描いた。


「うん、大丈夫大丈夫」


何がだ。現状として何一つ大丈夫なことなんて存在しないのだが。軽い口振りで二度も大丈夫と繰り返されても、まったく安心できない。大丈夫どころか、事態はむしろ最悪であると言えるだろう。この時間に、同室に陛下がいらっしゃるというこの状況。もしかしてもしかしなくても、これは、陛下が後宮の特定の女、つまりは私の元に“お渡りになった”という状況に値するのではなかろうか。

流石にこのまま一晩お過ごしになられることはないであろうにしても、それにしてもまずい。以前にも耳にしたが、陛下は後宮において、一度たりともお妃様方の元へ、夜にお渡りになったことはないという。ご本人に御子を成す気がないのだから当然と言えば当然だ。お妃様方がそのあたりのことをご理解なさっているかまでは定かでないが、それでも、彼女達には「自分だけではなく、他の妃の元にも陛下がお渡りになっていないのであれば」という、自分を納得させるだけの理由が存在しているはずである。

その『理由』を、現状が打ち砕こうとしている。まずい。まずいまずいまずい。この上なくまずすぎる。よりにもよってこんな、平民で得体の知れないキズモノ娘の元に、陛下がお渡りになるなど、あってはならない。いや、彼と交わした『賭け』の条件を踏まえれば、お妃様方が自ら後宮を辞す理由付けとして、この状況はそれなりに的確な答えであるのかもしれない。だが。


――私は嫌なんですけど!?


普通にこの覇王サマといつまでも二人きりで過ごすのは無理だ。ぶっちゃけ嫌だ。それなのに陛下は、穏やかに胡弓を奏で続けながら、その調べとは裏腹な、とんでも爆弾発言をかました。


「今夜から僕は君と一緒に寝るから、部屋に戻らなくても大丈夫にしてきたんだ」

「…………………………は?」


ぽかん、と。自分の口が、大きく開くのを感じた。ついでに瞳もまた、まんまるに大きく見開かれていくのを、やはり他人事のように感じる。今、陛下はなんとおっしゃった? 聞き間違いか、はたまた空耳か。むしろそうであってくれという一縷の望みをかけて彼を見つめると、ようやく彼は胡弓の弓を止め、こちらへとその麗しいご尊顔を向ける。


「先に寝ていていいよ。子守歌が必要なら、好きな曲を弾いてあげる」


特別だよ、と陛下は笑みを深めた。今夜も今夜でなんてお美しい微笑だろう。そろそろ見飽きてもいいはずなのに、毎回素直に感動してしまうのだから、本当に美しい本物の佳人とはこういうお方のことを言うのだろうなぁ……なんて、しみじみ感心している場合では、ない!


「へ、陛下、流石にそれは……」

「ん? 別に僕より先に寝るな、なんて言わないさ。君も疲れているでしょう?」

「私が申し上げたいのはその点についてではございません!!」


解っている上でおっしゃってるなこのお方!

眠気なんて一気に吹っ飛んだ。手に持っていた茶器を叩きつけるように卓の上に置くのと同時に怒鳴る。

けれども、まあ解ってはいたけれども、陛下はかけらたりとも臆するどころか驚くこともなく、ふふふ、と微笑むばかりだ。

その笑顔がまあもう憎たらしいことこの上ない。ついついギッとにらみ付けると、彼はようやく「そうは言ってもね」と整った眉尻を下げて肩を竦めた。


「これでも僕も考えたんだ。どうしたら君を死なせずに、最後まで君に『賭け』をまっとうしてもらえるかを」

「死なせずにってそんな、そこまで大げさな……」

「大げさでもなんでもない事実であり、現状の最大の問題だよ。このあいだの刺客のこと、まさかもう忘れた?」


そこまで君は馬鹿だった? と揶揄するような微笑みとともに、言外に問われて口を噤む。

確かにあの刺客の件については、陛下に助けていただかなかったら、間違いなく私は死んでいた。私が生き延びられたのは、運がよかった、のではなくて、陛下のおかげなのだ。

でも、だからといって、何がどうしてどうなって、彼が私と一緒に眠るなんていう結論に至ったのだろう。

一応あれ以来、陛下のためのものではない、私がいざというときのために使うための神牌しんはいは必ず複数枚持ち歩くようにしているし、当然寝るときだって懐に忍ばせている。それは陛下に許可を得てのもので、となれば当然陛下はご存知の上の対策だというのに、それでもなお足りないということか。

いや足りないのはともかく、だからってだからなんだってまた『一緒に寝る』という結論に至るのか。大切な疑問なので繰り返させていただきました、ご清聴ありがとうございます。

私のいかにもいぶかしげな表情がどうにもツボにはまったらしい陛下は、くつくつと喉を鳴らして、「ちなみに」と楽しそうに続ける。


「先日のあの刺客は、冬家の者だったよ」

「さようでございますか」

「あれ、驚かないの?」

「失礼ながらそうであろうと想定しておりましたので、むしろ納得いたしました」


やっぱりというかなんというか、まあそりゃそうだろうな、という認識である。冬家からの刺客、つまりは黒妃様からの刺客と言われても今更驚くことはない。

先日顔を合わせた四人のお妃様方の中で、もっともそういう手段を取りそうなお方が誰なのかと問われると、失礼ながら私は「黒妃様でしょう」と答える。あの場においてもっとも陛下にご執心で、直情的で、私に対して妬心をあらわにしていらしたのは、誰の目から見ても明らかに黒妃様だった。

青妃様は陛下に対して恋心を抱くというよりも、陛下が仰っていた通り、姉君のような接し方をなさっていたし、朱妃様は陛下に憧れお慕いしていらしても、刺客を送り込むなんて考えは思いつくことすらなさそうな幼さを見せていらしたし、白妃様はそもそも暗殺などというまどろっこしい真似はせずに自ら勝負を挑んできそうな気性の持ち主でいらっしゃった。となれば消去法でも先日の刺客の背後にいらしたのは黒妃様、ということになる。それに加えて、決定的なのは。


「あの刺客が持っていた神牌しんはいは、どれも水の氣を宿したものでございました。それも、かなり腕が立つ創牌師そうはいしが作ったと思われるものです。あれほどの神牌しんはい、黒妃様ほどの腕がなければ、用意することは叶わないでしょう」

「なるほど、名推理だ」


にこやかに陛下は頷いていらっしゃるが、私としてはまったく笑えない事態である。刺客が冬家出身であると断定できたのならば、もうそれだけで黒妃様を、彼女にとって不利な状況に追い込めるのではないだろうか。陛下はそうするだけの理由と権利を得たはずだ。

いくら黒妃様が、四大貴族の一角、四人の妃の一人として後宮の一角を牛耳っていらっしゃったとしても、さらにその上に立つのが陛下だ。後宮のすべては陛下のもの。陛下の意志に反して勝手な真似をすれば、相応の罰がくだされる。

平民である私ですらそれくらいのことは理解できるというのに、その陛下ご自身にとっては、どうやらそういうわけにはいかないようだ。彼は困ったように自らの金の髪をたわむれに指で絡めて遊ぶ。


「冬家の出の刺客であると解っても、黒妃が主犯であると断定するに至る証拠まではさすがに掴めなくてね。そもそも、僕が勝手に取り立てた、平民上がりで後ろ盾もない女官を一人殺めただけでは、冬家を罰して冬妃を廃妃にする理由には弱すぎるんだ。いくら君が、僕専属の、妃達以上に腕の立つ創牌師そうはいしだとしてもね。それが解っているからこそ、黒妃も遠慮なく刺客を送り込んだんだろう。うーん、せめて適当に君をどこかの貴族と養子縁組させてから後宮に入れるべきだったかな。この件に関しては僕の手抜かりだった。ごめんね」

「……」


いや『ごめんね』と言われましても。ごめんで済む問題ではない気がするのは気のせいだろうか。これが『ごめん』で済んだら警吏はいらないし、暗殺も戦も起こらないのでは……いやいや、やめよう。今それをこの場で考えた挙句に、陛下に直訴しても何一つ事態は解決しない。

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