3-① 蜻蛉
――胡弓、の、音?
ゆぅるりと空気を撫でながら奏でられる、優美な調べ。清流の流れにも似たその曲は、古くから
当時八歳だった私を拾ってくれた養父が、子守歌代わりに口ずさんでくれたのがこの歌だった。八歳児相手に、もう少し他の選択肢がなかったのかと、今ならば思う。この歌を口ずさむ養父の姿にはいつだって隠し切れない後悔がにじんでいて、幼心にも私は「この歌、嫌いだなぁ」と内心で溜息を吐いていたものだ。それでも、義父にとっては、大切な歌であったに違いなかったから、私はいつだって大人しくそれを子守歌にして眠りに就いたのである――――って。
「ッ!?」
ばちんっ! と目を開くと同時に、上半身を起こす。ちょっと待ってほしい。今、私はどういう状況にあるのだろう。勢いよく身体を起こしたせいで、ぐらん、とめまいに襲われる。それを振り払うようにさらにぷるぷると小刻みにかぶりを振ってから、改めて自分の姿を見下ろした。
「……そのまま、ね」
着替えさせてほしかったわけでは決してないので、その点は心の底からほっとした。
そうして遅れて、自分が、びっくりするくらいに豪奢な寝台に寝かされていたことに気付く。私の身体を包んでいた布団は滑らかで溶けるような極上の絹。透ける天蓋は七色にゆらめく極光のごとく。寝台そのものに施された彫刻は精緻かつ繊細で、その中の一輪の花を刻むだけでもどれだけの時間をかけたのかと問いかけたくなってしまうほどだ。
枕元に置かれている、蜻蛉の翅の生えた小さな少女の彫像が抱える花の中で、ゆらゆらと灯が揺れている。それだけが、この部屋の唯一の光源だった。小さくとも十分すぎるほど明るいその光に照らし出される部屋に、改めて呆然としてしまう。
「…………ここ、どこ?」
確か、自宅であるほったて小屋で、
「
流石に靴は脱がせてくれた上で寝台に寝かせておいてくれたらしいけれど、この状況ではまったくありがたくない。ぶるりと身震いしてしまったのは、ひんやりとした床の感触のせいなのか、それとも純粋な恐怖のせいなのか、判断できない。
どうしよう、どうしよう、どうしよう。今更ながら焦りが募る。胡弓の音はまだ続いている。生まれも育ちもこの
とりあえず周囲を見回しても、
頭を抱えたくなる衝動を堪えつつ、それでも何かないものかときょろきょろと首を巡らせる。
この部屋は、寝台ばかりか、どこもかしこも信じられないほど美しく整えられていた。豪奢ながらも上品な調度品の数々は、こんな場合でもなければ一つ一つじっくり観察させてもらって、今後作る新たな
そう、こんな場合でもなければ! と、私が繰り返したところで、不意に、ぼんやりとゆらめいていた私の影が動いた。私が、動いていないのに、だ。
え、と瞳を瞬かせると、すいっと私の目の前に、寝台の枕元で灯の花を掲げていた翅の生えた少女が飛んできた。この子も
「ええと、ついてこいってこと?」
私の独り言のような問いかけに、小さな少女は頷いて、そのまま翅をぱたぱたと羽ばたかせて、この部屋の扉へと向かう。
となると必然的に、唯一の光源も遠のいていってしまうわけで、窓から覗く外は既にとっぷりと日が暮れている今、彼女を失うわけにはいかず、慌ててその後を追いかける。
扉の前で私のことを待っていてくれた彼女は、私が扉を開けると、そのまま廊下へと迷うことなく飛んでいった。
付かず離れずの位置で、小さな少女は私の前を飛んでいく。その光を見失わないようにしながら、周囲を見回しつつ歩みを進める。どうやらここは、とんでもなく広いお屋敷であるらしい。けれどその割に、人間の気配は皆無だ。耳に痛いほどの静寂の中で、ただ、胡弓の調べだけが、徐々に近づいてくる。
そして、ようやく。長い長い廊下の先、おそらくは中庭と思われる、見事な庭園に面してせり出した、旧い造りの欄干に囲まれた一角に、私は導かれた。同時に、胡弓の音が、心地よい余韻を残して途切れる。
「ああ、起きたの」
天頂に輝く月よりもまぶしい金色の瞳が、私を捉えて、笑みを含んですがめられた。その笑みのなんて美しいことだろう。この時ばかりは、不覚にも、警戒心も恐怖心も忘れて、私は彼の笑顔にうっかり見惚れてしまった。
そんな私の反応なんて慣れたものであるらしい美青年は、その手にあった胡弓を脇にどかして、椅子に腰かけたまま、自らの元に羽ばたいてきた小さな少女のあごをくすぐる。
「もういいよ」
その言葉に、少女は頬を紅潮させて嬉しそうに微笑んだ。ねぎらわれたわけでも、お礼を言われたわけでもないのに、彼女は心からの歓喜を込めて一礼し、そのまま掻き消える。同時に、美青年の前の円卓の上に置かれていた、翅の生えた少女が描かれた
ひゅっと思わず息を呑む。なんて、ことを。今、私の目の前で、
「なんてことを……!」
「ん? 何が?」
「っ何がも何も、
それ以上は言葉にならなかった。ぐるぐると怒りと悲しみが腹の内で渦を成す。目の前で
だからこそ、その
それなのに目の前の青年は、自らの
そのあまりにも不遜であり非道がすぎる所業に、気付けば握り締めていた拳が震えた。
「あなたはっ!」
「うんうん、ごめんごめん。僕はちょっとばかり他の奴らよりも
「~~~~っ!」
なんて言いざまだろう。先ほどの少女の精霊は、それでもなお、この美青年……いやもうこの男でいい。美青年、なんていちいち褒めてやるなんて真似、腹立たしい以外の何物でもない。こんな奴をそれでもなお慕い、使命をまっとうできた喜びに浸りながら消滅したあの精霊のことを思うと、ああ、もう、言葉がぐちゃぐちゃになって、唸り声になってしまう。
そんな私のことをいかにも面白いものを見る目で見つめてきた男は、ちょいちょい、と私を手招いた。
「まあ座りなよ。一応僕は君をさらってきた張本人の誘拐犯だからね。説明する義務がある。君も理由を聞きたいだろう、
さらりと最後に告げられたその単語、聞き間違えようのない自身の名前に、自分の目が大きく見開かれていくのを感じる。とんだまぬけ面をさらしている自覚はあるし、男もまたそういう風にこちらを見ているのは解るけれど、取り繕うこともできずに、声を震わせる。
「ど、して、名前……」
「うん、そこも含めて説明しよう。だから座って?」
促されている、というよりは、命令されている、という印象を抱くより他はない言い回しだった。逆らい難い圧力を感じて、ごくりと息を呑んでから、大人しく彼が示した、円卓を挟んで彼の正面に位置する椅子に腰かける。
そんなこちらの様子を見届けてから、男はにこりと笑みを深めた。とんでもなく魅力的な、けれど今の私にとってはこれ以上なく腹立たしい笑み。
「さて、何から聞きたい?」
「……一から十まで説明をしてくれるのでは?」
「そのつもりだけど、先に一応、希望は聞いておくべきかと思って」
とことんふざけた野郎である。こいつ、絶対性格悪い。顔だけで生きてるに違いない。
円卓を思いっきりひっくり返したい衝動をなんとか抑えつつ、努めて平静を装って、私は「まず」と口を開いた。
「ここはどこですか?」
誘拐犯相手に今更丁寧語も何もないけれど、こちらの名前を知っている素性の知れない男、しかもよく見たら身なりは一級を通り越した特級品の男を刺激するのは一応まずいだろう。あとは自分を冷静にさせるため、という理由を取ってつけて、解りやすく嫌味たっぷりに丁寧な口調で問いかける。男にとっては想定内の質問であったに違いないらしく、彼はまた、にこ、と笑みを深めて、その淡く色づく唇を開いた。
「後宮」
「…………………………はい?」
「あれ? 知らない? 後宮っていうのは、皇帝の奥さん達の住まい。ちなみにこの宮は、後宮の中でも今は使われていない黄妃宮で……」
「いや後宮は解ります! 解りますけども!」
「なんだ、なら大丈夫だね」
「何が!? どこが!?」
は? え? なに? どういうこと!?
ガタンッ!! と盛大に椅子から立ち上がって身を乗り出す私を、どうどう、と両手で諫めてくる男に、またしても、そうまたしても言葉が見つからなくなる。
後宮。そう、この男はここが後宮だと言った。それは解る。解るからこそ解らない。後宮とはこの男の言う通り、この
そんな場所に、私がいる? それこそ冗談みたいな話だ。というか冗談であってくれなければ困る。それなのに。
「証拠が必要なら、好きなように探検してくれていいし、なんなら今すぐ妃達を呼んでもいいけれど」
「……遠慮しておきます…………」
何故だろう。この男が、嘘や冗談を言っているようには見えなかった。
これだけ見事なお屋敷――いいや、宮殿が、そんじょそこらに存在しているわけがない。むしろここが後宮という、この国一番の美しさを誇る建造物であると言われた方が納得できる。そもそも、ここが後宮である、という嘘で私をだます利なんて、この男にはないだろう。となるとここは本当に本気で宮殿であるというわけだ。ならば。
「でしたら、あなたはお妃様か……いいえ、皇帝陛下にお仕えする宦官のお方ですか?」
これだけお美しいご尊顔だ。さぞかしお妃様も、なんなら冷酷非情とご評判の皇帝陛下だって、目の前のこの男の美貌に悩殺されて首ったけなのではなかろうか。まあその宦官サマが、なんでもまた下町のはぐれ
目の前の男は、なぜかきょとんと首を傾げていた。いかにも不思議そうなその顔は、それはそれでこれまたお美しくいらっしゃるけれども、なんでそんな顔をされなくてはいけないのか、こっちはこっちで不思議である。
首を傾げ返すと、彼は、「ああ、そっか」と、ぽんっと両手を打ち鳴らした。
「違う違う。僕は後宮に仕えるほうじゃなくて、主人のほう」
「……は?」
「だから、この後宮の主が僕。皇帝って言ったほうが解りやすいかな」
「………………はあ!?」
今度こそすっとんきょうな声を上げてしまった私を、一体誰が責められるというのだろう。何を言われているのか今度こそ理解できなくなる。そんなこちらをやはりさも面白がるように見つめて、男は、嫣然と微笑んだ。
「
――――――――――ぶわり。
自らを皇帝であると名乗った男から噴き出す、まるで爆発のような、圧倒的で、いっそ暴力的なほどに巨大な
がたがたと全身が震え、ひゅ、ひゅ、と、喉が奇妙な音を立てる。
先ほど勢いのままに立ち上がったものの、もう立っていられない。倒れ込むように椅子に座り込むと、ようやく男は――――当代皇帝陛下は、少しばかり困ったように苦笑した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます