第6話 交渉

「…………その通りだよ。失った記憶を元に戻す方法はないんだ」

 ごめんねと謝罪を重ねると、ベルナールの目が細まった。

 素直に聞き入れてくれたのか。

 嘘だと見破られたのか。

 どちらにせよ今の彼の眼差しはチクチクと心を刺す。

「心配しなくても、お前のその感情をどうこうしようとは思わないよ」

 目を逸らしたい衝動を抑えながら、リスディアは言葉を続ける。


「――記憶は戻せないけど、お前には長い間辛い思いをさせてしまったからね、こちらも何かしらの形で償いたいと思っているんだ」

 半分は本心、もう半分は打算。

 経緯はどうあれ、せっかく弟が結婚に意欲をもってくれたのだ。このチャンスを逃さない手はない。

 だから彼の気が変わらない内に釣り合う代替案を決めなければ、というのがリスディアの思惑。


「ベルナール、私に実現可能な範囲で他にしてほしい事はないかな?」

「他……」

 聞かれたベルナールは顎に手を当て、難しい顔をして数秒黙考する。


「実現可能な範囲ではないです」

「口振りからして不可能な願望は持っているみたいだね」

 言外な気持ちを指摘してみれば、聞くまでもないでしょう、と銀の瞳が無言で訴えた。


「……まだ私の事が好き?」

「ええ。さっきも言った通り、俺の気持ちは変わりません」

「私が記憶を奪った張本人だと知っても?」

「はい」

「私が化け物だと知っても?」

「はい」

「――そっか。なら……」


 弟の心情を再確認した事で考えがまとまった。リスディアは椅子に座ったまま、ゆっくりと両腕を前に出す。

 さながら相手にプレゼントを渡すときのような、そんな姿勢だった。


「なら、私と恋人になろう 。一年間だけ」

「…………はい?」

 余程想定外だったのか、狐につままれたような顔だ。ベルナールが上擦った声で聞き返す。

 想定内な弟の反応を見て、リスディアは詳細を語り始めた。


「要は私と添い遂げたいってことだろう? お前の望みは。でもお前の立場上それは叶わない。だけど期間を設ければ――短い間なら実現出来る。今日から一年間、お前が私としたい事なんでもしていい。その代わり、期間終了後から一年以内に結婚相手を見つける。……どうかな?」


 悪くない条件だと思うがどうだろうかと、ベルナールの様子を窺う。

 話を聞き終えた後もしばらくは目を丸くしていた彼だったが、再び難しい顔をして口を開いた。


「一つ質問してもいいですか」

「いいよ、なあに?」

「そのやってもいい行為に性交渉は含まれているんですか?」


 無意識に避けていた内容を持ち出され言葉を詰まらせる。

 リスディアはセシル・テイトと今回の件でそういう行為が完全にトラウマになってしまっていた。

 出来る事ならやりたくない。しかし、おそらくベルナールが強く望んでいる事はそれであると解釈しているため、ノーとは断言出来ないでいる。

 彼が満足しなければ、この案を行う意味がない。


「……ら、乱暴にしないのなら、いいよ」

「声、震えてますよ。無理しないでください。あの時は頭に血が上ってしまってただけで……別にそういう事しなくても兄上のそばにいられるだけで充分なんですよ、俺は」

「いやでも……」


「嫌な事は嫌ときちんとおっしゃった方がいいですよ、陛下」


 声が聞こえてきたのはリスディアの部屋方面の閉ざされたドアの向こう。

 兄弟が会話を止め注目するなか、ギィと音を立てたドアから黒ローブの男が現れた。


「ベルナール殿下としても、嫌がる相手と肌を重ねるのは本望ではないでしょう」

 今はフードを被っておらず、ローブの色と同じ肩口まで伸ばした黒髪と、薄暗い室内に妖しく光る紫の瞳が露わになっている。歳は見た目からして三十代前半。

「ガスパール」

 椅子に座ったまま、側近の名前を口にする。


「……いつからそこに」

 ベルナールは表情をいつもの仏頂面に戻し、ドア越しに話を聞いていたらしい彼に問いただした。

 対してガスパールは、緩やかに笑みを浮かべたまま答える。


「殿下が陛下の貞操を穢そうとしたと自白した辺りからですね。……申し訳ありません、盗み聞きをするつもりはなかったのですが」

 こうは言っているが、眉を少し下げただけで悪びれている様子は感じられない。


 自白を聞いていたという事は、当然その後のリスディアに対する思いの丈も耳にしていた事になる。

 恥ずかしさが生じたのか、ベルナールは片手で顔を覆いそっぽを向いた。


「なので話は大体理解しているつもりです。リスディア様がご自身を蔑ろにしないと約束してくださるのなら、私からはこれ以上口を挟みません」

「意外だな。てっきり反対されるのかと思った」

「リスディア様がお決めになった事ですから。それに殿下にお早く身を固めていただきたいのは城の者達の総意ですし」


 現在、王族は兄弟しかいない。しかも兄の方は世間では病弱という事になっている。

 城に仕える者達にとって、そんな状況はやはり安心出来ないのだろう。


 短いやり取りをした後、リスディアとガスパールは背中を向けているベルナールを見やる。

 自分達の視線に気付いた弟がこちらを向き、大きく息を吐く。

「ガスパールが言った事込みなら、その条件を呑みます」


「――うん。分かったよ、嫌な事はちゃんと言う。それじゃあ、交渉成立だね」

 リスディアはにこ、と笑うと椅子から立ち上がりベルナールに歩み寄った。


「どうする? 早速手でも繋ぐ?」

 恋人らしい初歩的な行為といえばこれだろうと、右手を差し出す。

 ベルナールはおずおずといった様子でそっと手を重ねてきた。

 大きくゴツゴツとした男らしい手が、壊れ物を扱うように緩く包み込んでくる。

 リスディアはその手にすうっと指を絡ませ、ぎゅっと密着させた。

 遠慮はいらないという意思表示。弟の手が一瞬痙攣のような動きを見せるが、すぐに治まり握り返してきた。


「それではお二人とも、お部屋に戻りましょうか。夜も深くなってきましたし、今日はもうおやすみください」

「そうだね、さすがにそろそろ寝ないと」

 行こ、とベルナールの手を引いて、リスディアは自室へと向かった。


「――それにしても、まさか二度も催眠が解けるなんて思わなかったな」

 階段を上っている最中、沈黙に堪え兼ね話を切り出した。

 五年前に一度、そして今回。ベルナールは自力で催眠を解き、一部分とはいえ記憶を取り戻している。


「おそらくベルナール殿下は生まれつき精神干渉に耐性があるのかもしれませんね」

 自分達の後ろについてくるガスパールがそう反応を返す。


「あまりないんですか? こういう事って」

「うん、普通は半永久的に効果が持続されるはずなんだ」

 決してゼロではないが、あまり例を見ない事態であった。


「へえ――じゃあ俺が無事だったのは……」

「ん?」

「ああ、いえ。なんでもないです」

 弟の呟きになんと言ったのかと尋ねるが、なんでもないとはぐらかさせる。

 さして関心がなかったのと、睡魔が襲ってきたこともあって深く追及するのはやめた。



「そういえば陛下、メイユ王から言伝ことづてを預かっております」

 ガスパールが口を開く。

 部屋に戻り、寝巻きに着替えさせてもらっていた最中のことであった。

 ベルナールが部屋に留まっていたため、彼に背を向けた状態。一度見られたとはいえやはり人目に火傷跡を晒すのは抵抗がある。そんなリスディアの気持ちを汲んだのか、特に何も言わずともガスパールがそのように配置した。


「舞踏会の件で謝罪の場をいただきたい、そしてジャスパー殿下の処遇はこちらに任せて欲しいとの事です」

「ああ、そういえばそんな事もあったね」

 昨夜の事だというのに、色々あり過ぎてすっかり忘れていた。


「連絡ありがとう。両件とも了承したと伝えておいてくれ」

 本当はこちらで処分したいが、死罪にする程の罪を犯した訳ではないうえに、相手は他国の王子。下手にこちらが手を加えて後々国家間の関係に影響が出ても困る。


「かしこまりました。記憶の方はどうします?」

「そのままでいいでしょ、どうせ誰も信じない。彼、前々から様子がおかしかったし」

「テイト嬢に入れ込みだしたあたりからですね」

 ベルナールが話に入ってきた。


「うん。あとから知ったんだけどあの令嬢、複数の男と関係を持っていたそうじゃないか。なんでそんなそんな女性と……イネスと婚約破棄してまで……」


 元々ジャスパーはイネス・レルネというこの国の公爵令嬢と婚約を結んでいたのだ。

 言ってしまえば政略結婚であり、お互い相手に恋愛感情は抱いていなかったようだが、それでも仲は決して悪くはなかった。

 それ故に何故突然、というのが率直な感想。

 さあ、と言って弟は肩をすくめる。彼も友人の心変わりを不可解に思っているようだ。


「若気の至り、ですかねぇ。――さて、それでは私はこれで失礼します」

 リスディアの着替えを終えたガスパールが、脱がせた服を持ってドアへ向かう。

「おやすみなさいませお二人とも。――ああベルナール殿下、甲冑それは元の場所に戻しておいてくださいね」

 去り際にそう付け加えて部屋から出ていった。


 弟と二人きりになった途端、気まずい沈黙が流れる。

「兄上」

 先に打ち破ったのはベルナール。躊躇いがちに呼びかけてきた。

「そばに行っても……?」

 リスディアが無言で頷くと、緩慢な動作で近付いてくる。

 弟との距離が縮まるごとに鼓動が早くなっていく。

 今更ながら、相手の気持ちを利用した罪悪感から。

 そしてこれから何をされるのだろうという不安から。


 ベルナールは至近距離まで近付くと、両手でリスディアの右手を優しく握ってきた。

「ありがとうございます。俺の気持ちを受け入れてくれて。短い期間ですが、こうして触れる事が許される限りは俺の事好きになってもらえるように努力します」

 恋人繋ぎの時よりも密着していないのに気恥ずかしい。思わず顔を背ける。


「ま、まあ……気の済むまでやればいいよ」

「では俺も部屋に戻ります。――その前にその……キスしてもいいですか?」

 勢いよく顔を元に戻す。先程手を繋ぐ事にも躊躇していたくせにいきなり大胆になったなと思いながらベルナールを見れば、右手はいつの間にか彼の顔の近くまで移動していた。


「あ……キスってそこ……」

 ベルナールが口付けしたい場所は手の甲。勝手に唇と勘違いしてしまった事に、顔が真っ赤になる。

「あの、嫌なら無理に――」

「だっ、大丈夫だから! いいよしてっ」

 自分が嫌がっていると解釈した弟に慌てて問題ないと伝える。


 その言葉が本意であると察したようで、訝しんだのはほんの一瞬。すぐさまゆっくりとベルナールの顔が右手に近付く。

 そして優しくキスを落とされた。

 思いの外嫌悪感はない。手の甲に当たる唇の感触が少しむず痒いだけだ。


 数秒経って、満足したのかベルナールが顔を上げる。

 その際に小さく愛おしげに笑っていたのは、きっと気のせいではない。

「付き合わせてしまって申し訳ありません。それではおやすみなさいませ、兄上」

「お、おやすみ……」


 扉が閉まる音、そして足音が遠のいていったと確認すると、リスディアはその場でしゃがみ込み深く息を吐いた。

「はあぁぁ……」


 心臓は未だバクバクと高鳴っている。

 罪悪感からか、気恥ずかしさからか、それとも他の要因からか、リスディアには分からない。


 ただベルナールが最後に見せたあの微笑みを思い出すと、全身が熱くなっていった。

 ――いやまさか、ありえない弟にこんな……。


 思いついた原因を全力で否定しベッドに潜る。

 あれだけ眠かったのに、今はもう中々寝付けそうにない。

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