第4話 トラウマ
くらりくらり。酔っている訳でもないのに頭が揺れる。
――陛下、陛下。どこか二人きりになれるところへ行きましょう?
ころころと響く声は鈴のよう。
ゆらゆらと音鳴るほうへついて行けば、ぽかぽかと暖かい。
ただそれはほんの一瞬。
だんだんと寒くなっていく。
だんだんと軽くなっていく。
ふわふわとしていた意識が現実に引き戻される。
だが、時すでに遅かった。
――やだ、なにこれ……。気持ち悪い。
◇
「……い――っ。ぐっ……うう……」
目を覚ました途端感じた胸痛に、リスディアはベッドの上でうずくまる。
胎児のように丸まって、叫びたい衝動を必死に抑えながら。
騒げば人が来る。心配されるのも、このような醜態を晒すのも避けたかった。
ズキズキと痛みを生み出しているのは、もう何も感じないはずの烙印めいた火傷跡。
襟をぎゅっと掴み鋭い痛覚に耐えていると、自然と目頭が熱くなった。
泣きたいほどに悲しくなっているのは、きっと胸の痛みだけが原因ではない。
だがそれを認めてしまうと、自分が弱い人間であると嫌でも実感させられる。
涙が出てしまうのは古傷が痛むから。
自分自身にそう言い聞かせて、リスディアはひとり静かに泣き続けた。
一時間程経ち、ひとしきり涙を流した彼は遅めの夕食を摂る事にした。
泣いた後だからか、いつも以上に腹が減っている。
シャツのボタンを留めフードを被り、いつものように自室の隠し扉から地下室へ。
階段を下りていく最中、ベルナールの部屋での出来事を振り返り反省する。少し感情的になり過ぎたと。
弟の怒りは尤もなのだ。
過去に二度、記憶を奪っているのだから。
彼がどこまで思い出したのかは分からないが、理不尽を感じた事は明確である。
だからろくに話も聞かずに一方的に問い詰めた自分に彼が激昂した事も、仕返しとばかりに首を噛んできた行為も筋が通っている。
だがここで、ふと疑問が生まれた。
弟は何故
あの時のベルナールの顔、あの眼差し。今まで見たことのない表情。
彼はあの場で怒り以外の感情を発露していた。しかしそれがどういったものなのかは判明出来ない。
――いや、本当は分かってる。あれはきっと……。
既視感はある。男女問わず、他者にそういう目を向けられた経験ならある。
丁度最後の段差を下りたところで足を止めた。
胸中で言いかけた言葉はそのままにし、腹を満たす事に思考を切り替えた。
地下室に入る。
一週間前まで令嬢がいたベッドには老人が。そしてやはり、片足に枷が付けられていた。
現在の時刻は深夜二時。老人はとっくに眠っている。
そうっと椅子に座り、老人の腕をゆっくりと持ち上げ手首に牙を立てる。
「う……んん……」
「――ああ、すみません。起こしてしまいましたね」
出来る限り安眠を妨げぬよう努めたが、やはり噛まれた刺激で老人は起きてしまった。
「先生……? 回診の時間ですか?」
「いえ、ただ様子を見に来ただけで――。そういえば夕食はもう済ませましたか?」
「ええ、黒い服の先生が持ってきてくれたので……、それを少し……」
しゃがれた声で老人はポツポツと答える。
彼の言う黒い服の先生とはガスパールの事だろう。リスディアが寝ている間に代わりに運んでくれたようだ。
「本当は飯を残すなんて事したくねえんですが……、最近めっきり食欲が落ちちまって……」
申し訳なさそうに話す老人に対し、リスディアは笑顔で優しく言葉をかけた。
「いいんですよ、無理しないでください。余った食事は“次の人”に提供しますから」
「その“次の人”が兄上の新しいご飯になるわけですか」
「うん、そうだね――」
目を見開きバッと顔を上げる。
北棟へ潜入するための変装だろう、カーテンの前に立つベルナールは城の兵士の甲冑を着用していた。
ドクンと心臓が大きく跳ね、反射的に椅子から立ち上がる。足は自然と自室へ通じる扉の方へ。
それは明確な逃避行動。
それは明白な拒絶反応。
このままでは何も解決しないと分かっているのに、身体が言う事を聞かない。
「待ってください!」
ベルナールがその場で呼び止める。
「兄上。約束します、これ以上は近付きません。だからどうか、俺の話を聞いてくださいませんか?」
弟の言葉を受けて、扉の目前まで来ていた身体がようやく動きを止めた。
心臓は未だ痛いくらいに鼓動している。大きく深呼吸をし、幾分か落ち着いたところで再びベルナールと目を合わせた。
銀の瞳は不安げに揺れていたが、こちらが逃げない意志を見せると少しだけ和らぐ。
ベルナールはその場で片膝をつき、謝罪を口にする。
「この度はご無礼を働き、申し訳ありませんでした」
予想だにしていなかった弟の行動に、リスディアは無言で目を見開いた。
格好も相まって本物の騎士のようだ。
体勢はそのままに、ベルナールは言葉を続ける。
「記憶が戻ったのは一ヶ月ほど前です。ただ思い出したのは十三の頃のみで、それ以前の記憶は……」
――二回目の催眠で忘れさせた分だけ戻ったわけか。
当時十三歳のベルナールから奪った記憶は微々たるものだ。
僅かながらだがリスディアは安堵し、ほっと息を吐いた。
「地下に行ったのは、ジャスパーにテイト嬢に会わせてくれとせがまれたからで。貴人牢にはいなかったと言っていたのでもしやこの場所にいるのではと――」
「ベル」
優しく呼びかければ俯いていた顔が上がる。
「おいで」
ベッドの脇に戻ると椅子を一つ魔法で移動させ、そこに座るよう促した。
「……よろしいのですか?」
「うん、いいよ。安心して、もう噛みつこうとはしないから」
改めて近くまで来ていい――来てほしいと示すと、恐る恐るといった感じでベルナールは動き出す。
怖いのは向こうも同じ。彼からしてみれば、リスディアは記憶を奪う化け物だ。
だから二脚の椅子の間には充分な距離を取った。
気休め程度だが、相手も自分自身も安心して話が出来るようにと。
弟が腰を下ろしたのを確認し、リスディアも移動させていない椅子に座る。
お互いが向かい合った状態。
横目でベッドを見ると、老人は再び眠りに落ちていた。
起きていたとしてもこちらの会話はほとんど理解出来ない状態だろう。それでも他人に聞かれていると思うと些かやりづらいので、リスディアとしてはありがたかった。
「顔は大丈夫? 結構強くぶってしまったから……」
「え? ええ……。なんともなってないです。もう痛みも引きました」
「そっか。……ごめんね、さっきはあんなに怒って」
「い、いえ。こちらこそ。――あの、兄上も大丈夫ですか? 噛んだ場所」
「うん? ああ、大丈夫だよ。もう治ったから」
え、と驚きの声を漏らすベルナールに首元を見せる。
痛々しい噛み跡なんて最初からなかったかのように、そこには傷一つない滑らかな肌だけが存在していた。
「人より傷の治りが早いみたい」
「そうなんですね……。なんでもっと早く気付かなかったんだろう」
「無理もないよ。少し前までお前は学院の寮にいたんだし」
弟の呟きに笑って答える。
ベルナールはついこの間まで学生だった。通っていた学院は全寮制のため会うのは年に数回、長期休暇で帰ってきた時くらいであった。
「――もっと」
「ん?」
「もっと教えてください、兄上の事」
他意は感じられない。ただただあなたの事を知りたいのだと、瞳が語っている。
「……いいよ。ここまできたら隠しても仕方ないし、この際だから王家の秘密も教えてあげる」
どのみちいつかは話さなければいけない事だ。彼も決して無関係ではないのだから。
ならばこの機会に話してしまおうと、リスディアは口を開いた。
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