第一部 ゴースト 12
ドンドンと、ドアをノックするような音が聞こえた気がした。無機質な白い天井が目に入り、自分が冷たい空気を吸っているのを意識した。一瞬自分がどこにいるのかわからなかったが、太腿の痛みを感じ、早川の死体や引き裂かれる拓真を思いだしていくと、恐怖と共に意識がクリアになっていく。大きく息を吐いた。
横で背後で寝息が聞こえているのに気づいた。振り返ると、麻衣子が寝袋に入り、体を押しつけて眠っていた。更にその後ろでは、布団に入った貴斗が寝ていた。こわばった体をほぐしながら半身を起こし、部屋を見回す。
あれ……奈緒がいない。
トイレにでも行ったのかなと思い、再び横になったが、しばらくしても奈緒は戻ってこない。不安になってトイレや浴室、別の部屋も確認したが、誰もいなかった。玄関へ行き、靴を確認したが、奈緒の履いていた黒いスニーカーは残っていた。
「麻衣子、栗山さんがいないよ」
寝袋に入った肩を揺すると、麻衣子が眠そうな目を開けた。
「トイレにでも行っているんじゃないの?」
「部屋は全部見たけど誰もいなかった」
「じゃあ怖くなって、どっかへ逃げちゃったんじゃないの」
「靴は玄関に四人分あるよ」
「だったら――」
麻衣子が寝袋を振り切るようにして飛び出ると、窓を開けてベランダへ飛び出した。冷たく乾いた風が吹き付ける中、伸也もベランダへ出て一緒に柵から身を乗り出して下をのぞき込んだ。
「大丈夫みたいね」
眼下にある二車線の道路は車が行き来していて、歩いている人も見えていた。人が落ちたような兆候はなかった。麻衣子と伸也はふうっと息を吐き、部屋へ戻った。
「奈緒ならな、そこで消えちまったよ」
布団から貴斗の声が聞こえてきた。いつの間にか目覚めていたらしい。
「は? それってどういうことだよ」
「言っている意味そのものさ。消えちまったんだよ」
貴斗は天井を見ながら呟いた。伸也が貴斗の横へ移動して、顔をのぞき込んだ。
「人がそんな風に消えるなんてあり得ないだろう」
「お前、辻田さんの噂を知らないのか」
「辻田さん? グロウのトップか」
「ああ。拓真さんの話だと、あの人は超能力を持っているそうなんだ。手も触れずに相手を倒したり、瞬間移動したりするそうだ」
疲れた顔をした伸也が、弱々しいが、それでも不敵な笑みを浮かべた。
「正直俺も拓真さんの話を聞いても信じなかった。トリックでもあるんじゃねえかと思っていた。でも、拓真さんは本気で怖がっていたよ。グロウの結束が固いのも、透明症同士の絆だけじゃない。辻田さんの力が怖かったんだ。
何年か前の話だ。拓真グループみたいな下部組織があったんだけど、そのリーダーがふざけた奴で、稼いだ金の一部をくすねていたらしい。そいつは捕まって、幹部連中のいる前で、首を引きちぎられて死んだそうだ。辻田さんは手も触れていない。しかも一気に殺さないで、十分ぐらい死ぬ直前で力を緩めて生かしていたそうさ。その間、じじいがあえぐような気持ち悪い声を出してさ、口とか目から血が溢れてくるんだって。みんな青くなって吐き気を抑えているのに、辻田さんは感動的な映画を見ているみたいに、うっとりした顔で、死ぬ様子を見ていたって言うんだ」
「奈緒がいなくなったのは、辻田と同じ力が現れたからだっていうのか」
「そうとしか考えられねえ。俺の肩をぶち壊して、拓真さんを殺したのは奈緒だ。瞬間移動をしたっておかしいとは思わねえよ」
「あたしは信じない。きっと怖くなって、また裸になって逃げたのよ」
「日が昇ったんじゃあ、逆に目立ってしょうがないよ」
「そうなんだけど……伸也はどう思うのよ」
怯えた目で、奈緒にバットを振りかぶる拓真の姿が脳裏をよぎった。
「あり得るかもしれない。俺は実際に貴斗が撃たれて、拓真が殺されたところを見ているんだ」
「だったらどうやって力を発揮したのよ」
「わからないよ」
「知らねえ」
麻衣子はため息をつくと、携帯電話を取りだした。
「荒川さん、忙しいところすいません。実は奈緒がここからいなくなってしまったんです。靴はあります。ベランダから落ちた様子もありません。はい……わかりました」
麻衣子は不満げに口を引き結びながら携帯電話を切った。「俺が調べるからそのままにしておけって」
「荒川は驚いた様子だったか」
「至って冷静よ」
「やっぱり怪しいな。普通なら信じられないぐらいな事は言うだろ」
「そうよねえ。何か知っているに違いないわ。もう一回聞いてみる」
麻衣子は再び電話を掛けたが、今度は繋がらないらしく、「だめね」とつぶやき、携帯電話を耳から離した。
「ニュースで、横浜の事件は報道されているか?」
「ちょっと待って。あ、出てるわ。ほら」
麻衣子が見せた携帯電話の画面をのぞき込んだ。早川と拓真の死体が確認されたとある。公式発表はまだないが、警察はこの殺人と新宿署爆破が共にグロウが関与している疑いが強いと見ているらしい。次に表示したニュースでは、全国各地でグロウの関係者が取り調べを受けたり、関係先で家宅捜索が行われたりしていると書いてあった。ただ、肝心の辻田とその側近たちは地下に潜り、警察も居所が掴めていないという。
「警察署が爆破されたから、警察も躍起になっているのね。グロウも壊滅するんじゃないの?」
「なあ、辻田さんはそこまで考えずに新宿署を爆破したとでも思っているのか」貴斗が静かに呟く。「あれはな、警察に対する宣戦布告なんだ」
「でも過激派とか、警察と敵対した組織は全部叩かれたぞ。グロウも同じ目に遭うんじゃないのか」
「辻田さんは百も承知さ。新宿署爆破事件の直後、俺たちには、しばらく不自由な生活が続くが、必ず俺たちの時代が来るとメッセージを伝えてきた」
「あまりに権力を持ったから、つけあがって神様にでもなったつもりなのか?」
「幹部連中は完全に辻田さんへ心酔しきってるらしいぜ。あいつらが辻田さんを持ち上げて、その気になっちまったのかなあ」
「勝算はあるのか」
「よくわかんねえけど、俺たちにとっちゃあいい迷惑だよ。ただ、新しい事業を始めているって噂だった」
「それは例のSDカードの動画と関連があるのか」
貴斗の顔がこわばった。「知らねえ」
「何か知ってるっていう顔をしているわ」麻衣子が睨み付けながら貴斗をのぞき込む。「どうせグロウに見つかったら殺されるんでしょ。洗いざらい喋りなさいよ」
「俺もよく知らないんだよ」
「わかっていることだけでいい。全部話せ」
貴斗はふてくされたような顔をして見せたが、それでも喋り始める。
「俺たち拓真グループは透明症専門のデリヘルの経営を任されていたんだ。俺は女の子を送迎するドライバー役さ。奈緒もそこで働かされていて、何度か送迎したことがあるよ。内容は合法なんだが、常連にはスペシャルなサービスを紹介しているらしいんだ。そのサービスを提供するとき、俺は送りだけで、別の奴が迎えに行くんだ。
何をやるかは俺も聞かされていない。どうせ本番でもやらせるんだろうと思っていたよ。でもな、ちょっと変な噂が流れ始めたんだ。スペシャルなサービスを受けた男が、行方不明になっているっていうんだ。
それとなく女の子に聞いてみたんだ。そうしたら、案の定スペシャルなサービスってのは本番で、指定のマンションへ連れて行ってやるそうだ。やり終わったら男は先に部屋から出るから、後がどうなったのかはわからないって言うんだ。
拓真さんもその噂に気づいて、出所を俺たちに問い詰めたんだ。そうしたら、黒岩っていうフリーライターが行方不明の話をして、俺たち周辺を嗅ぎ回っているのがわかったのさ」
「それて黒岩が殺されたのか」
「あいつが殺られた理由も、誰がやったのかも知らねえよ。もっとも、みんなそれが原因だろうとは噂していたがな。
ともかくこれで話は終わると思っていたが、そうじゃなかった。夜の七時ごろかな、急に幹部連中から、女の子を全員監視下に置けと命令が入ったんだ。非番で遊びに行っている子もいるし、無茶な話だよって思いながら、俺たち連絡を取り始めたんだ。だけど奈緒だけが部屋から出て行って、消えちまったんだ。
奈緒はよ、借金背負ってたから、グロウで借り上げたアパートに閉じ込められていたんだ。だから一番行方が掴めやすいと思ってたのさ。でも監視役がバカでよ。一発やらしてもらったら、付き合ってると思い込んじまったんだ。それで恋人気分で夜に散歩へ出かけたら、逃げられちまったってわけさ。あの女、黒岩が殺られた時点で、自分も危なくなるってわかってたのさ。
同時に板倉と安原っていう、拓真さんの補佐役をやっている男二人も消えちまった。こっちの方は何も騒いじゃいなかった。みんなはきっとあの二人が下手を打って、消されたんだと噂していたよ。
そのうち女の子連中から、画像が流出したらしいっていう話を聞いたのさ。それが何かわからないが、どうも安原と金村が撮影してそれを奈緒が持ち出したんじゃないかって言うんだ。板倉と安原ってのは最低な奴でさ、店で立場の弱い女の子を無理矢理やっちまうんで、女の子からは憎まれていたよ。奈緒もやられてたらしいんだ。奈緒は連中のマンションへ連れ込まれてたときに、こっそり画像をコピーしたんじゃないのかっていうのが、女の子の見立てだよ」
「画像の中身は何なんだよ。眠っている男の髭を引っ張ってる画像が、なんでヤバいんだ」
「眠っている男か。画像の中身は俺も見たことないんだ。内容は今お前から初めて知ったぐらいさ」
「画像に何か心当たりはないのか」
「全然わかんねえよ。昏睡強盗なら気づいた奴らが騒ぎ出してるだろうし、殺すなら眠らせる必要はないしな」
「これで話が止まっちゃったわね」
「荒川さんが来るのを待つしかないか」
「とりえず、カップラーメン食べない? あたし、おなかがペコペコ」
麻衣子が電気ポットのコンセントをつなげて、ペットボトルの水を注いだ。
「みんなどうする? 食べるなら一緒に作るわよ」
「俺はいらない」
「俺もいらないけど、水をくれないか」
「はいよ」
水を注いだ紙コップを貴斗に渡した。貴斗が苦痛で顔をしかめながら首を上げ、紙コップの水をすすった。
そのとき、不意に玄関チャイムが鳴った。全員の視線が一斉に玄関へ向く。貴斗がむせて、紙コップを取り落とした。
「誰?」動きが止まった麻衣子が、こわばった表情で呟く。
この場所を知っているのは荒川しかいないし、荒川なら先に麻衣子の携帯電話へ連絡するだろう。
「宅配の兄ちゃんが、間違えてこの部屋のチャイムを押しているんじゃないのか」
「そうかもしれない」
チャイムは繰り返し鳴っている。伸也は立ち上がり、恐る恐るインターホンのスイッチを入れた。
「え?」
モニターに、にこやかな表情でカメラを見ている中年男が映っていた。くすんだ緑のジャンパー姿で、シジミのようなつぶらな瞳に浅黒い肌、目尻に皺が寄っている。今日は黒のニット帽を被っているが、髪の毛は地肌が見えるほど薄いはずだ。
「北村さん」
「この人、知ってるの?」
背後から、怯えた顔でのぞき込む麻衣子に頷いた。
「俺、共進会でダンスを教えているだろ。その時に教えていた人だよ」
「本当なの?」
「ああ、間違いないよ」
北村公威。五十四歳で透明症を発症し、共進会でリハビリをしていた男だ。
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