第一部 ゴースト 11

 浅田インターチェンジで首都高を降り、市街地へ入った。住宅が建ち並ぶ通りをゆっくりと走る。午前三時、家々は静まりかえり、人々が活動している気配はない。


「ここだわ」


 明かりの点いた建物があった。コンクリート造りだが、ひどく古ぼけていて、壁の塗装が所々で剥げているのがわかる。ただ、「中野医院」と表示された看板だけは新しく、違和感があった。麻衣子が駐車場へ車を止めたので、車外へ出た。足を引きずりながらくすんだアルミの引き戸を開けた。そこは待合室になっていて、白衣を着た中年の男がベンチへ座っていた。


「今晩は」


 恐る恐る声を掛けると、男は穏やかに微笑んだ。「宮本君ですね。医師の中野です。怪我をされたのはあなたですか?」


「はい、もう一人重傷がいるんです。今から連れてきます」


「私もいきましょう」


 二人は外へ出てハッチバックへ行き、後部座席のドアを開けた。貴斗はすでに胸まで血に濡れていた。


「動けるか」


 貴斗は無言で頷いた。歯を食いしばり、うめきながらも自分で車外へ出た。建物の中へ連れて行き、待合室の奥にある診察室へ行き、診察台へ寝かせた。伸也は椅子に座っているよう指示された。中野ははさみを持ってきて、貴斗が着ていたトレーナーを首元から切り始める。あらわになった傷口を見て、中野が顔をしかめて振り返る。


「彼は槍にでも突き刺されたのですか? 何かが肩を貫通して、二センチくらいの穴が開いています」


「それが……僕もどうして彼が傷を負ったのかわからないんです。突き飛ばされるようにして倒れたと思ったら、そんな風になっていたんです」


「鎖骨がぐちゃぐちゃだが、幸い動脈は外れている。もう少し下なら即死だったよ。本来ならもっと大きい設備の病院で治療した方がいいんだが。きっちり処置しないと後遺症が残る可能性がある」


「だめだ、警察に捕まると、俺たちは消される」


 うわごとのように呟く貴斗に、中野は眉根を寄せた「物騒な話をするね」


「頼むからなんとかしてくれよ。痛くてたまんねえんだ」


「わかった。ここでできうる限りの人はする」


 中野は棚へ行き、機材を取り出し始めた。




 貴斗は隣にある手術室へ連れて行かれ、手術を受けた。奈緒は奥にある病室へ連れて行かれ気分安定薬を投与されて眠っていた。伸也には「遅くなって済まなかった」と言いながら、処置をしてくれた。すべてが終わった頃、すでに六時が過ぎていた。


「ありがとうございます」


 立ち上がろうとした中野を、伸也は無言で見つめた。


「何か?」


「あの……中野さんはどうして僕たちを助けてくれたんですか? 深夜にたたき起こされて、しかも警察に通報しないでという僕たちの願いも聞いてくれたし」


「腐れ縁という奴ですか」中野は静かに微笑んだ。「荒川さんとはいろいろありましてね。詳しい話は彼から聞いた方がいい。さっき連絡しましたから、もうすぐ迎えに来るでしょう」


「伸也、荒川さんから電話があって、今からあたしたちを迎えに来るって」


 待合室から、携帯電話を持った麻衣子が入ってきた。


「俺も中野さんから聞いたよ」


「匿ってくれるらしいわ。どこへ連れて行ってくれるかは教えてくれなかったけど」


 伸也は不安な目で中野を見た。


「大丈夫、荒川さんは君たちの味方だ。きっと助けてくれる」


 微笑む中野に返事をせず、伸也は目を逸らした。


 荒川との付き合いは五年目になるが、プライベートの話は一切したことがない。過去にいくつものメディアからインタビューの依頼が来ていたが、すべて断っているという。


 透明症ダンスを考案して、世界中に広めた立役者だ。やり方によっては名声と巨万の富を築けたはずだ。それを惜しげもなく、ネットへダンスのノウハウをアップしてしまった。同業者の話だと、透明症の息子と一緒にダンスの研究をしたが、息子は事故で亡くなったという。ただし、真偽は不明だ。


 三十分ほどすると、入り口の引き戸が開く音が聞こえ、背の高い男が入ってきた。ブラックのタートルネックセーターにブックジーンズ、頭髪がやや薄く、皺の深い顔立ちに鋭い眼光。荒川だった。


「急な頼みで悪かった」


 中野を見てぶっきらぼうに呟き、視線を伸也に向ける。「貴斗と栗山さんはどこだ」


「奥の病室で寝ています」


「安全な場所へ移動する。担架を貸してくれ」


 貴斗は担架に移され、荒川が乗ってきたボルボのSUVへ乗せられた。奈緒は麻衣子に肩を担がれて後部座席へ座った。


「中野さん、いろいろありがとうございました。このお礼――」


 中野が手で制した。


「僕に対する最良のお礼は、君たちがここで治療を受けたことを忘れることです」


 穏やかな口調だったが、わずかに目の奥で、氷のような冷え冷えとしたものが垣間見えた。


「その通りだ。もう行くぞ」


 素っ気なく言い放ち、荒川が出て行った。伸也は中野に改めてお辞儀をして、慌ててついて行く。


 伸也が助手席に座ると、間髪入れず荒川はギアをバックに入れて、駐車場から出た。麻衣子が運転するレンタカーが後から付いてきた。


 すでに朝日は昇っていたが、まだ通勤ラッシュは始まっていないので、首都高の流れはスムーズだった。東京に着き、レンタカーを返却して麻衣子も荒川の運転するボルボへ乗り込んだ。


 ボルボは再び首都高に乗り、江戸川を超えて京葉ジャンクションで降りて、市街地に入った。五分ほど走ったところで左手に見えたマンションの地下駐車場に入る。荒川はエンジンを切り、全員降りるよう指示した。エレベーターに乗り、五階で降りた。足早に進み、突き当たりに近い部屋の前で止まり、カードキーを取り出してドアを開けた。


 室内には照明かあるものの、調度品は一切ない、がらんとした空き部屋だった。リビングに当たる部屋には板張りに布団と寝袋、電気ポットやカップラーメンの箱がおいてあった。


「それを敷いて貴斗を寝かせてくれ」


 言われたとおり布団を広げ、担架から貴斗を移動させた。


「しばらくここで待っていてくれ。状況が改善したら連絡する」


 そう言って、荒川は伸也に部屋の鍵を渡し、出て行った。心身共に疲れ切った伸也は、ぺたんとその場へ座り込んだ。麻衣子が荷物を改める。


「当面ここで隠れていろって事ね。荒川さん、どうしてよくしてくれるのかしら? 貴斗を見ても嫌な顔一つしなかったし。それにあの中野っていうお医者さん。しゃべり方は丁寧だったけど、逆に怖くなっちゃう。あの時間帯にたたき起こされて治療をするんだったら、もうちょっと不機嫌でも良かったんじゃないの」


「そうだよな。助けてもらった人にあれこれ詮索するのも気が引けるけど、確かにおかしいよ。ただな」


 伸也は大きくあくびをした。


「ちょっと疲れて頭が回らないんだ。少し休ませてくれ」


 寝袋へ潜り込み、横になった。拉致されたときの恐怖は未だに残っていたが、痛み止めの注射が効いてきたのと、マンションへ来た安心感で、どっと疲れを意識し始めていた。薬のせいか、酒に酔ったように、思考がぼやけていた。

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